――――唇が、重なった。

 騰蛇がそういう仕草をしてきたから、私は大人しく目を閉じてそれに応えた。
 なのに。
 当の本人は、愕然としていた。
「……勾………?」
 紡がれた言葉は、とても弱々しく。放たれた言霊は、その一言だけだというのに明らかにそうして欲しくはなかったと訴えていた。
 それがあまりにも滲み出ていたから、敢えてこちらは軽く受け流すことにした。
「別に、お前ならいいかと思っただけだが?」
「……っ…」
 あまりにこちらがしれっと微笑みすらして言ってのけたからだろうか。向こうは一時ピシッと固まった。
 しかしすぐ元に戻ると、片手で顔を覆ってため息をついた。
「どうしてお前は、そう……」
 笑って俺を受け入れる。
 どうせなら、酷く拒んで傷付けて。この関係を壊して欲しかったと、そう言外に告げていた。

 ――この想いが、互いにこれ以上膨らまぬように、と。

 今の二人の関係が、ひどく不安定なことくらい、互いに理解していた。
 同胞以上恋人未満。好意はあるのに気付かぬ振り。互いに一方通行だと思い込み、見えない境界線が二人の間に根をおろしていて。どちらかが踏み越えるか、どちらかが、或いはどちらもが離れるか。それがわかっているのに、互いに踏み越すことも離れることも出来ないで境界線の縁を彷徨い、その温もりにたゆたう。そんな歪な関係。
 あのキスは、彼なりのピリオドだったのだ。想いの歯止めが聞かなくなる前に諦められるようにと。そうすることによって騰蛇は境界線を踏み越えた。そして私がそれを受け入れて、越した本人には予想外の方向に関係が傾いた。
 拒んでくれれば諦められた、どうして。未だに彼は信じられずそう思っているのだろう。私が無理をしているとさえ思っているかもしれない。
 かつてなら、光も導ももし在ったなら、こんな方向にもならなかったかもしれない。だがもうそれは、仮定の域を出ない。
 ――不安定なのは関係だけじゃない。この男もまた、光と導を失って暗闇に迷っているのだ。
「……全く。らしくないな、騰蛇よ」
 苦笑しながら彼女は答える。……いや、らしくないのは私もか。それほどまでに、光と導の存在は私達の中で大きかった。
 だって、これは逃げ。しあわせの前の痛みからの、現実逃避に過ぎないから。
 後ろめたくても、わずかでも。踏み越えたのなら、そこから。
 騰蛇はのろのろと片手で覆っていた顔をあげた。
「私はお前を意図的に傷付けるつもりなどないし、またお前を拒む理由もない」
 このとっくに気付いて、でも否定していた気持ちに向き合えば、しかしそこに決して偽りはないし、それに。
「私は、今のお前が好きなんだから」
 ゆっくりと、彼は瞠目した。あちらが先に踏み越えた。私もそれを受け入れた。なら、私も踏み越えない道理はない。
 実際言葉を聞いた彼は、信じたいのに信じられない、そんな顔をしていた。
「俺を、受け入れるというのか、お前は」
 自嘲すら含んだ、微かな呟き。
 ……あぁもうどうして、お前はそんなに自虐的で懐疑的なんだ。暗闇に迷っていたって、そんなこと気にせず願っても、頼っても構わないというのに。
 どうして自ら縁(よすが)を断とうとするのか。それはけして強さではない。
 光を失った彼は今、しかしそれを内に残留させてなんとか歩いている。だが、支えを失くしたその視界に少しずつ彼の心の闇が侵食している。
 何も見えなくなっていくから、何が本当で何が幻かわからなくなる。だから本当を知るために、懐疑的にならざるを得ない。その負のスパイラルにはまり込んでしまったのだ。
 だから、私は。
「……あぁ。そう言ったろう」
 沈黙が、流れる。
 ――私は、私の知り持つあの光で、騰蛇の道を照らし出そう。
 光を受けたのは彼だけではない。確かに私も享受したのだから、きっと。かつてのような明るさは私では取り戻せないかもしれない。でもそれでもいい。蛍のような儚い薄明かりでも、そこにあれば呑まれずに済むはずだから。
「……すがる、ぞ」
「構わん。お前は今までひとに頼るということを知らなすぎたんだよ」
 そう微笑めば、遠慮したような、真綿でくるむような抱擁と囁きが返ってきた。
「……勾……」
「やっと受け入れたか」
 彼の頬を優しく撫でる。なかなかにおかしな話だ。踏み越えたのは彼なのに、受け入れたのは私の方が早いなんて。
「……なぁ、勾」
「うん?」
「お前に、俺の『名』を呼ぶ権利をやろう。――慧斗」
 今度はこちらが瞠目する羽目になり、更にその間に再び唇を奪われた。
「……っ! とう…!?」
「紅蓮だ」
 間髪入れずに返ってきた。しかしその顔は先程とは打って変わって笑っている。
「紅蓮だ、慧斗」
 重ねて言われ、さすがに何も言い返せない。
「……紅、蓮」
「ん」
 遠慮がちに呼べば、満足したような声が返ってくる。
 なんだか今、何故かものすごく彼が卑怯に思えた。
「…………戯け」
「ん」
 それにすら満足そうに答えられ、軽く脱力しながら初めてこれに負けた気がする、と勾陣は思った。




―――――――
見えないのなら、はじめから。
そんなの気にしなくたってよかったんだ

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