夜空に光る夏の大三角。
 あれを見るたび、どうしてか不安になる。
 不安、或は、寂漠。
 他の星は平気なのに、どうしてあれだけこんな気持ちになるのだろう。

 もう、七年間もその答えがわからずにいる。




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『……――て…だ?』
『…な。多分――――』
「……そうか。まぁ――――よ』
『……んだ…れ』
『…のま……だ。ほら、……―――』
『あぁ。……ありがとな、』


『――――勾』


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 そこではっと目を覚ます。数秒頭が真っ白になって、だんだん目に入ったのが仄めく自室の天井だと理解(わか)ると、無意識に止めていたらしい息を大きくゆっくりと吐いた。
「また…あの夢か……」
 ずっと、そう。あの星を見た夜は、必ずこの夢を見る。
 あれはどこだろう。“私”と誰かが話をしていて、なのに何故だか私はそれを傍から眺めている。“私”は私と認識出来るのに、話し相手は霞んでいて誰だかわからない。距離があるのか会話もうまく聞こえない。朧げな映像と微かに聞こえた声でおそらく男だということは推測出来たが、それ以上は全て謎。
 あれは誰? 自分に問うてもわからない。かといって相手の特徴が全く掴めていない以上、誰かに尋ねることも出来ない。
 ――いや、ひとつだけ、彼を特徴付けるものがあった。

『ありがとな、――勾』

 私を、苗字でも名前でもなく『勾』と呼ぶこと。
 そこだけはっきり私の記憶に残る彼の台詞。遠くて表情などわからないはずなのに、脳裏には弧を描く彼の唇が鮮やかに焼き付いている。
「…………お前は、誰なんだ?」
 私を不思議な響きの名前で呼ぶ、お前は。



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 私には空白がある。
 まるでひとつだけピースの欠けてしまったパズルのように、何かが、何かのことについての記憶が抜け落ちている。しかも自分にとって大切な部分が。
 七年前、私はある日足を踏み外して階段から落ちたことがあった。幸い大した怪我はなかったが、打ち所が少々悪かったらしく、そのまま意識を手放してしまった。
 そして目を覚ました瞬間、感じたのは違和感だった。
 無機質な病院の天井よりも、独特の薬品の臭いよりも、親友の天后の声よりも先に感覚が捉えたのは言いようのない違和感で、
 ――――え?
 何かがなくなった。何かを、失くした。直感的にそう思った。何かがからっぽになって、でもそれがなんなのかわからなくて、始めはそれが空白であることも理解出来なかった。
 身を包むのは泣きたくなるほどの喪失感。
 しばらく隣の天后の声が一切聞こえなくなるくらいに、それを失くした衝撃は大きかった。
 私は事故の後まる二日間目を覚まさなかったらしい。だから念のため、とその後の数日の検査入院と医師の診察により、それが頭を打ったショックによるある種の記憶喪失だということがわかった。その空白以外はちゃんと覚えているし、自分のことも天后のことも、過去現在の身の回りのこともきちんと思い出せるが、そこだけぽっかりと忘れてしまったようだ。
 そしてそれには私の意志も関係しているかもしれないと、医師は続けて言った。
 外傷と同じく、こちらも幸いにして失くした記憶以外はなんともなかったため、私はすぐに退院出来た。――未だ付き纏う喪失感を残して。
 おかしな話だ。こんなに私はこの空白に虚しさを感じるのに、これを忘れたのは私の意志かもしれないなんて。
 言うなれば、忘れたかった大切な想い。一見矛盾しているそれは何だと言うんだ。
 心に空(うろ)を感じながら虚空を見つめる。未だ埋まらないそれに寄せられた意識はだんだんとまどろみに姿を変え、私はいつのまにやら再び眠りの淵に身を沈めていっていた。



 次に覚醒したのは夢によってではなかった。
 最近お気に入りの着うた。妙に歌詞が共感出来て、暇があれば聴いている。
 それが示すのは電話着信。アドレス帳に登録してある人物しかその曲は流れないため、ろくに相手も確認せずけだるげに応答した。
「……もしもし?」
『あ、もしもし慧斗?』
「…………天后?」
 軽く目を瞠る。久しく聞いていなかった親友の声に、一気に意識が覚醒した。
『ごめんなさい、寝ていた? 慧斗なら起きているかと思ったんだけど……』
「いや、大丈夫だ。気にするな」
 始めの声がいかにも寝起きだったからか、心配性の彼女は申し訳なさそうに尋ねてきた。目覚ましで時刻を確認すると午前九時半を回っていて、確かにいつもの自分なら起きている時分だ。
「で、どうしたんだ? お前が電話をしてくるということは、何か用事があるんだろう?」
『えぇ……。……ねぇ、慧斗』
 控えめに発せられた言葉は、滲んでいた感情とは裏腹な言霊だった。





『日曜日、空いてないかしら』





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 飛行機が離着陸する音とそこに集う人々の声で、なかなかに空港は騒がしかった。
 数日前、電話で付き合って欲しいところがあると請うて来た親友は何故か浮かない顔をしていた。というより、喜んでいいのか悲しんだ方がいいのかわからないといった感情を秘めているように思えた。話かけても無理をして笑っているようにしか見えず、言ってしまえば何かを抱えているように見えるのだ。
 やがて彼女は目的地に着いたのか足を止めた。手紙のようなものを元にたどり着いたらしいそこは、着陸用ゲートの傍だった。
 近くに置いてあったベンチに腰掛け、彼女は時計を見て「あと三十分」と呟いた。だがそれ以降はだんまり。あまりに様子のおかしい彼女を見兼ねてついに私は理由を尋ねた。
「天后、お前が行きたかった場所はここなんだろう? どうしてそんな顔をしてるんだ」
「……慧斗」
 隣に座る彼女は、俯いていた。ぎゅ、とその両手を握り締める。
「私が今日、此処に来た理由、……覚えて、いますか」
 わかりますか、ではなく“覚えて”いますか。敢えて選ばれたであろうその言葉が引っ掛かって瞬間言葉に詰まった。
 いや、と首を横に振り胡乱げな表情をする私を見て、彼女は固い面持ちのまま再び口を開いた。
「八年」
「え?」
「八年、経ったのよ。――あなたが記憶をなくしてから」
「っ……!」
 ドクン。心臓が奇妙に脈を打つ。
 八年前。私がまだ中学生だった頃。踏み外した階段。無くした意識。感じた喪失感と、
 欠けてしまった、パズルのピース。
 あれは確か、夏の終わり。夏休みも終わって二学期が始まっていた。ひゅうひゅうとした渇いた風が身も心も冷淡に撫でていき、仄かに色付き始めた紅葉が病院の窓から見えた記憶がある。
 季節は巡って次の夏。街頭の少ない寂しい道で、ふとぼんやりと見上げた夜空。都外れでも見える明るい星の中、一際目立って浮かんでいたのは夏の大三角。
「……っ…!!」
 ひゅっと息を呑む。頭が痛い。心が、いたい。思わず道端に膝をついた。
 痛い。いたい。どうして? 何がこんなに痛いんだ? 痛い、いたい。知っている? あの星を。あぁ、知っている。私はあの星を知っている。だから淋しい。……淋しい? どうして?
 永遠に続くかと思えた問答の中で、ふと私は心の内に懐かしいと感じる映像を見た。けれどあまりに心がいたくて、この痛みから解放されたくて、だからそれを見た途端に、――壊した。
 この欠けが埋まりそうだったのに――でもそれ以上に失う気がして――刹那懐かしいと思ったあの姿も――聞きたいと思ったその声も――何もかも私は知っているはずなのに――それらを全て否定して欠けの中に封印して――安心、した。
 映像を壊すと痛みは驚くほどすっと治まった。肩で息をしながらふらふらと立ち上がって歩き出す。夏の暑さのせいではない嫌な汗をじんわりとかいていて早く家に帰りたかった。
 安堵を感じたはずなのに、淋しさは相変わらず私に纏わり付いていた。
 その日から私はあの夢を見るようになった。心の中の私が、忘れるなとでも言いたげに。
「ねぇ、慧斗。私はあなたに、謝らなくちゃならないことがあるの」
 唐突な言葉に思考の渦に沈んでいた意識を引き上げると、今にも泣きそうに震えた天后の姿があった。
「謝る? 何を……」
「私は、ずっと知ってたの。知っていて、隠したの」
 唇を噛み締める彼女の眦は、もう大粒の涙を湛えている。
「慧斗に夢の話をされた時、私本当は心当たりがあったの。……いいえ、確信さえしたわ。その相手が誰であるか」
「な……っ!? じゃあどうして隠したりなんか」
「怖かったの!」
 突然放たれた大声に気圧されて、言葉を呑んだ。
「私は慧斗がどうして記憶を無くしたかも知ってたの! だから、記憶を取り戻したら今度は記憶喪失じゃ済まなくなるんじゃないかって、思って……!!」
 怖かったの、と繰り返す彼女は迸しる感情を吐き出して既に泣いていた。泣きながら、ごめんなさいと言う。七年間も隠し事をしていた贖(あがな)いに。
「……あなたの夢の中の人物、それはあなたのとても大事な人」
 必死に嗚咽を飲み込んで、私の中に彼女はあの時壊したピースのカケラを零していく。
「覚えて、いない? 八年前の夏、みんなで一緒に星を見に行ったこと」
「星……」
 八年前の夏と言えば、私が足を踏み外した事故の前。――その事故の直前の、夏。
 思いを馳せると声が聞こえた。あぁ、覚えて、いる。
『あれがデネブ、アルタイル、ベガ。所謂夏の大三角だな』
 あの時壊したはずの記憶。無邪気な声で指を指す、楽しげなひとつ隣の彼。確か私は、何も言えなくて。押し寄せる淋しさと泣きそうなのを必死に誤魔化した。
 ピースの輪郭が浮かぶ。あれ、は――――。
「……“紅蓮”。あなたは隣の人物をそう呼んでいた」
「――――っ!」
 最後のカケラ。大切な呼び名。
 呼吸が、止まる。
 一気に駆け抜ける景色。蘇るこえ。思い出すあの日の気持ち。封印していた記憶が還って、きて。
 あぁ、でも痛くない。もう怖くない。
 完成する、パズルのピース――。

「ぐ……れ……っ!!」

 そうだ、紅蓮だ。思い出した。私はやはり知っていた。あの夢の人物を。
 あれは、あの夢は、別れの記憶だ。
 淋しくて、行ってほしくなんかなくて、でもそんなこと言えるはずなかったから、やっと自覚出来たばかりの想いを必死に殺したんだ。
 夢の中の背の高い男。彼の名は、安倍騰蛇。私が紅蓮と呼んだ、当時の――いや、思い出した今だって――私の、想い人。
「紅蓮っ……なんで、私は忘れて……!!」
「慧斗」
 溢れ出す想いだけが先行して錯乱状態に陥りかけた私を、なだめるように天后が抱きしめた。
「聞いて。慧斗の想いは、きっと自分の思う以上に大きかったの。だから騰蛇と離れてしまったあなたは、しばらく目も当てられないくらい沈んでいた。気もそぞろで、淋しさに蝕まれている状態だったの。……そんな時、慧斗は階段から足を踏み外した」
 ゆっくりと、天后が身体を離す。
「どれだけ想っていても、逢えない淋しさと伝えられなかった後悔で、消してしまいたかったんだと思う」
 静かな声音で諭されて冷静になって行く私の脳は、葬られた思い出の細部までを掘り起こして行く。
 みんなで行った天体観測。あれが最後の思い出だ。あの時やっと彼が好きだと認めて。だけどもうすぐ離れ離れになることを知っていたから、伝えることを諦めた。
 八年前、紅蓮は両親の都合でイギリスに行った。
 両親と言っても、本当の両親ではない。彼は孤児だった。本当の両親に捨てられたらしい。そして孤児院で過ごしていた彼を養子にと望んだ新しい両親の転勤で、旅出って行った。小学校への入学をきっかけに新しい両親に引き取られる前、つまり孤児院で暮らしていた頃の名が紅蓮で、引き取られた際彼の要望で新しくつけ直された名が騰蛇だった。そして私は、どうしてか紅蓮の名を呼ぶことが許されていた。
 彼は星が好きだった。星座や星の名なんかも詳しくて、あの天体観測の時は無邪気な声であれは何でどんな星だと教えてくれた。
 紅蓮は引き取ってくれた両親にかなりの恩義を感じていた。日本に残りたくてもそんな両親に負担や迷惑をかけるような真似は出来ない。だから、
「紅蓮はイギリスに行った。……いつ……帰って……」
 いくらか落ち着いた声音の、無意識に呟いた言葉にはっとなる。確か紅蓮はあの時、言った。
『多分七、八年帰って来られない』
 あれから、八年。
「そうだ、天后。あいつはいつ帰って来るんだ? 何か連絡とか貰ってないか? お前なら連絡先くらい」
「……あと、六分」
 色めき立った直後に虚をつかれた私に天后は時計を見ながら答えた。
「あと六分後。このゲートから出て来る人たちの中に、騰蛇は居るはずよ」
 六、分?
 返す言葉も忘れて外を見遥かした。ゆっくりと天后の言った内容を理解すると、目を見開きながらそれまで蚊帳の外だった飛び交う飛行機の音がやけに鮮明に捉えられ始めた。
 彼女は今日という日を知っていて、でもまだ記憶を取り戻さない私に遠慮して今までなにも語らなかった。なるべく私の本当の淋しさを感じる時間が少なくて済むように。
 逸る気持ちを必至に抑える。私は時間に取り残された気になりながら必死に耐えた。八年前のあの人に逢えるんだと思ってから急に重くなった時計の長針の腰を懸命に持ち上げた。
 そして、彼が乗っているであろう飛行機が着陸した。
 私は思わずベンチから立ち上がった。着陸したってすぐに出て来ないのはわかっている。けれど常ならば抑えられるものが、今日に限ってはそれが効かないのだ。
 ――――来た!
 ゲートからぱらぱらと人が吐き出され始める。ぐ、と重ねた両手を握り締めた。
 心臓がきゅ、と締め付けられる。柄にもなく緊張しているのがわかった。待って、待って、もしかして居ないんじゃないかと不安になりかけたとき。
 彼は、現れた。
 遠目から見てもわかる、特徴的なあの髪の色。見覚えのあるそれよりも高くなった身長。八年前と比べたら遥かに大人びた雰囲気。
 それでも彼だとわかった。
 彼を見た瞬間、全ての音が消えた。唯一聞こえるのが自分の鼓動の音で、それはやけに早鐘を打っているから凄くうるさい。
 今すぐにでも駆け出したいのに、地面に縫い付けられたかのように足が動かない。嬉しさのあまりの涙すら出ず、ただただ紅蓮を見て立ち尽くしていた。
 彼がきょろきょろと辺りを見渡す。――目が、合う。
 途端に彼が相好を崩した。向こうも私だと気付いてくれたのだ。固い面持ちであろう私に微笑みかけて、そして、言った。
「勾!」
 知っているより僅かに低い声。
 カチリ、と音がした。
 脇目も振らずに走り出す。欠けたピースが心にはまった。天后の話で出来あがったピースが、彼だけが呼ぶあの呼び名を鍵に元の位置に収まったのだ。
「――っ!」
 言うべき言葉がわからなくて無言で抱き着いた。涙なんか出て来ない。ただ驚きながらもしっかりと受け止めてくれた彼が、本当に目の前に居るのだと噛み締めたかった。
 心が暖かい。いたくない。こんなに満たされた気分になるのは、八年ぶりで
 抱き着いたまま顔を上げる。近くで見るとより一層わかる変化の中に、確かに残るあの頃の面影を見つけて、私は。

「――――おかえり、紅蓮」

 照れたような戸惑ったような表情をする想い人に、ようやくかけるべき言葉を見つけたのだった。





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もう淋しくなんかない
パズルノピースは、お前なのだから


 
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