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曰く、「愛を売るお仕事」というのは私が思うほど毎日毎日やることではないらしい。
もちろん客が捕まらなければ、羽振りのいい客に当たらなければ毎日毎日売り歩くそうだけど、高く稼げれば休む日だってそれなりにある。夜の仕事が嵌れば戻って来れない場所だというのはつまりそういうことらしい。慣れたらそれ以外の仕事がバカバカしくなるってホントだよ、と美沙さんはからから冗談を言う。その時の目は笑っていなかったけど。
つまり昨日に美沙さんは一週間分を稼いできたそうで、その分贅沢さえしなければ夜は休みなのだそうだ。当然今日外に出るはずだったらしい麻矢さんもこのビルの中にいるらしい。おかげで昨日の光景が日常なのだと思い込んでいたばかりに、静かにバーカウンターの一角に腰を下ろすその男の姿は違和感でしかなかった。
私は部屋の一番奥の椅子に腰を下ろす男に近寄ることが出来ず、扉の前で立ち竦む。午前中に言われた美沙さんの言葉を真に受けて、悶々と考え込んだせいで昼も夕方もまともに顔を見れなかった男は今、疲れ切っているかのように顔を伏せたまま動かなかった。茶色のロングスカートの中で足を組んでいる男に私はなんとかそろりと近づこうとする。近づこうとしただけで、足は一歩も動かなかった。
芽衣さんの部屋には今美沙さんがいるらしい。どういう生活をしているのかは知らないけど、日が落ちれば眠るらしい。やっぱりほとんど動かないし暗くなると寝てしまうんだよね、と軽く言っていたけどそれって鬱病とかなんじゃないか、と浅い知識で思ってしまった。思っただけで、言わなかったけど。何はともあれそんな彼女のことは今美沙さんが見守っているそうだ。何が言いたいって要するに、誰も私を助けない。私はぐるぐる回る頭の中で必死にどういう言葉を第一声にするべきなのかを悩み続ける。悩んで、最終的に私は声を出すことを諦める。踏みしめた絨毯の感触が靴越しにも重たく感じた。
「……」
生成のブラウスと茶色のスカートは、男の何もかもを女性的にしていた。ひろくんが可愛いタイプだったなら、男は綺麗、とかそういう感じだっただろう。昼と夜の少食っぷりと、肉と魚を避けていた偏食のわりには艶のある黒髪と健康的な肌の色を私はじっと見つめる。目を開ければ傲岸不遜な物言いをするか、芽衣さんの前では猫なで声をあげるかのどちらかの狂った性格をした男は、黙って目を閉じていれば綺麗だった。でも、思うのはそれだけだった。私はきっとここで頑張れるし、いつかはこの人たちと冗談だって言えるようになるだろう。ひろくんのためにも私のためにも、私は上手く振る舞うだろう。でも、私は多分、この人に恋はしない。そんな恋愛対象でもなんでもない人に、私は今から「抱いて」と乞うのだ。それってすごく、不毛で、悲しい。
「…でも、知らない人にされるよりはずっと、多分、本当にマシで。あなたからすればきっと、傍迷惑だろうけど」
「……」
「でもあなた方が嫌う神様と、私は取引をしたから。だから、私は私の事だって利用するんです。あなた方は怖いし、わけがわかんないし、狂ってると思う。でも、そこに喜んで巻き込まれに行く私だって」
「…貴様は独り言なのか話しかけてきているのか主語を付けて喋ったらどうだ」
狸寝入りだったらしい男が一メートル先の私を細い目で睨みあげてくる。黄昏時を過ぎた夜の始まりに、遠くから人のざわめきが聞こえる。それでも、私とその男の間には対した会話もなにもなかった。なんだ、もう私が言いたいことをわかっているんじゃないか。多分美沙さんが「ちゃんとお願いするんだよ」と言っておきながら裏では根回ししていたに違いない。それでも私に黙っていたのは、話す機会を作ってくれるためかそれとも動揺する私を傍目で笑うためか、両方か。それとも、この人が私が縋ってくることを知っていたからか。
「良いのだな、戻れなくなっても」
今更私に警鐘を鳴らしてくる男は、やっぱり思った通りお人好しだった。それもひどく中途半端な。
私は作った笑みで「戻るためにやるんですよ」と強がる。麻矢さんは浴場のある斜め後ろに向かって顎をしゃくった。
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