彼女はとても近しい存在だ。千年以上の付き合いで、もう隣に居るのが当たり前になった。
 それに対する感情に名前がついて、意識し始めたのはやっと最近になってから。


 ――だから、こういう時非常に困るのだ。




===================
 紅蓮は洗濯物を干す手をふと止めた。同時に僅かに眉間に皺がよる。
 別に洗濯物に何かあったわけではない。いつも通り隅々まで綺麗に洗えていて柔軟剤のいい香りがする。
 その香りの中でまるで時が止まったかのように紅蓮は突如静止した。
 しばらくしてはっと気付き、作業を再開するがやはりすぐにその手は止まる。先程からこの繰り返しだ。2、3枚干しては手が止まる。紅蓮は思わずため息をついた。――しっかりしろ、俺。
 洗濯物を干すのに限ったことでは無い。気が付けば険しい顔で考えに耽っている。彼はこの1週間どこか気がそぞろだった。
 緩慢に竿にタオルを掛けて洗濯ばさみで留める。今日は久方ぶりに雲一つない快晴だ。気温も最近上がってきているからすぐに乾いてくれるだろう。だから本当はさっさと干してしまいたい、のだが。
 思わず小声で唸った。日に日に家事の手が止まることが多くなっている。自分の自由時間が減るくらいならいいが、食事の支度をしている時に手が止まると昌浩や晴明に迷惑がかかる。
 注意散漫になり過ぎないうちに――いやもうなっているかもしれないが――いい加減にしなければならない、……とは思っているのだが。

 あんな爆弾投げ付けられたらそんなこと無理に決まっていると、叫びたい状況に彼は陥っていた。




=================
 今から約1ヶ月前。町中がハートとチョコレートに染まった、菓子会社の策略の日とも言えるあの日。
 うわのそらの原因は、まさかの僥倖で彼女からチョコレートを貰えたその日の彼女との会話にあった。



『――――勾!?』
『あぁ、お前か』
 自室のソファで本を読んでいた勾陣が顔を上げた。
 あの日。結局砂糖菓子をコーヒーに入れる方法しか思い付かなかった紅蓮は、夕食の後にとりあえず砕いてしまおうと箱に入っていた6つのそれを全て取り出した。
 そして見つけた、あのチョコレートとメッセージ。
 喜びよりも驚きが勝って思わず勾陣の部屋に駆け込んだ。ノックもせずに扉を勢いよく開け放つ程。今思えばなかなか凄い行動だったと思う。万が一彼女が着替えでもしていたらどうしたのだろうか。幸か不幸かそんな事態にはならなかったが。
 とにかくあの時は思考回路が短絡していた。例の御神籤を見たときの比では無いかもしれない。
『あぁ、じゃない。お前、あのチョコのメッセージ……っ!』
『なんだ、思ったより気付くのが早かったな。殺人的に甘いだろう砂糖菓子はどうした。まさか全部食ったのか』
『……細かく砕いて少しずつコーヒーにいれて消化することにした』
 殺人的と形容するあたり、やっぱり彼女は味見など一切していないらしい。予想はついていたことだが改めてそれを示されると顔を引き攣らせざるを得ない。
『そんなことよりあれ、どういう意味だ』
『読んで字の如くだ。訳は適当にやっとけ。出来るだろ』
『適当ってあのな……』
 聞きたいのはそんなことではなくて。

《私がなりたいと思うだけじゃなくて、私はもう……なっているだろう?》

 ――自惚れろ、と?
 あえての目的語の欠如はどうとでもとれ、という意味なのか。そこに入る単語は、……俺の望んだものを入れていいのか。
 非常に難しい表情のまま固まり、煩悶し始めた紅蓮の前に突然勾陣が身体を起こして歩み寄った。
 頭ひとつぶん上にある顔を見上げながら、口の端に笑みを乗せて囁いた。
『……私の最大限の譲歩だよ』
『え』
『これ以上は踏み出さない。あとはお前次第だ』
 無言で目を見開いた。じゃあなと妖艶な笑みを残してひらひらと手を振るその後ろ姿を今まで何度見ただろうか。こういう時必ずといってもいいほど見ている気がする。何せ昼間も見たばかりだ。
『…っ……』
 紅蓮は片手で顔を覆った。そのまま上を見上げて壁にもたれ掛かる。尋常じゃないほど顔が熱い。

 それからあの会話での彼女の言葉は、1ヶ月間紅蓮を悩ませ続けることになったのだ。



===================
 なんとか洗濯物を干し終え、時計を見てとりあえずの休憩時間になったことを知る。長針の差す時刻はいつもより25分遅かった。
 キッチンに戻り、コーヒー豆をドリップする間に思索に耽る。
 それでも最初の方は平常心でいられたのだ。ふと頭に浮かんでも、すぐに消える。それは単に被爆のダメージが大きすぎて考えることを放棄したというか知らんぷりしたというか、とにかく後回しにしていただけなのだが。
 そのツケがこの1週間で一気に来た。何せそろそろあの日から1ヶ月。つまり、
 ……ホワイトデーがやってくるのだ。
 お膳立てはされた。言うならその日しか無い。あとは然るべき『お返し』をどうするかだ。
 3倍返しを約束させられている。とは言っても実際何をあげればいいのかわからない。
 バレンタインにはチョコ、というようなテンプレートとしてはキャンディやマシュマロといったものがあるようだが、ぶっちゃけた話最早なんでも良くなっているらしい。要は貰う側が喜ぶもの。元は菓子会社が始めたものなのだから変遷するのも頷ける。だが同じく菓子会社の策略日であるバレンタインにはチョコレート、という意識が根強いのは不思議だなとつくづく思う。
 『貰う側が喜ぶもの』というのが彼にとっては難題だった。菓子を貰ったのだから菓子で返そうかと一瞬脳裏をよぎったが、あれはそこまで菓子を好む女じゃない。3倍返しも、まず向こうの値段がわからないしどうせならそこ以外の部分でも喜ばれるものをあげたい。
 コーヒーメーカーに視線をやり、いい具合にドリップされたコーヒーをマグカップに注ぐ。そのままもくもくと湯気を立てるそれを口に含んだ。
 いつもそこで行き詰まるのだ。今までの付き合いで好みはなんとなくは把握している。だが結局何が1番喜ばれるか、となるとわからなくなる。
 加えるなら言うつもりの内容にもそぐうものがいい。流石に菓子を渡しながら告白、というのも違う気がする。
 困り果ててネットで少し調べてみたら、アクセサリーなんかも一般的に喜ばれる部類に入るらしい。雰囲気的な意味で真っ先に思い浮かんだのは指輪だが、いきなりそれは重過ぎる。じゃあネックレスあたりかと一応考えてはいるところだ。
 ネックレスなら多分あげたら喜んでくれるだろう。だが何故かしっくり来ない。彼女が滅多にそういうものをつけないからかもしれない。けれどもそれ以外となると何がいいのかわからない。だから悩んでいるのだ。
 ホワイトデーまで時間が無い。とりあえずそろそろ悩むのも止めにして、デパート巡りでもしてみよう。何をあげるかイメージだけでも固めてからにしようと思っていたが仕方ない。この際こっちの方が効率がいいし、この時期なら特集コーナーが何処にでもあるだろう。そこでふと見かけたものに惹かれるかもしれない。

 悩みが一歩前進したことを自覚した紅蓮は、これでとりあえず家事は大丈夫だなと思いながら、二杯目のコーヒーをマグカップに注いだ。




続く...


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -