――――好きだと言えれば、どれほど楽だっただろうか。
いつのまにか、この世に存在していて
いつのまにか、最強の名を冠していて
いつのまにか、ひとりだった
ほんの偶然、人に想われて
ほんの偶然、恐驚を司って
ほんの偶然、それが俺だった
たぶん全部、始めからそういう運命で、偶然で、いつのまにか、だった。
だから自分でさえ忌み嫌うほどの力を持ったこともひとりで居ることも、全てが不変の真実だと思っていた。
――いつのまにか、俺の前は光で満ちあふれていて、俺の周りには大切なものが増えすぎていた。
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満点の星空に、申し訳程度に月が存在感を放つ。今宵は三日月。雲に隠されてしまえばすぐにその光が消えてしまうほど淡い灯だった。
その光を、ぼうと見上げる影がひとつ。薄明かりに照らされるざんばらの髪の色は紅。瞳は鮮やかな金色で、その額にも同じ色の冠が嵌められている。
十二神将最強にして最凶。恐驚を司る火将騰蛇だ。
彼は安倍家の者がみな寝静まった後、その屋根の上で毎晩月を見上げていた。月は朔月に向かっている。朔とはすなわち新月。もうあと数日で、人の暦で月が変わると共に月読尊の加護が消える日がやって来る。
「…………」
彼は苦しげにため息をついた。
脳裏をよぎる、面差しがひとつ。それはまるで夜を溶かし込んだような、しかし闇とは異なる暖かい黒の持ち主。
ふと気がつけば隣に居た、大切な想い人だった。
主やその孫に向けるのとは違う特別な『感情』を己が内に見出だしたのはつい最近。その名前を知ったのはその更に少し後だ。
こんな感情初めてで。だからどうすればいいのかわからない。
だが、ただひとつ。この想いを、伝えてはならないということだけはわかっていた。
腕が、足りないから。大切なものを掴むための、――大切なものに触れるための腕が。
ほんの少し前まで、大切なものなど無かったのに。……いや、わからなかったのだ。彼の世界には何もなかったから。それなのに、一気に3つもそれが出来てしまうなんて。
例えるなら、自分の世界はモノトーンだった。そこにあるのは無というただひとつ。変化するなら白か黒か。戦いにおいて敵か味方か。ただそれだけだ。
なのに、その世界にある日突然色があふれだした。自分にもうひとつの名前がついてから、あちらを見ても、色。こちらを見ても、色。今でも増え続けているそれはどれもこれも眩しくて、しらないなまえのいろばかり。
自分の腕に視線を落とした。ぎゅ、と右手を握りしめる。
自分の腕は、どうあがいても2本しかない。けれども大切なものは3つあるのだ。1つの腕は1つのものしか掴むことは出来ない。2つの腕で3つのものを掴むことなど出来ないのだ。
無理に掴もうとすればきっと、3つのうち1つは自然と消えてしまうだろう。なぜなら3つの中での順位はとても明白なものだから。ならばと切り捨てるものは、迷う余地すら与えずに定まっている。
掴みたい。でも掴めない。触れることすら怖くて出来ない。その自らの願望と現実との隔たりが、辛い。
それは『彼女』もわかっていることで、だから自分達はいつまでも中間地点にたゆたっている。
この想いは、開けてはならないパンドラの箱。もしこの箱を開けようものなら、たちまち中の絶望が牙を剥く。
パンドラならば最後に希望が残る? ――否、その前の絶望で、きっと俺らは壊れてしまう。
たとえお互い識っていることでも、知らない方が、知らないフリをする方が幸せなことだってあるのだ。
――――好きだと言えば、全てが崩れそうで。
もしこの腕がひとつでも空いていて、彼女を掴むことが出来たなら。思い描いた幻想も現実のものとなるのだろう。しかしそれは無意味なもしもごっこにしかならない。この腕を埋める存在なしに今の自分は有り得なかったのだから。主と出逢わなければおそらく自分は未だ闇の中を彷徨い歩き、その孫と出逢わなければ様々な感情を知らないままだっただろうし、白黒(モノクロ)の世界にあふれる色も隠れた灰色に埋もれたままだった。彼女へのこの想いも抱くことはなかったはずだ。この仮定はそのことを意味する。だからこそ彼女には、自分ですら抗えないまま切り捨てるという選択肢しか残らない。
月の光が、寂しさを湛えて目を伏せる。細く鋭い三日月が、霞がかったようにぼやけた。
「……ずいぶん冴えない顔をしているじゃないか」
胸が、高鳴った。
ぴくり、と肩を動かして一瞬意識を声に向ける。だがそれ以上のことはしない。無言のままで居ると、声の主は隣に座ってきた。
「悩み事なら相談に乗るが?」
俯く自分と月を仰ぐ『彼女』。こちらを見ないのは気遣いなのか否なのか。
「……足りないんだ」
何でもないと言いかけた口は、しかし別の言葉を紡ぎ出した。
彼女に零すのにはあまりに利己的で、残酷な悩みだった。どうしてよりによって彼女なのか。それがわからない。なのに歯止めが効かなくなった感情は後から後から競り上がって来ては意志を無視して行動させる。
「足りないんだ。大切なものを掴むための腕が。今掴んでいるだけで、俺は精一杯、で、」
握りしめていた右手に力が入る。自らの持つ鋭利な爪が掌に食い込んで痛覚を刺激した。
「……でも、な。大切なものはもうひとつあるんだ。掴みたいのに掴めない。――俺、は……」
その先は続かなかった。あれほど口の滑りを良くした感情がすっと鎮まったようにふつりと途絶えて、ごちゃごちゃとまとまりの無かった塊が歪に吐き出されてからっぽになった。痛みを通り越して無感覚となっていた右手を開くと、そこは朱(あか)の彩りがなされていた。
言葉にあったのは“大切なもの”というぼやけた指示語だけ。具体的な人物を指し示すそれはなかった。けれど彼女は、彼が何を言いたいのかを悟ったようだった。
「随分簡単な答えの問題に悩んでいるな」
合わない視線。彼女は未だ月を仰いだままだった。
「切り捨てろ。お前が掴んでいないという、それを」
とても穏やかな表情とは裏腹にその声音はひどく固く、鋭かった。
切り捨てろと言う。自らの悩みの根源を。何をしたってその選択肢しか残らないのだからと。
残酷な、答えを。
彼女がこちらを見た。妙に凪いだ表情と、けれど僅かに揺らいだ瞳が訴えていた。
――――私は、そんなことのためにお前の傍にいるのではない。
ぶつかった視線はすぐに逸らされて、彼女は再び月を仰いで立ち上がった。
その背が表すのは拒絶、か。
すがりたかったのかはわからない。けれど、さっき吐き出してからっぽになったはずの感情が、またどこからか溢れ出して先程閉ざした口をこじ開けた。
「――俺は、お前が大切だ」
びくり、と。目に見える程彼女の肩が震えた。
「…………なんだ、薮から棒に」
振り返らない彼女の声は、努めて冷静だった。肩の震えが嘘のように。けれどそれは彼女の強がりなのだと、振り返らないそのことが示していた。
あぁ、どんな表情を、させているのだろう。
「大切なんだ、でも、」
「騰蛇」
その時ふいに身体に重みと温もりが伝わってきた。一瞬何か分からなくて思考が停止する。彼女がいた場所はずの場所に彼女はいなくて。のろのろと目線を下げると、彼女が自分を抱きしめていた。
「もう、言わなくていい。いいんだよ、……これで――いいんだ」
胸が、熱い。
気がつけば何か熱い感情が、胸の辺りで滞っている。感じたことも無いその熱に、頭の中が可笑しくなりそうになる。
三日月が黒い雲に覆われていく。脳裏を支配した想いは、
――――彼女が、欲しい。
……何を、考えている。こんな感情一時のものだ。自らの奥にしまい込んでしまえ。気づかないフリをしろ。ただ一時の感情に流されるな。
今までのように。
自分に対する厳命は、しかし心をすり抜けてどこかへ溶けていく。
だって、彼女が。こちらを見る彼女が、
いまにも、なきそうだ。
露(あらわ)にされた感情に押し流されて、最後の枷はとうとう全てを放棄した。
――気づけば、離れようとした彼女を抱きしめてその唇を奪っていた。
「――――っ!?」
暴れる彼女を絶対的な力で捩じ伏せて、強引に口づけを深くしていく。彼女の眦に、きっとそれまでとは別の意味をはらんだ冷たい雫が伝った。
触れたかった。でも触れられなかった。
でも、触れた。
カチリ、とどこかで音がした。
――あぁ、言葉に迷う必要など無かったんだ。
言霊の力はときに強く、ときにひどく儚い。
触れたかった。触れてしまった。
感情がその感覚を覚えてしまった。
それはまるで麻薬のように彼を惹き付けて止まなかった。
理性も罪悪感も後悔も、なにもかもからっぽに捨てたというのに、それでも溢れる想いはどうすればいいのだろう。
何が正しいのだろう? 枷が決壊して溢れた想いは正常な思考回路なんていとも簡単に崩していって言葉にならずに溶けていく。
三日月が完全に黒い雲に覆われた。光源を亡くした空間に明かりなど存在しない。
漆黒が辺りを覆い尽くした。舞台の幕が降ろされるように。
彼らの世界を閉ざすように。
こう、と名前を呼んだ。
それに応(いら)える声を聞く前に、彼は再び唇を重ねた。
欲しい。純粋にそう思った。
理性のカケラが最期の力でささめいた。
パンドラの箱は開いてしまった。もう後戻りは出来ないと。
その先に、あるのは――――。
それでもいいと、感情は応えた。彼女を手に入れられるなら。
――――境界線なんかとっくに越えていた。
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触れたいと思った。
今、触れた。
――そノ、先ハ?