喉が奇妙に引きつり、その感覚で目を覚ました。

 ――夢だ。わかっている。

 深呼吸をひとつ。
 ここは自分の部屋で、自分のベッドで、今は平成で。あれは過去なのだと何度も言い聞かせて、勾陣はゆっくりと半身を起こした。喉元に手をあてて、空咳をふたつ。
 背中にじっとりと汗が滲んでいる。やけに速まる心臓の音がうるさい。もうひとつ咳をして、勾陣は髪を掻き上げた。

 気持ち悪い。

 もちろん体調の問題などではない。言葉を換えるなら胸糞悪い、と言ったところか。
 再び深呼吸をしてみたが、部屋の空気すべてが濁っている気がして余計に気分が悪くなりそうだった。勾陣は足元の布団を蹴飛ばしてベッドから下りる。何を求めているのか自分でもよくわからないのに、暗いだけの部屋から逃げるように扉を抜けた。


***


 無人のリビングに電気だけが点いていた。壁掛けの時計を見て、今が真夜中を過ぎた頃だと知る。それまで時間などまるで気にしていなかった。

 喉がからからだった。
 欲求に突き動かされて足がキッチンに向かう。水だけ飲んでさっさとベッドに潜り込もうと思った。あの部屋で寝付けなければソファで寝てもいい。とにかく夢ごと忘れてしまいたかった。

「――あれ、起きてたのか、勾」

 背後から声をかけられて、勾陣は危うくグラスを取り落とすところだった。人よりも冷静なはずの自分がそこまで取り乱したことに動揺して、勾陣は返事を考えることすら忘れていた。

「……勾? どうした?」

 再び声をかけられて、勾陣ははっとして振り返る。しかし彼の姿を見た途端に喉が引きつってしまった。慌てて咳をひとつして、当たり障りのない笑みを張り付ける。

「目が覚めただけさ。お前こそ何をしてるんだ、こんな時間に」
「いや、風呂に入って……」

 紅蓮が怪訝そうに目を細めた。彼が勾陣の異変に気づかないはずもない。それでも勾陣は、そのまま距離を縮めようとする彼を、微笑を崩さないことで牽制していた。

「勾、お前、何かおかしいぞ」
「そうか? 変な夢を見たからかな」
「夢? どんな」
「もう忘れた」

 軽く肩をすくめ、グラスの水を一気に飲み干す。
 もう寝ると告げて、勾陣は紅蓮の脇をすり抜けた。この場に居続けたら何かが切れてしまいそうだった。

「夜更かしは構わないが、寝坊するなよ、騰蛇」
「あ……おい、勾っ!」

 呼び止める声は無視した。振り向いたら間違いなく崩れる。そう確信できたから。

 しかし寸でのところで二の腕を強く掴まれ、なかばむりやり紅蓮の方を向かされた。反射的に顔を上げるとまともに目が合ってしまい、勾陣は露骨に顔を背ける。不自然さなど考える余裕もなかった。

「……離せ」
「勾……?」

 紅蓮の声が明らかに心配の色を帯びた。細い腕を離した手が、そのまま勾陣の肩に伸びる。
「――やめろ!」

 その感触を、勾陣は気付けば拒絶していた。

「やめてくれ……!」

 うんざりだった。
 こんな感情も、こんな自分も。

 本当はすがってしまいたいくせに、けれどそれはあまりに都合が良すぎて手を伸ばせない。今触れられたらきっとその優しさにすがってしまうから、それが怖くて拒絶した。そんな自分勝手な理由で、彼の優しさを拒んだのだ。

「……勾、お前が感情を崩す時は、大体怒ってる時だがな。そうじゃない時は、泣きそうな時だろう」

 俯く勾陣に、紅蓮はそれでも優しく触れた。頭からさらりと髪を辿り、指先で弄ぶ。
「何をそんなに怯えているんだ」

 優しく問われ、勾陣は弾かれたように顔を上げた。怯えてなど、と言いかけて、かち合った瞳が思いがけず痛みを孕んでいて何も言えなくなってしまう。

「……夢を見たと言ったな。お前は忘れたと言うが」
「……」
「あの時の夢だろう?」

 勾陣は、ついと目を逸らした。それが肯定になるとわかっていて。

 それは、赤と白の記憶だ。何千年と生きてきて、ちっとも色褪せることのない。
 久々に見たその夢は、あまりに鮮明すぎて。痛みも、哀しみも、あまりにあざやかに蘇るから。
 ――泣きたかった。そう、その感情が、正しい。

「あれは、俺の罪で……、どうしてお前が……」
「……お前は知らなくていい」
「責任を背負っているのか」

 紅蓮の声はひどく哀しげで、勾陣にはそれが痛かった。こんな声を、こんな顔を、彼は今まで幾度作ってきたのだろう。

「もしかしてお前は、俺が過去の罪業に苦しむたび、お前に寄りかかるたび、そのせいで痛みを堪えていたのか? そんなこと、俺は――」
「騰蛇、違う。……違うよ」

 ああやっぱり、この男はなんて優しい。
 勾陣はそっと微笑んだ。彼の優しさはいつだって彼自信を苦しめる。今だって、勾陣の優しさを信じる彼の優しさが、また痛みを呼んでいる。

「そんな、綺麗事じゃないんだ。お前がそれに対して、また責任を感じることではない。断じて」
「またそうやって……」
「本当さ。いいか、私は、あの夢を見るたびに安心するんだ」

 この告白によって今さら関係性が崩れるとは思わないが、勾陣の感情は危うかった。下手をすれば声が震えてしまいそうで、表情が崩れてしまいそうで、その事態の方がおそろしくて顔を伏せる。

「私は、お前に次ぐ二番手で……もしもお前でなかったら、きっと罪を犯すのは私だった」
「……な、にを、馬鹿なことを――」
「馬鹿なものか。お前が過去の罪業に苦しむたび、私は自分の姿を重ねて見ていたんだ」

 身を乗り出す彼のシャツを掴み、腕を張って押し返す。その手が震えていた。

「そうやって安心していた。私でなくて良かった、お前がいるから、と。本当に、なんて汚い……」
「勾……っ!」
「触るな!」

 腕を掴まれ、勾陣は振り払おうと藻掻いた。離せ、と叫び、躍起になって抵抗する。
 けれど紅蓮はそれを許さなかった。暴れる勾陣の両手を力ずくで押さえ込み、泣きそうな声で彼女の名前を呼ぶ。

「……勾、それでもお前は、俺の背を支えてくれただろう」
「だから、綺麗事じゃないと言っただろう」

 勾陣は攻撃的に微笑んで喉を震わせる。声も、感情も、何もかもが不安定に揺れていた。

「真意なんてとうに忘れた。自分に重なるお前を放っておけなかったのか、安堵感への後ろめたさに耐えきれず手を差し伸べたのか、そう感じる自分を誤魔化すために優しくしていたのか」

 どのみち美しい善意などではなかった。罪を犯し忌み嫌われる彼に近付くことで、勾陣は罪悪感から逃れようとしていたのだ。

 深く息を吸って、暴れ出しそうな感情を整える。紅蓮が真っ直ぐこちらを見ているのは知っていたが、とても直視などできなかった。

「軽蔑するか。幻滅するか。……好きにしたらいいさ」
「……なあ、ひとつ聞かせてくれ」

 彼の言葉に、俯いたまま頷きもしなかった。受け入れるのも馬鹿馬鹿しいが、拒絶する気力もない。

「お前は、そういう理由で、俺に触れることを許したのか」

 勾陣は緩く首を振った。まったく彼らしい言葉だと内心で苦笑しながら。

「……違うよ。共に在り続けることを望んだのも、お前に体を許したのも、私の意思で、私の感情で……こんなことを言うのは、きっと卑怯だろうが」


 散々に彼への優しさを否定しておいて、それでも今は愛していると言う。なんて卑怯で身勝手な女だろう。
 それなのに紅蓮は微笑んだ。それならいいと優しく告げて、抵抗する気力すら失せた勾陣の体を抱き締めた。

「もういい。それだけでいい」
「……そんな言葉はいらん」
「それでもまだ、お前が苦しいと言うなら」
「騰蛇――」
「俺が受け止める。お前がそうしてくれたように、全部受け止めて、許すから」

 ――だからそうやって、勝手に一人で傷付くな。

 紅蓮の声は真摯で、そのくせ苦しげで痛そうだった。お前の方が傷付いてどうする、と言いかけ、その声が泣きそうだと気付いた勾陣は口をつぐむ。

「……勾?」
「本当に……お前は、どうしてそんなに……」

 優しいのだろう。
 最後の言葉を紡ぐかわりに紅蓮のシャツをぎゅうと握りしめた。目の奥が熱い。その優しさがひどく切なくて。
 ふ、と微かな気配が頭上でした。彼が微笑んだのだと、勾陣は見なくともわかる。

「……愛してるから、かな」

 独り言のように呟き、たとえば泣き止まない幼子にそうするように、紅蓮は勾陣の背を優しく叩いた。
 勾陣は彼のシャツに顔を押し付け、涙を誤魔化した。ぎりぎりのところで押し留めたのか、シャツに染み込ませて自分を騙したのか、勾陣自身にも判然としなかったが。

「……たわけ……」

 罪悪感とか、負い目とか、もちろんすべてが消えたわけではない。消せるものではないのだ。背負って歩くために、向き合わなければいけない。彼がそうしたように。
 それでも傍にいると、紅蓮はそう言ってくれた。

 その言葉を信じたいと思った。卑怯で自分勝手で最低な女だと詰る声が、彼の言葉で嘘のように消え失せたから。
 それくらいは許されるだろうと願って、勾陣はそっと目を閉じた。



 
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心中叫びました。えぇ叫びましたとも←
まさかこんな素晴らしい紅勾が戴けるとは……!!
弱気姐さん大好きですw
蓮見様、本当にありがとうございました!

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