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「ぱちりと目を開けると、そこには見たことのない世界があった。」
昔どこかで見たことのあるようなフレーズが不意に脳裏を過ぎって、僕はそのフレーズ通りに目を開けた。灰色の天井が遠くって、そもそもその光景に見覚えさえもがなくて、まずはじめに疑ったのは誘拐だった。でも、自分の手足が自由であることと、呼吸も自由であったことから、そうではないと気づくまでに時間はさしてかからなかった。誘拐とはもう少し物騒であるべきものである、と経験則から理解していたからだ。僕はやたらと重い頭と一緒に胴体を起こし、額部分を手で支えながら周囲の光景を見渡す。
自分が木製の長椅子に寝かされていたことに気がついた。床も壁も灰色の石で出来ているらしい。眼前には十字架が掛けられていた痕が日焼けして残ったからっぽの祭壇があった。どうやらここは聖堂…というより教会らしい。この手の建物には見覚えがあった。街の中心部にあった集会場だ。昔は教会として使われていたとは遠い昔に父から聞いた覚えがある。昔確か年末に連れてこられてヴァイオリンを弾かされたっきりで、あれから特に入った覚えはなかったけれど…ここってもう少し小綺麗だったというか、広くなかったか。
(いや、変だな。どうしてすぐにここが白崎だと決めつけてしまったんだろう)
僕は自分の安直な考えを首を振って否定する。落ち着いて物事を整理するために、僕は続いて状況整理に徹することにする。そもそも前後の記憶に何があったかを思い出さなければいけない。七月にしてはどこか肌寒くも感じる薄日が差す広々とした聖堂の真ん中で、僕は自分のこめかみを押さえる。とはいえ、最近はあまりいい話がなかった。思えば自分の思考がここまでスッキリしているのは久しぶりで…そう、それこそ、今月は一日から下級生の女の子が死んでしまって、あれから色々と酷かったから…本当に、「あの子」がいなかったら僕は今頃どうなっていただろう…。
「あ、」
そこまで思い出したところで僕はようやく最後の記憶に辿り着いた。そうだ。世界は「終わった」のだ。終わっていく世界で、僕は大好きだったキミが目を覚ました世界で幸せであればそれでいいと思って、あの世界で生を終えようとして、…それで?キミの幸せを一番に知っているはずの、あの子はそうしてどうなった?
僕はなりふり構わずに小さい子供のように泣きじゃくりながら双子の片割れに手を伸ばしていたひろくんの表情を思い出す。何もかもが台無しだった。綺麗に終わった僕とひろくんの物語は、彼女が最後に引っくり返してしまったんだ。嫌な予感がして追いかけてみたらアレだ。僕は一言、いつか彼女に言わないといけない。何が広人くんの幸せかなんて僕が語れる口ではないだろうけれど、それでも姉のくせにキミはあの子のことをなんにも分かっていなかった、と。
ひろくんは真っ黒な影に引きずり込まれるようにぽっかりと空いた沼に沈んでいく彼女に懸命に手を伸ばしていた。もう白が過ぎてホワイトアウトした吹雪の中のようにぼやけた光景に、夢の終わりを悟りながらもそれでもキミは大好きな姉を取り戻そうとしていた。僕だってそれを黙って見過ごすわけがなかった。でも、キミの手を彼女はもがきながらも振り払った。
それになんだか道理は分かっていても腹が立って、僕は一緒に飛び降りてやったのだ。確か。
正直心中したところで何もいいことなんて無いことは分かっていたし、我ながら無駄なことをしたと思う。でも、今それを振り返ることが出来るだけの余裕がここにはあった。何せ僕はあれで彼女と死んだことになるんだと思っていたけれど、何処かもしれないここで僕は確かに生きている。多分、彼女も一緒にいるはずだ。つまり僕はあの最後まで可愛くなかったあの子に一言言えるのだ。そう考えると、知らない場所に来てしまったとはいえチャンスがあるのも悪くは無いような気がする。
あの世界が夢だったとか連日続いていた幻聴とか、ひろくんの存在だとか説明の付けられないことだらけでわけがわからないのは置いておいて。
「おや。彼、起きているようだよ、…紘子?」
「…え?」
不意に入口付近から物腰の穏やかなテノールが聞こえて僕は声のした方を反射的に向いた。それだけであまりに心臓が穏やかではなくなったのは、声にひどい覚えがあったことと、その女の名前にもひどい覚えがあったからだ。達観した年寄りのような喋り方をする男を僕は思わず凝視してしまう。ダブルブレストのスーツは見慣れていたはずだったけれど、男があまりに若い顔立ちをしていたせいで少しだけ、僕はその男が背伸びをしているように見えてならなかった。ただ、男は、僕にとってひどく見覚えのある男だった。
「父さん」、とうっかり言葉にせずに済むことが出来たのは右半身に衝撃が来たせいだった。どんっとぶつかって来た女から漂う花の香りに僕は思わず眉をしかめてしまう。不老不死になって美少年を侍らせたい、が母さんの将来の夢だったんだよ。ーーと休日に父親からランチに誘われた時に不意に惚気られたのはいつの話だったか。息子相手にやたらと自分の服の趣味を押し付け、加齢をやたらと気にして突っかかってきた…母親、安藤紘子が僕の頬をぺたぺたと触ってくる。僕と同じ遺伝子を持った女はクリーム色の髪に水色の目をして、興味深く僕を観察するもそれでも愛想のない真顔だった。
「あの、ちょっと。なに」
「……」
「紘子、よしなさい初対面の男の子に。キミもすまないね起きたばかりでこんな」
「はぁ、…いや、…はい」
男に剥がされた女が不満げに男を睨み返す。僕はどんなリアクションをすればいいか分からず、いずれ結婚し僕を産むのだろう両親の若かりし姿にいたたまれなくて目を逸らした。男…安藤奈津夫は僕が息子であるとはまさか夢にも思っていないのだろう。息子の前で「ほら紘子彼が怖がっているだろう」と教師のような声色で自分の妻を諭しているが、僕は男がこう見えて嫉妬深い男だと知っている。ただ、その男に対して素知らぬ顔でそっぽをむく母親の子供っぽいところも見覚えがあったせいで僕は余計にどんな顔をすればいいのかがわからなかった。そんな僕の心境を何か勘違いしたらしい、男は僕を憐れむように両眉を下げた。
「すまないね。彼女は若くて美しい少年が好きでね。キミがあまりに美しいからずっと気にしているようなんだ」
「…それは、どうも」
「本当にすまない。だが私から見てもキミはたしかに美しいし、まるで美の女神アフロディーテが息子…」
「いや、大丈夫です。大丈夫。そこまで褒めてくれなくても」
褒められることには慣れているとはいえ親にここまで真顔で言われると逆に馬鹿にされている気になってしまって僕は手で男の言葉を制する。本気で褒めてくれているのはわかる。分かるけれどこの男の語彙は昔から思っていたけれど古臭くて駄目だ。オペラと演劇の見すぎなんじゃないかと悪態をつきたい思いを堪えてなんとかただの他人を演じると、男は「そうかい…」となぜか残念そうに目を細めた。…参ったな。ここが「過去」らしいということはありありと突きつけられた光景のおかげで理解はよくできたけれど、よりにもよってファーストコンタクトが自分の肉親になるなんてつくづく僕は運が悪すぎる。おかげで現状の会話に気を取られてまったく状況整理が出来そうにない。
「…それで?キミはいったい何者なんだい?」
いよいよ天を仰ぎたくなったところで突然男がどこか冷ややかな笑みで僕を現実に引き戻した。個人的に最悪のファーストコンタクトに僕はつい同じ笑みを男に向けてしまう。「そっくり」と隣の女が小さく口を開けて僕と男を見比べていた。
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