Nutter's class


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 それからその花壇で話をした回数が減り始め、教室で話をした回数が増え始めた。夕斗君が休み時間にいなくなる時間が短くなって、夕斗君と言葉を交わす人が増え始めた。夕斗君が笑う頻度が多くなった。
 私は少しずつ明るくなっていく彼の座る机の前に座り込んで、夕斗君の昔の街のことを聞いたり、お兄ちゃんがいるらしいからお兄ちゃんの話を聞いてみたりしていた。私もいろんなことを質問されて、いろんな事を答えた。次第に互いの質問責めが少なくなって、だんだんと他愛もない話をするようにもなれた。空の青さを見て、「今日は昨日よりもきれいだね」とか、そんなくだらないことを話せるような仲になれた。機嫌のいい時に聴かせてくれる、夕斗君の歌声が好きだった。だけど、それよりももっとたくさんの夕斗君の好きなところが見つかった。私は彼の世界そのものが好きだった。

 「好きな季節はいつ?」と聞いたことがある。
 夕斗君は冬が好きだと答えたけれど、私は冬は嫌いだった。夕斗君に知られたくない私が、冬にはたくさんあるからだ。私はよく冬に体調を崩してしまう。色んな病気をいろんなところから貰ってきてしまって、すぐに病院に行くことになってしまう。ご飯もろくに食べられなくて痩せた時は、鏡の前の自分と目が合って悲鳴を上げたことだってあった。冬の私は大嫌いだ。
 今年は「悪い細胞ができやすいのね」と言われた。どうやら悪いところが見つかってしまったらしくて、冬休みをはいってすぐに病院に入院させられた。…そのときの自分の状態とか、どんな気持ちだったかについては、もうよく覚えていない。ただ、あの年の冬のあの数日の出来事だけは、忘れることが出来ない。一生忘れられない、私の心にあるただ一つの憎悪と絶望の記憶だ。それが、今の私を生かしている。

 彼は私を忘れてしまった。

 此岸と彼岸を行ったり来たりして、目を開けてしまった矢先に言われた一言だった。その言葉を最後に今度こそ死ねたらよかった。死にかけだった私のそばに、彼は来てくれたらしい。だけど私の姿があまりにひどいものだったんだろう。彼はショックで気を失ってしまい、そのままどうして自分が病院に来ていたのかも忘れてしまったそうだ。あなたのことが大好きだったからきっとそうなったの。仲のいい看護師さんが私をそうやって慰めたけれど、私にはそれが詭弁にしか聞こえなかった。もちろん、夕斗君がそこまでひどい男の子じゃないことなんて分かっていた。だけど、頭でわかっていても心は腑に落ちてくれないまま。私は、もう訪れてはくれない彼の影を独りよがりに憎んだ。それが、私の恋の終わりだった。

 私はそのまま病院に入院し続けて、先生とはプリントで連絡を取りあって、そうしてどうにか私立の中学校に入ることができた。一年遅れてしまったけれど、そうすることができたのは先生の力があったからだ。彼とのことを何も知らない先生は、「夕斗君は公立の中学に行くのよ」と教えてくれたけれど、だからこそ私は私立に行くのよとは教えなかった。友達の梢ちゃんが言うには、夕斗君は私のことをやっぱり忘れてしまっているらしい。どうしてだろうと首をかしげていた彼女に、本当のことを話す勇気はまだなかった。私の心の中に燻る感情を、誰かにぶつけたらおしまいのような気がした。

 その燻る思いを、返してやればいいんだよと悪魔の声が響いたのは中学三年生の夏の頃。あのときは確かちょうど向日葵が咲いているところを見て、どうして一緒にいられなかったんだろうとか、なんで彼は私を裏切ったんだろうとか、ずっとそばにいてほしかったのに、大丈夫って励ましてほしかったのにと不毛な堂々巡りの考えに陥ってしまって、その時だったと思う。ちょうどもうあと数年くらいしか生きられないと、余命の宣告を受けたのだ。
 きっと私は大人にはなれない。次に大きな病気になれば、この身体は呪いに殺されることだろう。原因不明の体質に病院側からお手上げされたようなものだった。いつかはそうなるとは分かっていたし、そうやって言われても心はやけに静かだった。隣にいたお母さんが私の代わりに泣いていたからかもしれない。数年、というあいまいな言葉に私は冷静だった。数年、数年あれば、何ができるだろう。何をしたかっただろう。残りの短い人生の中で、叶えたい後悔を終わらせるには。考え始めて、ぱっと浮かんだのはやっぱりどうして、彼のエメラルド色の瞳のことだった。
 彼に会いたい。もう一度彼に会って、彼に教えてやろう。ひとりぼっちで恋を続けた私が、どれだけ苦しく、寂しかったか。
 何事もなかったような顔をして、傷ついてなんていないふりをして、私を忘れたあなたに会いに行こうと思った。会いに行って、もう一度仲良くなって、私を好きになってもらって、そうして手ひどく裏切ってしまおう。前触れもなくいなくなってしまおう。そうしたら、裏切られる痛みをきっと分かってくれる。私がどんな気持ちで病室で目を覚ましたのか、分かってくれるような気がした。そう決意した時には、もう止まらなくて。

 「私は、あなたに復讐しに来たんですよ」

 私は、何も考えなしに、その日あなたの前に現れたのだ。
 



 「キミを捜している男がいる」

 散らばった服をかき集める私の背中に、その人は気まずそうに声をかけた。汗で冷たくなった背筋が余計に冷たくなったような気がする。「そうなんですか」となんとか絞り出した、私の声色はいつもと同じだっただろうか。

 常連である旦那様(私がお客さんのことをこう呼ぶのはこの人だけだ)は普段白崎の駅で働いている。許可を得ていない人がこの街に来ること、この街を出ることを防ぐ仕事をしている。所謂町の番人、国家公務員様(国家の犬)だ。
 そんな常連さんにも常連さんがいたらしい。前々からその人の話は聞いていた。熱心にこの街で行方不明になった人を捜している男の話。でも、そういうことはよくあることだと思っていた。自分に関わることだと思っていなかった。…私のことでそんなに一生懸命になる人なんて、この世にいるわけがないと思いたかった。そうやって期待をしないほうが、何よりも楽だったからだった。

 「お嬢と同じ名前の女を探しているみたいだよ」
 「…私を裏切ったんですか?」
 「そんなつもりなかったよ、向こうの執念。俺はそれに折れただけ」
 「……」
 「過労で倒れたっぽいところに、寝言でキミの名前を言ってた。俺だって、話をするまでは知らなかったよ」 
 「…ずいぶん、馬鹿なご友人がいらっしゃったようで」

 自分の冗談に私は笑えそうもなかった。冷たいままの二の腕を、背中を抱きしめたくて私は自分の体を抱きしめる。いつもならば抱き寄せてくれたはずのお客様は、もう私を抱きしめてはくれなかった。きっと罪悪感でも抱いているんだろう。こんな時こそ女は男に抱きしめてほしいのだということを、この人は分かってくれない。だったらセックスなんてしなければいいのに。今日が最後のつもりだったんだろうか。分かっている。この話をしたら最後、私はもう旦那様の女では居られない。だってこんなにも、心臓の鼓動が溺れそうなほどにうるさい。
 最後の夕立ちを思い出す。あの馬鹿みたいに激しく降った雨の中で、どうしようもない私に「すきだよ」と言ってくれた人。忘れたくてしょうがなかったはずの必死な声色が、深い青を宿した瞳が、瞬きをするたびに私を呼び戻そうとしてくる。もう、そんな人なんて思いだすことはないと思っていた。だけど、姿がよぎった瞬間、一気にいろんなものが溢れそうになった。思い出してはいけないもの。思い出したら、私は一人では立ち上がれなくなってしまう。御冗談でしょう、と思わず声に出た。もうこの街にはいられないかもしれない。この街以外の何処にも行けないのに、まるで自由があるかのような思考だった。

 「…どこで何をしているかは、伝えてしまった?」
 「まあ、相手が必死だったから」
 「そう…旦那様とは長い付き合いだったけど、これで最後かな」
 
 茶化すつもりだったのに、私の言葉には色の一つもなかった。商売女として失格だ、なんてちょっとでも抱いていたはずのプライドに傷がついたのを感じながら、のろのろと下着の紐に腕を通し始める。きっと、彼は知っただろう。私が今何をして生きているか。この人とどんな関係か。どんなに汚れてしまっているか。もうすべてをわかっているんだろう。分かってくれるのならば、これ以上探さないでほしい。探さないでほしいはずなのに、幻滅されていることが自然であるはずなのに、心は未だ期待していた。最低な期待に、食べた昼ご飯を吐き戻したい気分だった。

 「…お嬢、どこに行こうとしてるの」
 「…しばらく、身を隠さなきゃ。見つかりたくないもの。旦那様の話が本当なら、今の時間に探されていてもおかしくはないでしょ」
 「相手も公務員だ。明日は平日だし、こんな時間までは厳しいだろうさ」
 「……」
 「朝まではここに居ると良い。俺はお嬢のこと、ただ抱くために買った覚えはないよ」
 「……」

 嘘吐き。はじめは抱くために買ってくれていたじゃないか。そんな言葉を言われたら、引き留められてしまったら、私は私を隠せなくなってしまう。どうしてしまえばいいというの。
 何もかもの感情を飲み込んで、背後からやっと抱き込んでくれた違う男の腕に私は甘える。この人を客としてではなく、人として好きになれたらどれだけよかっただろう。この人を男として好きになれていたなら、私は私を照らす白い月の光から、目を背けて生きていけたのだろうか。照らしてくる薄明りに私はぎゅっと目を閉じ、男に愛撫を強請った。すべてを忘れてしまいたくて縋る私の右手を、旦那様は優しく絡めとってくれる。何もかもが不毛だった。

 だって、今日も月はどうしようもなく美しかった。
 避けられないほどに、美しいままなのだ。




 夕斗君はびっくりするくらい昔と変わらなかった。私の名前を人前で呼ぶ時にちょっと言いにくそうにするところも、私が右隣に並ぶとすぐにそっぽを向いて、でも気がつけば私を左目で追ってくれるところも。ぶっきらぼうなところも、照れ屋なところも何もかもが子供の頃と同じだった。ちょっと違うところがあるとすれば、昔よりも声が低く重たくなったこと。表情が少しだけなくなって、いつも眠たそうになっているところくらいだろうか。あと、やっぱり「物忘れ」は酷いらしい。彼はどうしてか自分のお兄さんのことまで覚えていないようだった。風のうわさで家を出ていったとは聞いていたけれど、家族のことまで忘れてしまうなんて衝撃的だった。あんなに大好きな人を、忘れてしまうほどに苦しかったということなんだろうか。でも、忘れているものをそれ以上口には出したくなかったし、それを話題に出せば私が苦しい思いをする羽目になるような気がした。私が、その話には触れたくなかった。それでも夕斗君は昔と変わらなくて、相変わらずお人好しな程に優しい。そんな昔と何も変わらない彼に、私も変わらないふりをした。ただ、本当の話を彼には言わない。

 私は彼に恋をするストーカーとして、私は彼にお弁当なるものを作りはじめた。これは自信があるからそうしているとか、アプローチのためというよりどちらかと言えば嫌がらせのつもりだった。私は料理が得意じゃないし食べること自体がそもそも嫌いだった。卵の殻だって上手に割れない。お人好しにつけ込んだほんの嫌がらせだった。どうして大好きなのに復讐したくて、仲良くなれたら嬉しいのに嫌がらせがしたいんだろう。私の事だって言うのに、どうしてか答えは私にも分からない。
 案の定、はじめて見せた時、焦げた卵焼きを前に夕斗君は「マイナスだな…」と笑いもせずに呟いた。相変わらず素直すぎる反応にショックを受けつつも変わらないところがおかしくて、私は笑いながら怒ってしまう。いらないなら食べなきゃいいのに、それでも優しい夕斗君が美味しくなさそうにお弁当を食べてくれた時、私はどれだけ彼がお人好しで、悪い人じゃないかを知ってものすごくほっとしてしまった。次の日のお弁当はお母さんと一緒に作り始めた。あんなに嫌そうな顔が見たかったはずなのに、次の日の私はただただ悔しいあまりで喜ばせたかった。

 暇そうに放課後を過ごしているらしい彼の帰り道を独占だってした。付き合ってもいない女の子と「幼なじみ」を理由に並んで歩いてくれる彼はお人好しを通り越してばかなんじゃないかとさえ思ってしまった。はじめは私が一方的に喋り倒すだけだった放課後は、気がつけば彼はなんでもない私の言葉にふっと笑ってくれるようにさえなってくれた。今日のお弁当の感想、明日食べたいもの、授業中にあったこと、昔の思い出。他愛のない話に彼は笑ってくれる。
 でも私は彼に本当のことは言わないし、「あなた、私と再会した時に私がなんて言ったか覚えてますか」とも聞けない。
 都合よく彼は友達のような、恋人未満のような、よくわからない私をただの身近な大切な人の一人に数えてくれた。いっそ私だってそうやって過ごせたらよかったのに、どうして私だけは夢の続きを見られないのだろう。彼と居る時、どうしても世界は彩やかだった。彼の低いテノールを隣で聞くことが、いつだって心地よかった。

 でも、私は誰よりも早く死ぬ。

 きっと両親よりも早く死ぬ。クラスメイトよりも。先生よりも。街路樹よりも。そのあたりを歩いている野良猫よりも早く死ぬ。私には進路も未来も夢もない。私にあるのは、何もかもを数年内に失うという確定した現実だけだ。あなたの隣にはいつまでも居られない。私はまた、いつか忽然とあなたの前から消えるのだ。

 「あの、夕斗君。私、いちばん大きな街に行ってみたい」
 
 それなのに私は分かっていて単純にデートに喜んでしまった。普通においしく食べてもらっているたこさんウインナーを箸でつつく夕斗君が、悩みに悩んだ私の返事に「なるほど」と呟く。どういう意味の「なるほど」なのかわからなくて、同じ中身のおかずをつつきながら私はどうしてか笑ってしまった。

 「何がしたいってわけでもないんですけど、外にはいろんなものがあるじゃないですか。それこそ、夕斗君が聴いてたような音楽とかが街に流れているんでしょう?」
 「どこでもかしこでも流れているってわけでもないけどな。俺が知ってたものとは違うだろうし」
 「それでもほら、近くならきっとまた行くことがあったときに次のやりたいことが決められますよ」
 
 あるかないかもわからない「次」という私の言葉に柔らかく彼が「そうだな」と遠く呟いた。すっかり私を信頼して、棘のなくなった声色に私は肩をすぼめていたと思う。私は、その時ちょっと浮かれていた。あなたに信頼をされていることが嬉しくて、子供の時みたいにただただ無邪気に横に並べたことが、夢みたいにうれしくて舞い上がっていた。だから、きっと罰が当たったのだろう。私は私のやるべきことを、思い出さないといけなかったのだ。

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