「奇跡だとな、思うんだよ」
 ある日突然、その女は呟いた。


「――何が、だ」
 杯を仰ぐ手を止め、紅蓮は隣で空を見上げている女――勾陣に問うた。
 リン……と鈴虫が鳴く秋の夜。今宵は月が綺麗だぞと、彼女に月見酒を誘われたのがつい先刻。確かに見事な満月が空に浮かんでいた。互いに無言で杯を傾け、しばらく続いていた心地のいい沈黙を微かに破ったのがその呟きだった。
 彼女が突然突拍子も無いことを言うのにはとうに慣れている。だが、歯痒いことにそれから千年以上経った今でもその言の真理まではなかなか見出せないのが現状である。
 先の問いに、しばらく答えは返らなかった。彼女はただ微笑しながら杯を仰いでいる。またこの女の気まぐれか……と半ば諦めた瞬間、彼女はようよう口を開いた。
「お前と、こうして今酒を酌み交わしていることがだよ、騰蛇」
 ―― 一瞬、意味を掴みあぐねて言葉に詰まった。酒を酌み交わすことなど、むしろ千年前よりも頻繁に行っている。なのに、どうしてそれが奇跡なのか。
「どういうことだ、勾よ」
 しばらく考えても答えは出ず、紅蓮は観念して再び勾陣に問うた。
 彼女は苦笑しながら言った。
「わからないか。……そうだな、ならこう言おう。
 私たちが、今こうして生きていること自体が、奇跡だと思うんだよ」
 ……あぁ、とようやく紅蓮は彼女の言わんとするところを何と無く理解した気がした。
 ――十二神将とは、即ち人の想いの具現。人に想われているからこそ、存在できる者たちなのだ。
 だが、現代の人々は十二神将のみならず、神々の存在を忘れかけてしまっている。かつてこの国で三貴子と呼ばれた神々の名すら、知らない者がほとんどであろう。神社は今でも残っており、正月には初詣で賑わいを見せるがそれはもはや通過儀礼のようなものと化し、その神社でどんな神を祀っているを知っている者などごく僅かに留まっているだろう。まして、神の末席に連なる者でしかない十二神将の存在など。
 だからこうして自分たちが生きていること。それはつまり今でも自分たちは人に想われているということ。それが奇跡だと、彼女は言っているのだ。
「……思えば、随分と脆い、命の綱だな」
 紅蓮は呟く。
 千年以上生きてきて、そんなことを考えたことは無かった。
 大切な人間に何度も先立たれて、十二神将は人に置いていかれるものだと思っていた。人間には時間があまりなくて、自分たちには悠久にある。そんな感覚のままでいた。だがそれは前までの話。今は違う。
 逆に言えば、いつ消えるともわからない、そんな儚い奇跡の中で自分達は生きているということになるのだ。
「晴明達の、おかげだろうな」
 一番身近で自分達を想ってくれているだろう人物の名をあげる。というより彼ら以外はわからない。もし居ても、この国の全人口を把握出来るわけがないのだからわかるはずもない。
「……晴明達もそうだがな」
 彼の呟きに、彼女は意味深な答えを返した。
「我らが“我ら”であるから、という理由もあるだろうな」
「……どういうことだ?」
 本日二度目のその問い。相変わらず彼女の言葉は、時に掴み所が無くて困惑する。
 鈴虫と共にくすり、と笑って、彼女は言った。
「十二神将の存在定義を、よもや忘れたなどと言わないだろうな」
「忘れるはずは無いし、さっきから言っているだろう。十二神将は人の想いの具現だ」
「あぁ。だから、十二神将は神であり人の子だ」
 ぴくり、と。あまりにさらりと言われた中に、何かが引っ掛かったのは自分だけか。
「気付いたか?」
「……いや」
 見えかけているのに掴めない。それが歯痒くて、もどかしくて仕方ない。まるでこの女の存在そのものだ。
「つまりだな、騰蛇。――神であり人の子である我らの想いは、即ち人の想いともなれると思わないか」
「――!」
 リン、と鈴虫が鳴く。紅蓮は何故か何も返すことが出来なかった。
 生の理由は人の想いだけではなくて。十二神将が“十二神将”であるから、今まで自分達は生きられたということか。同胞を想う気持ちは、誰にだって少なからずあるはずだから。
 だけど、ふと気付く。――昔から同胞からも畏怖され忌み嫌われていた、俺は?
 想われている、なんて、……誰が。
「私だよ」
 はっと彼女を見る。まるで思考を読まれたかのように的確なタイミングの台詞。
 いや、彼女のことだ。実際読んだに違いない。こちらには一切読ませないくせに、向こうにはお見通しなのだから。
「勾が……?」
「あぁ。……全く、お前はわかりやすいな。月に魅せられたか?」
 そう言って苦笑する。褒めているのかけなしているのか。おそらく呆れただけでどちらでもないが。
「想っているのは私だよ。――今も昔も」
 告白まがいのその言葉をあっさりと言う彼女を驚いて見れば、しっかりと目が合った。
 じっと見つめていると、その黒曜に吸い込まれそうで。紅蓮は心なしか掠れた声を絞り出した。
「……誰、を」
「わかりきったことを訊くな戯け。お前をだ、騰蛇」
 さも当たり前のように言われ、やはり何も返せない。
「お前にいなくなられては困るんだよ」
 彼女の声が不思議な響きを帯びた、気がした。見つめていたその黒曜に魔法でもかかっているのではと思うくらい、何かを抜けてすんなりと心に届いて来た。
「……何故」
「全て“お前”だからだよ」
 紅蓮は困惑した。……あぁやはり、彼女は断片しか掴ませてはくれない。
 どういうことか。流石に本日三度目のその問いを言葉にするのは憚られて、しばらく沈思していた。だが結局わからない。
 無意識に顔をしかめていたらしい。不意に隣で彼女がくすりと笑った。
「なんだ、わからないならわからないと素直に言えばいいものを」
 それが妙に悔しかったから言えなかったなんて言えるはずもなくて、紅蓮は目を逸らした。さもおかしげに女は笑う。
「だから、全部お前なんだよ。私を凌駕するのも、私が心配せず背を預けられるのも、私の『名』を知っているのも」
 それは今の“騰蛇”でしか――紅の蓮の名を持つ今の騰蛇でしか有り得ない。次代の騰蛇も確かに勾陣を凌駕するだろうが、そこには今のような信頼関係は築かれていないだろう。
 戦闘において味方同士の信頼は重要だ。味方すら疑ってはどこに刃を向ければいいのかわからない。挙げ句戦闘に集中出来なくなる。それは命取りだ。
 それに、何より。勾陣の『名』を知っているのは神将内では彼しか居ないのだ。
「わかったろう? 誰がお前を否定しても、私だけはお前を必要とするということさ」
 ――お前でなければ駄目だから。
「…………」
 紅蓮はしばらく無言だった。それは思い詰めているというより、言葉を出しあぐねているようだった。
「……勾」
「ん?」
「俺達の想いが、俺達を生き永らえさせるというのなら」
 ぽつり、と。杯に移った満月に言葉を落として。
「俺は、お前を想う」
 ――俺だって、お前に居なくなられちゃ困るんだよ。
 僅かに視線を逸らしながら彼は言った。告白まがいなのは俺もか、と頭の片隅で考える。くすり、と勾陣は穏やかに微笑んだ。
「……ふ、では頼むよ」
 久方ぶりに、くい、と杯を仰いでまた注ぐ。もうじき酒も終いだろう。
「ほら、お前も呑め。そろそろ終いだ」
 酒の入った瓶を軽く横に振る。中身は残り一杯分程だろうか。
 隣で同じく杯を仰いだ彼のそれに最後の一杯を注いでやる。瓶をコトリ、と置けば、視界に揺れる月が映った。

 ――互いに想って、想われる。さながら相互依存関係。
 だけどそれでも構わない。それが存在意義になれるなら。


 鈴虫の鳴き声と共に。二人は杯に映った満月を、飲み干した。



―――――――
消さないために、生き続ける
それが僕らのレゾンデートル

 
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