……かつて自分の名を呼び、ただ傍に居てくれることが、どんなに救いとなった事か。
お前は、知らないだろう。
勾よ――――
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勾が天孤凌壽によって殺めかけられたときの事は、今でも鮮明に覚えている。……忘れるはずがない。
俺はあの時、天空の命があったからではなく、当然のように自分の意志で彼女を止めに行った。自分は十二神将最強にして最凶。そして彼女はその二番手であり、闘争本能だけとなった彼女を止められるのは自分しかいないという、義務感に似たそれも確かにあった。
だが大部分を占めるのは、彼女が自らにとって大切な存在であると気付いたからだった。
彼女を助けたい、と。――失いたくない、と強く思った。
死の衝撃を感じた時、信じられない思いが胸中にあった。
まさか、あの勾が、と。
その時初めて、彼女を失うことの怖さを痛感した。
同胞で最も近しく、信頼している存在。……無意識に心の縁(よすが)に、していた。
思えば昌浩が生まれる前、常に自分の傍に居たのは彼女だった。他者を拒み続けていた自分に、それでも近づいて。あの時は何も思わなかったが、昌浩が生まれてから、その温もりの大切さに気がついた。
今思えば、それがどれだけ俺の支えになっていたことか。
俺はその温もりを知って、孤独を知って弱くなり、護ることを知って強くなった。
昌浩と出会って、確かに俺は変わったのだろう。だが、そもそもあの嬰児が持っていた光や温もりに気がつけたのは、一重にそれまでささやかにそれらをくれていた、彼女のおかげ。
それなのに、そんなに大切な存在であることを、俺は失いかけるまで気がつけなかった。……隣にいることが、当たり前だと感じていた。
彼女も自分も人界にいることが多くなった故に、自然と彼女と過ごす時間が増えた。だがその時緩やかな暖かさと共に感じていた感情の名を、俺は知らなかった。
今ならわかる。その感情の名が。そして、それがいかに脆いものなのかということも。
――それは、『幸せ』という名の感情。
それにようやく気が付いたのが彼女を失いかけてからなど、嗤えすぎて話にならない。
……幸せなんて、本当に儚い、もので。
何ひとつそこにあって当然のものなど、ありはしないのに。
同胞で初めて、手を差し延べてくれた。居なくなるなんて考えもしなかった。
まさか――死別となりかけるなど、思ってもみなかったから。
あの時感じた、深い深い喪失感。それを再び埋めたのは、俺にとっての道標でも光でも誰でもなく、死の淵から還ってきた彼女。
その場所を埋められるのは彼女しか居なくて。彼女でなければ駄目で。
「勾……慧斗」
消えかかったその名を、呼ぶ。
「…お前が生きてて、よかった」
血を吐くように、紅蓮は呟いた。
「よかった…」
掴み続けていなければ、守り続けていなければ。大切なものなど、簡単に手から零れ落ちる。彼女を守るなど滑稽だが、せめてその一筋の暖かさを、傍に居て掴み続けることを願うのを彼女は許してくれるだろうか。
そう思って、嘲笑した。…答えは否に決まっている。掴むどころか触れることすら出来はしない。
真っ赤に染まった、この手では。
咎を犯し罪にまみれたこの手では、何者にも触れることなど出来はしない。
昌浩や晴明は、それでも笑って手を差し延べてくれたが、これ以上は。
――彼女だけは。
何物にも染まらぬ黒曜が、紅く染まることなど望まない。
なのに、お前は。
それでも俺の隣に来て、微笑んで。それでも俺に「力を貸す」と言った。
あれが公平で在ろうというのは知っている。だが。
罪人にすら優しく手を差し延べた女神に、俺は――――。
(この手をつかむ、それは。
とても優しい女神の手でした。
その優しさがあまりに暖かくて、思わず握り返しそうになった。
……でも。
掴むことなど赦されない。
きっと、それが俺に課せられた血の、咎)
―――――――
なぁ、勾。
その手を握り返したかった。だが、そんなことは誰も赦しはしないから。
そのかわりに、唯一つの『名』にこめる。……決して伝わりはしない、想いを。
行き場を失くしたその声は、寂しさ湛えたその瞳に、込められた。