Nutter's class


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 月曜日。何かの予感を告げるように、身体は急に石のように動かなくなった。
 全身が痛くて気怠くて、風邪を引いてしまったこと、私の風邪は拗らせるとすぐに重たい病気に繋がるということを思い出す。そういえば最近、ちょっと早起きを頑張りすぎていた。お弁当のおかずもレパートリーも増やしたくて、眠る前の考え事の時間も長かった。
 長く長く、悪い夢を見た。
 子供の時からずっと続いている夢だ。知らない誰かに、私が繰り返し繰り返し話しかける夢。白い病室に横たわるその人は、私に背を向けたままこっちをまったく見てはくれない。黙って細い背中を上下させるその人に、私はずっと一人で話しかけるのだ。貴方が好きだ、と恋を伝えるような夢。そんな、まるで鏡写しのような悪夢をずっと見ていた。
 三日くらいが過ぎて熱が引いて、眩暈がしそうなほどの昼の太陽の光が視界を刺す。重たい身体をなんとか起こすと、ずるりと湿ったタオルが額から落ちた。お母さんが乗せてくれていたのだろう。多分、明日から当分はもうお弁当は作らせてくれないし、夜更かしもきっとさせてはくれない。でも、きっともうそんなことをお願いする必要ももうないんだろう。どうしてか、私は何かを予感していた。

 「…行かなくちゃ」 

 学校に。今からでもきっと間に合う。話したいことが、話さなければいけないことができてしまったのだから。



 生活のペースは全然違うのに、こういうときだけ彼との波長はなぜかぴったりと合ってしまう。もう夕斗君は帰ったかな、今日はいつもより私は遅く教室を出た。それに何日も学校を休んでいたし、まさか私が今日登校していることだって彼が知っているわけがない。昼休みいに彼の教室にひょっこりと顔をのぞかせる。それが、「私がいます」という合図だった。今日は五時間目を過ぎてやっとここに来れた。私の存在に、彼が気が付いているわけがない。
 そんな淡い期待をさっきまでしていた。けれど、会いに行くために私はわざわざ遅刻をしてきたのだ。奥底で期待をしていたとおりに、運命はことを進めてくれる。夢は覚めるものとして終わらせないといけないらしい。現実は先延ばしにしてはいけないらしい。もう、言わないと、ナイフを突きつけないと行けない時間が、来てしまったらしい。

 「…羽音?」

 夕暮れ、放課後の靴箱が並ぶ壁に、彼は凭れ掛かっていた。そんなところに背中を付けていたら土埃で汚れてしまいますよ。どうでもいい心配の声を出すよりも先に、あなたが私を胡乱な瞳で見上げてくる。ひどい、と思った。いつもは私から話しかけないと顔を上げないような人が、こんな時に私よりも先に私に気が付くなんて卑怯だ。
 
 「…こんにちは、夕斗君」
 「お前…体は、もう大丈夫か」

 それは、きっと他の人から見れば他愛のない世間話のひとつとして済んだだろう。だけど、やっぱりそうもいかないみたいだった。私の悪い予感は当たってしまったらしい。夕斗君はひくりと顔をこわばらせながら私の顔色をのぞき込んでくる。怯えたような表情に私は何もかもを悟ってしまった。体調なんて心配してくれたのは再会してからはじめてだった。私の知っていた高校生のあなたは、私をそんな風に気遣うように見つめてはこなかった。

 「…そう、思い出してしまったんですね」

 ほらね、やっぱり。
 そう来ると思っていた。きっと、見た夢は多少は違えどきっと同じだった。なんとなくそんな気がしていたの。こんなふうに何か、自分の心や日常から外れた何かの出来事が少しでも起こってしまったら、あとはもう正しい道から急速にずれていくだけだから。でも、それが今日になるなんて、信じたくなかった。こんなに早くに夢が終わってしまうなんて思いもしなかった。これから、私は刃を向けるのだ。大好きだった友達を傷つけてしまうことになる。…もっと、夢を見ていたかった。でももう、後戻りはできない。ここまで来てしまった以上、私は彼の記憶を揺さぶった責任を取らないといけない。

 「…夕斗君、少し、お時間ありますか」

 勇気を振り絞って尋ねると、夕斗君は無言でうなずく。もしかすると夕斗君も何かを既に予感していたのかもしれない。私に聞きたいことが山ほどあるだろうに。それでも、今この場で問いただそうとはしない夕斗君はやっぱり私にとって優しい人のままだった。

 

 本当は、こんな話をするつもりはなかった。
 もっともっと引っ張って、もっともっと私を日常になじませて、いることが当たり前のような存在にさせて、いつしか私を好きにさせて、それから――何も言わずに去って、誰も知らないような場所で今度は見つけられることなく死んで、それから、後で私が死んだことを知って、私が「池内羽音」だと知る。それが最初の予定。私が最初に立てた復讐計画だった。 
 だけど現実はそんなにスムーズにはいかなかった。知らない誰かのふりをできるほど、私たちの世界は広くもなかったし、どう頑張ったって私は池内羽音でしかいられなかった。私はずっと昔からあなたの友達で、幼なじみのようなもので、そうして、私はあなたがずうっと好きだった。結局、根本の私を私は変えられない。
 だから、きっとこの復讐の全てが無意味だったのだ。
 そもそも、この感情を復讐や憎しみと呼ぶこと自体が釣り合っていなかったのかもしれない。

 「懐かしいでしょう?ここ」

 小学校時代によく遊んだ公園は、今も昔もほとんど変わりはなかった。ベンチとブランコと滑り台くらいしかない公園は相変わらず小さくて殺風景だけど、その小ささが昔は好きだった。花壇に植えられている花は、あのときと変わらず向日葵のままなのだろうか。つぼみすらないそれを見分ける知識は私にはない。

 「覚えてる?昔ここでよく遊んだでしょう。見て、あそこのイチョウの木。随分高くなったの」
 「……」
 「夕斗君、よく梢ちゃんと木登りしてたよね。でも梢ちゃんのほうが上手だったから、すごく悔しがってたの。楽しそうだったよね」
 「…そんなもの、忘れたよ」
 「…私は、もっと覚えているよ。大事なことも、小さなことも」

 私はうまく笑えているだろうか。目の前にいる夕斗君はいつも以上に無口で、酷い顔をしていた。昔は花壇の縁に並んで座っていたけれど、身体が大きくなった今はもう小さく見えるその花壇に私たちは座れない。近くにはベンチだってあったし、座高の低いブランコだってある。それでも、私たちは子供の時のように隣になんてもう並べない。笑っているのは、いつか昔の青い思い出だけだった。
 生ぬるい風が、ゆるやかに流れる。少し湿っぽい雨の匂いに私は空を見上げた。重たい灰色の雲が広がっている。もうすぐ夏が来ようとしている。夏がきて、十月には夕斗君は誕生日だったはずだった。それを過ぎればあっという間に冬が来る。大嫌いな冬がやってきたそのとき、私と夕斗君は、また今日のこの夕暮れの中のように二人で向かいあって話をしている関係でいるのだろうか。…そんなことはないよね、わかっている。わかっているんだ、けど。

 「…夕斗君、私があなたに何をしに来たか、思い出してくれた?」

 お願い、いっそ私ごと忘れたと言って。
 忘れてはいけないすべてだったのに、彼は重い雲の下、無言で頷いてしまった。それが私の、夢の終わりだった。


 
 次の日の朝になれば、梢ちゃんが私の家にやってくる。教室に入れば、いつもと同じ笑顔で笑う友達が居る。机をくっつけあって、色んな話をして、授業中もちょっとだけふざけてみたり。そして、放課後になれば、いつもの公園で、夕斗君とお話しをする。
 そんな楽しい、いつもと変わらない明日を期待していた。眠り続けていたら、何かが変わると思っていた。それなのに眼を開いてみても、状況は変わらなくて。

 「……」

 ずいぶんと痩せ細った私の腕。綺麗に手入れしていた自慢の桃色の髪は抜け落ちてしまったからもう見れない。こういう不治の病系不幸話って、よく小説とかにあるけれど、まさか現実にこんなことが有り得るなんてこの年で知ることになるとは思わなかった。
 一度心臓を止めてしまったあの日から、私を見るまわりの視線はがらりと変わってしまった。みんな、腫物を扱うような目で私を見るようになった。いつも以上にみんなが私を大事にしてくれる。すぐにいなくなってしまうだろう私を、誰もが壊れ物を扱うような瞳で見てくる。
 お母さんは私にピアノを買ってくれようとしてくれた。外からの輸入になるだろうから、家を買うくらいお金がかかるかもしれないけれど、一緒に弾こうねと遠い約束をしてくれた。お父さんは外への出張から帰ってくる度にふわふわのぬいぐるみやアクセサリーを買ってくれる。仕事でそんな余裕もないはずなのに、みんなが私を大事にした。理解のある友達は、私が死ぬとわかっても腫れ物にしないように普通通りに振舞ってくれる。
 私はもう死にたかった。風邪をひいては両親を泣かせて、このままなんでもなかったんじゃないかなんて笑えるくらいに元気になったと思ったらまたベッドとお友達になる生活の繰り返しに、どんな意味があるのかがもうわからない。私なんて居たところでみんなを困らせてしまうだけなんじゃないか。早く死んでしまった方が、お父さんもお母さんも私のことでこれ以上苦しまなくて済む。友達に気遣われるのは苦しい。みんなから大事にされることは重たい。
 ばかみたいに薬を投与して、ばかみたいに重い副反応にのたうち回って、そうまでして私は生きたいかなんて、そうじゃないに決まっていた。私はもう死んじゃいたかった。終わってしまいたかった。楽になりたかった。この世界に、私の春はないのだから。

 …でも、死ぬなら最後に彼に会いたかった。
  どうしても、どうしても最後にあなたに一矢報いたかった。どうしても最後に私という爪跡を残したかった。
 きっと私はあなたに私のことを覚えていてほしかったのかもしれない。お父さんやお母さんに忘れられてしまうことも怖い。だけど、何より一番「好き」だったあなたに忘れられたまま死んでいくことがたまらなく恐ろしかった。
 私はあなたのことを覚えたまま、死んでいく。

 「あなたの考えている通りです。治るわけなんてありませんでした。これは呪いみたいなものなんです。治るなんて有り得ません」

 だけどあなたは私のことを忘れたまま何も知らずに生きていく。私だけの一方的な感情。そのまま終わるなんて酷だと思わない?
 私は殺されたくなかった。私とあなたしか知らない思い出を。私の初恋を。あなたへ捧げた私の感情の全てを。私が死ぬ事ですべてが消えてしまうなんて、そんなの耐えられなかった!
 ああ、どうして私こんなに汚れてしまったんだろう。人を傷つけることは悪いことだって、人を呪うべきじゃあないんだって、そんなの私だってよく知っていた。おかしい。おかしいの。私はあなたをこんな風に憎みたくなんてなかった。憾みたくもなかった。でも、それ以上に私は今でもあなたのことが大好きだった。あなたこそが私の世界を彩ってくれるすべてだった、けど。

 「私はあなたが思うよりもずっと早く死ぬ」

 嫌だ。そんな迷子の子供みたいなふるえた声が聞こえた気がした。その言葉に、どうしてかおかしくて私は笑ってしまった。ねえ、思いだして今更そんなことを言うなんて卑怯だと思いませんか。ねえ。どうしてそんなに泣きだしそうな顔をしているんですか。いつもみたいに、どうして、「そうか」って、興味なさげにそっぽを向いてくれないの。これじゃあ全部私の思うつぼになってしまう。お願い、悲しまないで。私に傷つけられた顔をしないで。

 「死ぬのよ、あなたも何もかも置いて骨と皮になって死ぬの。そうしたら、夕斗君はまたぽっくりと私のことを忘れて生きるんでしょうね。許せなかった、だから私はあなたを呪いに来たんですよ。その為に死の淵から戻ってきたの」
 「…俺はお前が好きだよ」

 つながりのない返事はまっすぐだった。何てずるいことを言うのだろう。どうして今になってそんな言葉を言うのだろう。
 昇っていた熱がすうっと足先から冷えていくような気がした。夏なのに雪でも肩に降り積もったような心地になる。どうして。いまさらそんな愛情を差し出してくるような言葉はずるいとしか言いようがない。だって、これじゃあ歪んでしまったのは私だけみたいじゃない。私だけが、一人で薄暗い感情を抱えて、惨めになってしまうというの。あなたは私を忘れていたというのに!

 「…私のことを、好きだというのなら、叶えてほしいことがあるんです」

 幼い私のただ純粋な恋心は、確かにあなたに殺されてしまったというのに。

 「もうあなたに忘れられたくない。あなたがなんてことのない顔で、私の痛みも見ないで生きてく姿を地獄で見るのは耐えられません。この気持ち、わかってくれますか」

 綺麗なエメラルド色の瞳が、かすかに見開かれる。初めて出会ったときは、あんなに怯えた色をしながら私を避けていたのに、今はちゃんと私のことを見てくれるのね。見開いたその瞳は震えてはいたけれど私から視線を逸らしはしない。それが果てしなく喜ばしくて、どうしようもないほどに妬ましく、痛ましかった。

 「分かってくれるなら、私のために死んで。…わたしと一緒に死んで」

 おかしいよね。せっかく今やっと、望んでいた復讐が出来ているのに。なんで、胸に新しいナイフが刺さっているんだろう。
 私は何がしたかったんだろう。本当に言いたい言葉はなんだったんだろう。何を間違えてこんなことになっちゃったんだろう。
 いつか縁日で釣り上げた水風船を思い出す。ゴム紐につり下がったカラフルな風船は、歩くたびに足元を踊っていた。手でつけばあちこちへ跳ねて、不安定に揺れる風船の中の振動をゆらゆらと幼く楽しんでいたと思う。でも遊びすぎてしまったみたいで、釣り上げたばかりの風船は砂利道に落ちて粉々に割れた。明日も明後日もしぼまなければ遊べると思っていたのに、分からないうちに突然に楽しい時間は終わってしまう。
 でも、私は壊れると分かっていて自分の風船を割ったんだ。賽を投げたのは私だ。
 それなのにいったいなにがこんなに悲しいのだろう。夕斗君は泣いている。低い声をなんとか押し殺して、私を抱きしめながら崩れ落ちるようにぼとぼとと私の肩口を濡らすのだ。私は、彼のこんな姿を見たくて卵焼きを頑張ったのだろうか。彼の、こんな姿が見たくて、私はもらったキーホルダーに喜んだ?彼の、この姿が見たくて、私は彼に会いに来たの、だろうか。彼に、ただただ、死んでほしくて?

 (違う、違う。ちがう!)

 そんなはずはない。そんなわけがなかった。分かっていたけど、私はそれ以上を言葉にはできなかった。
 ごめんなさい、と何に対してかも分からずに私は謝罪の言葉を口にする。もう手遅れだった。私は彼に好かれていたし、私もかれのことがずっとずっと大好きだった。だけど割れた風船はもう元の球面には戻れない。戻れないのよ、羽音。
 だから私は本当に言いたかった言葉を飲み込んでじっと泣いている彼の声に耳を澄ませる。私にも夕斗君の嫌いな声があるんだ。はじめて、恋は盲目ではないと知った。

 きっともうすぐ雨が降る。
 帰らなきゃ。でも、どこに?
 今はどこにも帰りたくなんてなかった。ただ、あなたの泣き声だけが私の心臓を揺さぶっていた。

 To Be continued.

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