庭に出た瞬間、だいぶ暖かくなった日差しに目を細めた。あちこち凹んだ今時珍しいブリキのじょうろが鈍く光を反射する。
 まだ少し冷たさを残す春風に黒髪をなびかせて、勾陣は少し感覚を空けながら庭に咲く種々の花々――パンジーやデンファレなど――にじょうろを傾けた。花自身は水に弱いから、目一杯育ったそれらにはなるべく水がかからないように注意する。葉を少しかき分けると、土は一瞬にして恵みの雨を飲み込んだ。
 花に水をやり終えると、勾陣は隣のまだ芽の状態の花にも丁寧に水を与え始めた。アパートの前の小さな庭に虹が咲く。水が止めばすぐに消えてしまい、手を伸ばしても決して触れることの出来ない儚い七色だ。だからこそ、その美しさに惹かれるのだが。
 庭先でガーデニングなんて、我ながら似合わないと思う。別に自分に女らしさというものが皆無だということを今更気にしたわけではない。単純に、ふとしたきっかけで花に惹かれたのだ。気まぐれと言えば気まぐれかもしれないが、それに熱中しているのは確かだ。だからガーデニングが出来るこのアパートに越してきた。それが去年の秋のことだから、この庭に花が咲いたのはこれが初めて。今まで鉢植えでしか育てられなかったものが、太陽の下、地面にじかに育てられるというのはやはり嬉しいものがあった。
 一帯の土の色が変わり、だいぶ軽くなったじょうろを持ち上げる。
 夏用の花に、そろそろ肥料を与えようか。ここの土壌がどうなっているのか、実はまだ詳しくはわかっていない。“プチガーデニングも出来る!”という謳い文句に釣られて越してきたのは確かだが、痩せた土地を無理矢理それっぽく見せている、ということも考えられなくもなかったりする。今植えている花々がすくすくと成長したということはきちんとした土だろうと信用しても大丈夫な気もするが。
 まだ様子見だな、と結論づけ、勾陣は家に戻ろうと踵を返した。

 ――その、一瞬。


 風に、揺れた。

 視界の隅、白いモノ。


 はっとして立ち尽くした。わずかに残ったじょうろの水が、ぽちゃりと弾けて音を鳴らす。
 目に映ったのは、白くて背の高い花。
 記憶を掠めるあの尻尾のように、花壇から離れた庭の隅に、今まで誰にもきづかれず、忘れられたように咲いた、花。
「――――っ……!」
 知っている。あの花を、私は。
 いっそ綺麗と言えた紅(あか)の世界。伸ばした手に刻まれた拒絶の傷痕と、全てを許容した諦観の微笑み。色褪せて、霞みかけた記憶の中にただ一つ凜と残る、ずっと忘れていた、花――。
 チリ、と癒えない傷が疼く。
 無意識にじょうろを握る左手を押さえ、勾陣は半ば呆然と呟いた。
「…………ぐ、れん……?」


「――――どうした?」


 背後からかかる声。瞠目して振り向くと、馴染み深い色彩が窓からこちらを窺うようにして見ていた。
 あぁ、あのいろ。私が安心する、あのいろは――。
 一瞬目を閉じ口元に笑みを乗せて、「なんでもないよ」とうそぶくと、彼は引っ掛かりを残した風な表情をしながらもそれ以上追求しては来なかった。私の呟いた言葉は聞こえなかったらしい。ただ、念を押すように「……言いたくないなら無理にとは言わないが、何か抱えてるんなら、話せよ」と言うと身を翻した。
 だが数歩のところで、内心安堵していた勾陣に「あ」と振り向くと、そこで言い忘れていたかのように呼び掛けた。

「“勾陣”」

 心臓が、奇妙に跳ね上がる。

「昼飯出来た。キリがいいところでお前も来い」
「……あぁ」
 掠れた声で返事をすると、今度こそ彼は去っていった。
 ひとり残された勾陣は、ふらりと壁にもたれ掛かると再び視線をあの白い花に当てた。
 私はあの花を知っている。だって昔、見た。

 あれと、一緒に。

 今はもう散った、紅の蓮と一緒に。



 ――“紅蓮”はもうこの世にいない。いるのは再生した“十二神将火将騰蛇”。だからつまり、『彼』は――。



 勾陣は堪え切れずに「……違うんだ」と呟くと、一度ぎゅ、と左手を握り締め、『彼』の後を追った。



==================


 千年前、彼女にとっては二度目の衝撃が、その身体を貫いた。


 初めての主が儚くなって、すぐその孫も眠りについた。
 私達は晴明とその孫の願いと、何より自分らの意志でその後も安倍家の守護を務めていた。
 兆候なんて何もなかった。だって光も導も失った彼は、始めの主が旅立った時にはもう心構えをしていたように見えたから。
 でも結局彼は月だった。光を受けて輝いているように見えても、その実裏側は傷だらけだったのだ。
 あの時私は異界にいた。何をするでもなく、ただいつものように虚空(そら)を見つめていた。
 思えばあの時、もっと疑問に思えばよかったのだ。私が居た場所、つまり下界に降りなくなった紅蓮が常ならば居た場所に、その日に限って彼が居なかったことを。彼の姿を認められなかったとき、何故か心がざわついたことを、もっと気に留めればよかったのだ。
 それは突然だった。突然、過去のそれよりも遥かに強大な衝撃が身体を貫いた。
 心臓がどくんと脈を打ち、呼吸が出来なくなる。それが彼の死を伝える衝撃だと理解したのはその一瞬後。
『……っと…だ……!?』
 絶え絶えに言葉を吐き出して、気が付けば直感の赴くままに走り出していた。
 どうやってたどり着いたのかなんて覚えていない。ただ、その次に理性が捉えた映像は、その身が自らの業火に包まれた紅蓮の姿だった。
『騰蛇!? なにをやって……っやめろ!』
 止めるために放った神気は、しかしその炎に敵わない。むしろ相性のいい土の気を受けた炎は喜んだようにその勢いを増した。
『しま……っ!!』
 とうだ、と叫びながらわけもわからず手を伸ばした。炎の熱さに歯を食いしばりながらも伸ばしたそれは、後少しで触れられるというところで白炎に拒絶された。
『と……っ!!』
『……悪い』
 微かに聞こえたその声に、両足が地面に縫い付けられた。火傷を負った左手を押さえることも出来ず、凍りついたように声も出せなかった。
『……勾』
『っ……!』
 目を、見開く。彼が湛えていたのは、全てを受け入れながら全てに傷付き、全てを諦めた微笑みだった。
 彼の唇が何かを紡いだ。それが何かを聞きたくて、見えない糸に搦め捕られた足を無理矢理一歩踏み出すと、炎が一層大きくうねった。思わず閉じた目をこじ開けると、次に視界を埋めたのは完全に炎に飲み込まれた彼が――否、彼であった粒子が寄りどころを亡くして炎と共に霧散して空に消える様だった。
『……っぁ…………』
 ――どうして?
 微かに遺った燻る炎の残滓の元へ足を引きずりながら行く。彼が居た場所にくずおれ、最期に昇っていく粒子を掴もうとして、それすらも空を切る。
 記憶の最後を彩るのは、ぼやけた夕日と舞う粒子に何かが頬を伝う感触、そしてそれが左手の甲に負った火傷にぽたりと落ちる感触。そして、
 かつて彼と見ながら微笑んだ、あの白くて背の高い花だった。


 ふと気がついたら変わらない無機質と泣きじゃくる天后の姿があった。あのあとのことを尋ねると、私はあの場で気を失っていたらしい。それを後から来た太裳が異界に運んだとか。
 だが私にとってそれより重要だったのは、紅蓮の代わりに生まれた新しい“騰蛇”のことだった。
 天后の制止も留めて会いに行った。あれの代わりの“火将騰蛇”に。
 会いに行って、言葉を失くした。


 新しく生まれ変わったはずの彼は、先代のそれと寸分違わない姿をしていた。



====================

 ふつり、と夜中に目が覚めた。まだ部屋が暗いから、眠ってからたいして時間が経っていないのだろう。
 上から規則正しい寝息が聞こえる。隣で眠るその男に、寝返りを打ってとんと頭を預けた。
 今私と共に居るこれが『二代目』の騰蛇だ。彼は二代目であることを忘れそうになるくらい紅蓮と――光や導と出逢った後の彼と同じだった。姿も、声も、その不器用な性格までも。
 ただ一つ違うのは、彼には生まれる以前の記憶がないということ。つまり、姿形は同じでも、彼には咎を犯した事実も記憶もないということ。紅蓮のようでありながら、紅蓮が抱えた痛みも孤独も、主らがくれた光も何もかも知らないということだ。
 目を閉じる。先の一瞬ですっかり覚醒してしまったのか、眠気はまだやって来そうになかった。寧ろ昼間見たあの花が鍵となって閉じていた昔の記憶の紐が解かれていく。
 哀しい愛(かな)しいその記憶が、無意識に脳裏に流れていった。



 ――私は先代騰蛇が、紅蓮が好きだった。それこそ彼が紅の蓮の名を冠する前から。だって彼は欠けていたから。傷も孤独も抱えてなお、存在している月に惹かれたから。
 全てを拒絶したその瞳に映りたかった。与えられた実力以外においても彼の背中を預かるに値する人物になりたかった。
 そしてそれが叶ったと思っていたのは、どうやら勝手な思い込みだった。彼をすくい上げた二人の人間が儚くなったあの時、代わりの支えとなれると自負していたのは単なる驕りだった。
 でなければ、どうしてあの時彼は死んだというのだろうか。
 皮肉なことに、私は二代目の騰蛇とも心を通わせた。姿形声性格全てが同じなのだから当たり前かもしれないが、私が何より惹かれた“欠け”が失くなったのに、どうして私はまた“騰蛇”に惹かれたのだろう。
 重ねるには歪過ぎた。だって彼は、全てが満たされている本来あれがあるべき姿だったのだ。
 ――それを望んだのが、私だから、だろうか。
 とにもかくにも、何も知らない、けれど私達にとっては歪過ぎる彼を今度こそ独りにしないことが、自分勝手に押し付けた贖罪だった。
 伸ばした手が届かない。もうそんな思いなんてもうしたくないから。
 二代目の彼はやはり優しいままの騰蛇だった。自分の力を理解し、自分勝手にその最強の力を行使することを嫌う。自分の力を疎い憎む、とまでは行かないが、必要以上の争いは好まない。青龍や天后の複雑な心境をどこと無く察して距離を置く。先代の彼が傷付いた月なら、二代目の彼は慈悲深い太陽のような存在だった。
 だからこそ私は歪な彼に惹かれて、彼もその歪な想いを受け入れてくれた。
 彼は私が先代騰蛇に惹かれていたことを知っている。私が彼を通して『彼』ではなく『紅蓮』を見てしまうことを知っている。だが、それを知ってなお私を受け入れてくれる彼が皮肉にも愛おしかった。
 いつだっただろう、先代騰蛇が死んだあの場所に、もう一度だけ訪れたことがあった。
『……――――』
 そこにあるのは規則正しく揺れる花。風と唄うように揺れるあの白い花。
 あの紅い紅い景色の中、白いまま目に焼き付けられた花だった。
『……この、戯けが』
 どうしてこの場所で死んだ。どうしてこの場所を選んだ。この場所は……。
 折ってしまおうと手を伸ばす。しかし力を篭めても思った以上にしなやかなそれは折れることはなかった。
 込み上げてくる何かを必死に無視したくて、思わず唇を噛み締めた。
『……っ私は、勝手に死ぬような輩など嫌いだ……』
 何も言わずに死に逃げる奴なんか、大嫌いなんだ。例外なんか認めない。認めてやるものか。
 風に煽られて唄う花と同じくらい揺れた声で、見えない想い人を責める。
 言葉は言霊だと言う。ならば本当になってしまえばいい。言葉を紡いで自分に言い聞かせた嘘が真のものになればいい。
 そうすれば私は二代目の騰蛇にも、公平で公正で居られる。
『……もう来ないからな』
 嘘を本当にするために。嫌いな奴の墓参り――否、墓などないのだけれど――なんてしてやるものか。
 折れなかった花を記憶に刻み付けて、ふっとその場から姿を消した。



 それからこれほど二代目騰蛇と心を交わすまで、誰と居ようが心の空虚さが私から消えることはなかった。
 ただ、それを抱えている間ずっと、ふと気がつけば傍にあの白い花が揺れていた。
 忘れないでと、自分の分まで生きてくれと言わんばかりに。
 身勝手だと思う。自分は死んだ癖に、まるでそれを忘れさせないようにあれを彷彿とさせるものを傍に置くなんて。

 ……でも、それは、誰のためだろう? 



 ぎゅ、と騰蛇の服を掴む。
「……紅蓮」
 それは、千年前に封印したはずの名前。彼の前では決して紡がないと決めたはずの名前。理性的に“騰蛇”に接する為に。嘘を誠にする為に。
 どうして今、あの花に出逢ったのだろう。生きる意味を無くしたようにさえ思いかけたあの心の洞(うろ)を、やっと“騰蛇”で埋められた今。
 自問した答えに、は、と気づいて、案外重たくなっていた瞼を少しだけあげる。
「……もし、かして…」
 お前は、知っているのか、紅蓮。
 だから――。


 意識がようやくやって来た眠りの淵に引き込まれる中、瞼の裏にただひとつ浮かんだのはやはり凜として揺れるあの白い花だった。



 
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