ヴァニタスの孵化





 現場のビルは7階建て。内部の移動はエレベーターが2つと非常階段が用意されている造りをしている。2階から7階のフロアごとにそれぞれの会社が入居しており、大部分のフロアがカードキーを通さないと入室出来ない仕組みになっている。通路部分に窓は無い。飛び降りをするならば、カードキーを通した先のそれぞれのオフィスエリアか、共用部の扱いとなっている屋上まで行く必要がある。
 
 「顧客情報の管理をしているところが多いからね、聞き込み程度じゃどこの会社も中には入れたがらないと思うよ」
 
 オフィスエリアの中を確認は出来ないのか、というこちらの問いにビルのオーナーが気だるげに返事をする。
 死体の状況を知らないビルの利用者たちは単純な飛び降り自殺と思っているらしく、オフィスエリアの中への入室は「責任者不在」という曖昧な理由で拒否をした。無理もない、「此処で殺人が起きるはずがない」という意識が根付いているのだ。被害者は各フロア内でわざわざ飛び降りるようなことはしていなかったということが分かっただけ上々だろう。

 「どっちにしろうちは建物を貸してるだけだからね。どうしてもっていうなら刑事さんがもっとなんというかこう…強制捜査だ!みたいな感じで押し入るしかないんじゃないかな」
 「…そのあたりは今後被害者の身元から判断いたします」
 「被害者って……。本当に殺人事件なのかねぇ…なんでよりにもよってうちのビルなのか…」
 
 眉間に深く皺を寄せてオーナーの男は溜息を吐く。何度目か分からない愚痴めいた文句を零しながら男は管理室のモニターを操作しはじめた。
 玄関ホールと屋上に続く階段には監視カメラがそれぞれ設置されている。犯罪率が極端に低いこの都市で、今更カメラを設置している施設は実のところ少ない。今回ばかりはこのビルの所有者の「なんとなく慣習上付けていた」という「なんとなく」が功を奏したようだった。
 「出てきたよ」とオーナーが声を上げる。現場に駆けつけた際の時間はちょうど14時を回る頃だった。本日12時の非常階段のカメラ映像が早回しされていく。12時50分13秒に差し掛かった頃、代わり映えのなかった階段の映像に変化が起きた。スーツ姿の男が階段を駆け上がり、屋上の扉を忙しなく開けて飛び込んでいく様子だった。

 「ズーム機能ってあります?」
 「あるよ、普通に映像のところでダブルクリックで…で、右クリックで保存」
 「ありがとうございます」

 言われた通りの操作で13秒から18秒の間、ちょうど扉に手をかける男の姿で映像を一時停止する。顔の部分で拡大をすると、息を切らしたように口を開けている男の顔が鮮明に写った。叫んでいるというよりは本当に「必死に階段を駆け上がって息を切らしている」という姿だった。
 映像を今度は巻き戻していく。2倍速で巻き戻しながら12時30分、20分、10分と時間を遡らせていく。次の異常を見つけたのは11時58分37秒の時点だった。隣にいたオーナーも気づいたらしく「あ、」と呟く。
 等速で再生に切り替えてもう一度再生する。時間にして10秒程度の間のことだった。監視カメラの映像がぐにゃりと歪み、暗転する。その後は何事もなく階段と扉の画像が続いた。

 「…壊れた?」
 「いえ、恐らくは電波で妨害したんでしょう。無線で映像を送っているカメラって電子レンジ程度の電波にも弱いんです」

 早送りで男がはっきりと映った映像を今度は飛び越していく。案の定、13時03分04秒でまた映像が暗転した。誰かが電波を妨害したという証明そのものの歪みだった。飛び降りではこうはならない。鑑識の言葉が頭を過ぎる。わざわざ電波ジャマーを利用して自分の姿を隠し、被害者の前後に屋上を第三者が出入りをした。それは明確な、悪意のある殺人の証拠に他ならなかった。



 カメラ映像のバックアップを保存し終えると、時刻は16時を過ぎていた。現場検証をしているうちに仏は運ばれたらしい。死体を覗き込もうとしていた野次馬も姿を消していた。

 「お疲れ」
 「お疲れ様です」

 周辺の人物に聞き込みに行っていた宇喜多さんが向かいのビルから姿を現す。「行ったり来たりでさすがに疲れたわ」と伸びをしながらパトカーに乗り込んだ。帰りも運転をするのは自分だ。当人にその自覚はないようだが、宇喜多さんはそれほど運転は得意ではない。

 「被害者、このビルの社員じゃないみたい。社員証を鑑識に見せてもらったけど、このビルに入っている会社じゃなかったわ」

 管轄署に戻るために車を走らせる。日はまだ高いが、前方の空は僅かに橙色が差し込みはじめていた。

 「どこのビルだったかは分かります?」
 「向かいよ。ほら、私が今さっき出てきたところ。あそこ現場のビルよりはちょっとだけ高かったの」

 言われてみれば向かい側のビルはそれなりに背があるビルだった気がしなくもない。オフィス街のビルなのでそのくらいの高さの建物が並んでいるのは何らおかしなことではなく、むしろ現場のビルは小さいほうだ。「何階の社員だったんですか?」ハンドルを右に回していきながら相槌を打つ。最上階、と宇喜多さんも続けた。

 「被害者はその時昼休憩から戻ってきたばかりだったみたいで、仕事を再開しようとしたところで急にオフィスを飛び出したんですって。部下たちは何か飲み物でも買いに行ったのかと思って待っていたようなんだけど戻ってこない。向かいのビルから飛び降りた理由は検討もつかないそうよ」

 視界の端で横断歩道の青信号が点滅するのが見え、ブレーキを徐々にかけながらビルの外観を思い出す。向かい側のビルも似たり寄ったりなデザインで、窓は確か付いていたはずだ。

 「なにか見えたんですかね、現場のビルの屋上に」
 「どうだろう、さすがにオフィスの中には入らせてくれなかったから…立ち入り許可を貰って被害者の机周りでも見てみるしかないかもね」
 「ですね…」

 パン屋の事件といいこの事件といい、不可解なことが多すぎる。ため息混じりに相槌を打つ。ちょうど同じタイミングで宇喜多さんも「やることが多いわね」とため息を吐いた。車の駆動音だけが車内に響く。ラジオを付けるか迷ったが、お気楽な音声を流す気分ではなかった。代わりに自分が見た監視カメラ映像の内容を口頭で共有する。宇喜多さんは話を遮ることなく無言を続け、話の終わりもすぐには口を開かなかった。署までの距離が残り二キロから一キロまで差し掛かったあたりで、「ねぇ」と助手席から問いかけてくる。

 「昨日の被害者の女性…年配の方は山名さん、だっけ?」
 「…そうですね」
 「……」
 「…何か?」

 昨日の事件のことはすべて手持ちの端末に記録されている。宇喜多さんのタブレットにも共有されているはずだった。特にそれらの資料を確認するわけでもなく、横目に見る宇喜多さんはただ何かをじっと考え込んでいる。饒舌な宇喜多さんにしてはやけに悩ましげに見えた。

 「ああ…うん、少しね。何か共通点があったりするのかと思ったんだけど…気のせいみたい」
 「そうですか」

 気のせいだったらしい。さっき疲れたと口にも出していた。それほどこの事件に真摯に取り組んでいるのだろう。「あまり無理をなさらずに」と気休めにもならない言葉を返す。それが出来たら苦労しないのはきっとお互い様だった。

 署の敷地内に差し掛かったところでスピードを落としていく。ここで退勤できればよかったが、今日の業務レポート提出のために交番まで戻らないといけない。
家にまっすぐ帰りたいだろう宇喜多さんもまだ業務が残っているのは同じだった。
「暫くは休まらないわね」という横からの言葉に同意を示す。木下含め三人で飲むのも先のことになるだろう。

 「送ってくれた代わりに上には私が報告しておくわ。交番業務もあるんでしょ?」
 「それは…助かります」
 「正直で良し」

 有給や諸々の申請テンプレートの一部が無くなっていたことを報告したが、エラーが解消しているかどうかまだ確認していないことを思い出す。休みを取る余裕が無い以上、焦って確認しなければならないものではない。どうしても分厚くなる事件とは別件のレポート処理が恐らく今日の限界だろう。直帰まではいかずとも署に顔を出さずに済むだけ有難い。

 「じゃ、お疲れ様。気をつけて帰って」
 「宇喜多さんこそ」

 助手席から降りて署の玄関ホールへ歩を進める宇喜多さんを見送る。その背が建物に吸い込まれていったところで再びエンジンをかけた。籠った空気を逃がすために運転席の窓を開ければ、生ぬるい風が頬を掠めた。朝から殆ど変化のない適正温度。規則正しく沈んでいく夕陽。無事な平穏の中で日常を過ごす人々。意味もなく手法を目立たせた殺人。

 この先この街がどうなっていくかなんて不安は、流石に口には出せなかった。



prev / next

[ back to top ]



- ナノ -