「……知って、たんだな」
不意に言われたその台詞に、それまで険しい顔つきをして弾丸のように言葉を浴びせていたいた物の怪が、瞬時に固まった。
やがてそれが指すものが何かを悟ると、申し訳なさそうに俯いた。
「……あぁ」
「晴明だろう?」
「あぁ」
つい、先日のことだ。今此処にいる『勾陣』が、この世から消え去りかけたのは。
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“――――慧斗”
微かに聞こえたその声は、私の閉ざされた心に理性を喚び戻すのに十分だった。
同時に戻った冷静さ。視界が捉える目の前の男。
とうだ、と唇を動かした。声になったかどうかはわからない。
話さなければ。そう思った。私だけが知る真実を。この男に。
話そうとすれば、あとで聞くと言われた。切実な声で。それでも私は話した。自らの信念の為に。箍(たが)まで外して生き残った理由の為に。
遠退く意識の中、自分は生きるだろうな、とどこか確信めいたものを持ちながら安心して瞼を落とした。
聞いたことの無い声で勾、と呼ばれた。だが、……最後に耳が捉えた言霊も、『慧斗』だった。
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「……騰蛇。もう、」
「…………わかってる」
穏やかな声音の、柔らかな拒絶。皆まで言わずとも伝わった。伝わってしまった。
「安心しろ。もう呼ばない。……そのかわり」
物の怪は一旦言葉を切り、目を伏せた。
「……あんなのは、二度とごめんだ」
押し殺した感情が滲み出る。
それが何よりも、心に重くのしかかった。
「……保証は出来ないな」
「勾……っ」
たちまち物の怪は峻烈な雰囲気を纏った。だがそんな物の怪など意にも介さず、勾陣は無言で立ち上がった。
「おい待て勾。どこへ行く」
「異界だよ。それがお前の望みだろう」
――それに。
あんな想い、私だってごめんなんだ。
物の怪に背を向けて呟けば、そのまま勾陣は異界へ消え去った。
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無味乾燥が広がる世界に降り立った。
異界、だ。
何もないその空間を、ただ虚無的に俯瞰する。
届かない言霊を、唇だけ動かして自嘲気味に放った。
“言っただろう。私は、利己主義なんだ”
――あれは忘れている。
『騰蛇』もまた、この世から消え去りかけたことを。
“奪われたなら、奪い返すだけのこと”
“――――止めるなよ、晴明”
“もしも、もしも再びがあったなら。俺を止めてくれ。
できなければ、殺してくれ――――!”
あの時騰蛇は、確かに三度目の理を犯した。
次があったら止めてくれ。出来なければ殺してくれ。そう、頼まれていた。
だがその約束を違えてあれを取り戻したいと思ったのは、やはり、自分が利己主義であるが故だった。
公平で公正。傾くはずのない天秤が傾いたのは、『勾陣』ではなく、『慧斗』の願いだった。
私はあの状況でも騰蛇を諦めようとは思わなかった。本来ならば、あの時私はあれを殺すべきだったのだろう。魂は縛魂によって闇に堕とされ、身体は完全に屍鬼に乗っ取られていた。
止められる余地はなかった。屍鬼を止めるには、殺すしかない。その道もひとりの子供によって示されていた。
だが、私はあれを殺したくなかった。その役目を青龍に渡すなどということもしなかった。
あれを殺すのは私の役目だと、信じていたから。そしてその時は永遠に来ないと。
しかしそれは、我らが主の意志に反した。
それはそうだ。人からすれば、神将ひとりの犠牲と人ひとりの悲痛な覚悟で世界が救えるのなら、安いものなのだろうから。
だがその意志を聞いてなお、私は騰蛇を諦めきれなかった。世界なぞどうでもよかった。ただ、己が感情の為にあれを救いたかった。
しかし理性は主の意志を尊重し、感情はそれを天秤で掲げた。
――けれども。その時ばかりは感情を理性で丸め込んだ。主につくと決めた時から、その意志を曲げることはしないと決めていた。だから。
命令は、主の孫に好きにさせてやること。そして、それを見届けること。
そこに騰蛇抹殺のそれは、無い。
私はどうすればいいかわからなかった。死なせたくないのに、私には止めることが出来ない。目の前の覚悟を心の痛みを無視しながら見届けるだけだ。
殺すな、とは言えなかった。あの意志と覚悟に比べたら、私の利己的な想いなど何になる。
それに、あの時あれの姿形をしたあの男は――私が殺すと約束した者ではない。
心に穴が空いたような感覚に包まれながら見届けた。あれが最も大切にしたこどもを。
その、思いを。私はもう二度と覚えたくはない。
あの時知った安堵感。失わずに、済んだと。お前はそれを知らない。
ひとの命は儚い。恐らく将来経験しなくてはならなくなる。失くす心の空虚さなど。
だが、私が殺さなければ永久に失われないはずの者を、私は失くしたくなかった。
――こんなこと、常ならば思わないのに。
あれに対しての想いはとうの昔に蓋をした。自覚と共に理性で封じた。
失くしたくないという想いも、時を過ごして消し去った。ただの気の迷いと知らないふりをしていた。
――なのに。
あれが呼んだ私の『名』は、確かに私の封じた感情をも喚び戻してしまった。
私は思う。暴れだすこの想いを、さらけ出せたらと。
自らが利己主義なのは理解している。だが、これはあまりにも利己的過ぎだと、理性が感情を押し止めている。
私は自分が利己主義なのと同じく、理性で感情を抑えることに長けているというのも理解していた。……だから、いっそ。
こんな理性など、無ければよかった。
感情が理性を否定する。だがそれはまた、私という――『勾陣』という存在をも、否定することになる。
もし私が『勾陣』を否定したら? ――『慧斗』は一体どうするというんだ?
『勾陣』が捨てたはずの想いを、しかし『慧斗』が後生大事にしまっている。この状況下において、『勾陣(リセイ)』を否定したら?
……そんなもの、想像したくはない。
感情は理性を捨てたがる。だが『勾陣(わたし)』は『勾陣(わたし)』を捨てることを拒む。
なんて皮肉な自己矛盾。『慧斗(わたし)』は『勾陣(わたし)』を捨てたがるのに、『勾陣(わたし)』は『勾陣(わたし)』を捨てられない。
『勾陣』と、『慧斗』。理性と、感情。――私と、私。
それらは全て『私』なのに、『私』がそれらを否定する。
……あぁ、もう。
呼ばれたからいけないんだ。知っていて欲しいと願い、呼ばれてもいいと思い、しかし本当は呼ばれたくはなかったあれに、
――『慧斗(カンジョウ)』の名を。
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理性と感情。矛盾した二つの想いが、二律背反を起こしている。
(失いたくない。だけど、そんなこと言える訳が無いんだ)