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「広香、どうしたの?」
はっと目を開けるとそこには見慣れた教室があった。目の前にいるオレンジがかったピンク色の瞳とばっちり目が合う。ピンク髪同盟、なんて言って四月から打ち解けた彼女――氷衣あかりは視線を合わせた瞬間にんまりといたずらっぽく笑った。何授業中寝てるのよ、と。
「じゅぎょう…?」
「そ。教室の前の席で堂々と寝てるんだもん、佐藤先生が呆れてたよ」
「え、嘘。わたし…」
夢心地の中で私は教室の前を見渡す。黒板消しを持って跳ねながら柘榴と二人で黒板を消す紫苑。黒板には確かに奈良時代のことがつらつらと書かれている。そんなに板書しない先生だった気がしたけれど、黒板は今日は一面に書かれていたみたいで、遠くの柘榴の前髪がかすかに白くなっていた。私はそれでもまだ信じられなくて、今度は後ろを振り返る。教室の窓際、後ろの席では何処吹く風といった感じでいつも通り雪が本を読んでいる。それから緑疾君の席には咲良がそばにいて微笑んでいる。いつも通りだ。どこからどう見ても、いつも通り。
「…あかり」
「んー?どうしたの、セクハラはいかんぞ〜あかりはこう見えてお高いんだからね」
「知ってる…」
「え、ちょっと?どうした?なんで泣いてるの」
なんだ、夢か。
どうやらひどい夢だったらしい。あんな風に世界が終わることもなければ、弟の代わりに私は死ぬわけでもなかった。いつも通りの教室の風景に私は安堵のあまりにあかりの腰に抱きついて蹲る。酷い夢だった。本当に。あんな夢はもうごめんだ。
どうしたんですか、麻生さん。可哀想に怖い目に遭ったんだって。そうなの?大丈夫、広香元気だして。そんな友達の声を頭上に聞きながら、教室の真ん中で私は嗚咽を漏らし続ける。今だけはいい。今は冗談だとしてもきっと笑って聞いてくれるだろう。あのね、あのねと私は幼い子供のような舌足らずで悪夢を語った。あのね、怖い夢を見たの。世界が終わる夢。私が死んでしまう夢。死にそうになったけれど、でも弟が現れて、私はその子のために命を投げて、そうしたら――。
「何言ってるの、キミって一人っ子だったじゃない」
まくしたてるように夢の話をする私をクラスメイトがそうして一笑した。どれだけ凝ってる夢を見たの、と笑い飛ばす彼女は、確かに氷衣あかりに間違いなくて、けど私にはその笑顔が冷たく見えた。違う、ちがうと私は首を横に振りながら彼女の腰元から腕を放す。夢なわけがない。夢なわけがあるもんか。そこまでもが夢であったら、私はもうどうしようもなくなってしまう。広人のいない私なら、それはもう私じゃあ、
「だとするなら、貴女を定義するのはこれになるのかしら」
背後から知っているような知らないような、聞き覚えのない女性の声が響いた。もしかしたら、女性ではなく少年の声だったかもしれない。性別のない中性的な声に私はそっと後ろを振り返る。あるはずの教室の壁はなくなっていた。並んだ机と椅子の向こう側には、掲示板もロッカーもなくぽっかりと暗い穴が空いている。その深淵から、蜂蜜色の瞳が暗く揺れた。
「■■、急に振り返ってどうしたの」
また背後――さっきまでの正面から男の声が響いた。今度は聞き覚えのある柔らかなテノールで、でも、私が知っているよりは何故かひどく冷たく落ち着いている声だった。
あれ、そもそも、今なんて呼ばれたんだろう。
確かに私は今呼ばれたような気がしたけれど、でも、多分それは私の名前ではなかった。もしかしたらいつの間にか私は私ですらなかったのかもしれない。灰色の見慣れないブレザーを身にまとった胸元を見下ろして悟った。でも、「あのね」と何気なく発したその声は、たしかに私の声だった。男の声も、よく知っているテノールだ。あの体育館の壇上でマイク越しでも朗々と聞こえる忌まわしき声。私の大嫌いな男の声だ。でも、私が私でないように、男も男ではなかったんだろうか。
「…どうしたの、そんな化け物でもみるような顔をして」
目が合った先、あるはずのあの湖面のような水色の瞳は真っ黒だった。太陽に透けたようなあの金髪も、白い学ランも、知っていた鮮やかさがすべて抜け落ちたその男は、それでも私の知っている「安藤慶」と同じ顔をしていた。化け物でも見るような顔。それはきっと間違いじゃない。あなたはおかしい。多分私もおかしいだろうけど、今だけは棚上げしたい。変だ。こんなのは変だ。私を、私を「そんな名前」で呼ばないで。呼ばないで。呼ばないで。
呼ばないで。
「……」
悪夢だ。起き抜けの頭で一言だけ呟いた。なんの気休めにもならない夢のせいで気分は最悪で、それも起きた先の光景も薄暗いから余計に気持ちが重たかった。ほぼ真っ暗といっても差し支えないカーテンひとつない灰色の部屋で私は薄い毛布を落として起き上がる。「さっき」ほど背中は痛くはなかった。薄いとはいえちゃんと敷布団があったからだ。私は「さいあく」ともう一度夢に対して文句を吐いて、そばにあったライターを手に取る。暗くなったらそうしてね、と眠る前に言われていた通りに両手でライターを点け、近くの蝋燭に火を翳した。ぼんやりと部屋が揺れる暖色の光に染まり出す。それでも大きいとはいえ二本しかない蝋燭に火をつけただけの部屋じゃあ心もとないことに変わりなかった。しかも、やっぱり夢は夢でしかないことが、余計に。
今日は少し冷静になりたいでしょう、と休ませてくれたのは美沙さんだ。混乱する私をよそにあの人は自分の部屋を貸してくれた。私を解放する気はないらしく、でも監視するわけでもないらしくて、「仕事」とやらに行ってから数時間が経ったと思う。…時計がないから正直何も分からないけど、夕暮れの赤い空が真っ暗になるくらいの時間は多分経った。冷静になれ、と言われて何を考えることなく、一人になってから真っ先に布団に籠ったのは私なりの現実逃避だ。まだ夢を見ているだけなら、今すぐに覚めてほしくてしょうがなかったし、死んでいるならそれこそ成仏だってしたかった。でも、現実に経つべき時間しか過ぎず、結局私はまたここで目を覚ましてしまっている。
「どうしたらいいだろう」
それでも一人でいるだけ気持ちはさっきよりまだマシで、ついついの独り言がぽろっと出た。家族が誰もいない時にごはんを作っている時と同じくらいの軽さだったと思う。正直納得したくない。納得したくないけど、眠ったおかげで逃げたつもりでも確かに冷静にはなれてしまった。適応するのは昔から得意だった。周りと違う仲良くない両親、突然現れた弟、世界が終わると教えられたあの瞬間。目まぐるしく変わる環境に、なるべく早く溶け込めるのは私の長所のはずだ。重苦しすぎて人には絶対に言えないけど。
私はとりあえず窓の外を覗き込む。ネオンライトと暖色のランプが点いた街の外は一見すると縁日のような仄明るさがあった。やっぱりここって繁華街みたいなところらしい。それでも、繁華街にしては窓の外を見る限り人通りはまったくといっていいほどなかった。昼間に歩いたところがメインストリートだったはずだから、もしかしたら人がいるとしたらそっちなのかもしれない。いずれにしても高校生がいるにはあまりに不適切な場所に私がいるということだけは確かだ。それから、ここを離れることが出来ないということも。
「…なんでだろう…ああ、でもうん、わからないことばかり考えるのはちょっとダメだよね、ひろくんだってそうするはず。うん。やめよう、やめよう」
溢れかえりそうになった疑問と不安をかぶりを振ってごまかす。わかることを考えよう。そう決意して一人で頷きながら私は手のひらを前に出した。しっかりしよう、これでも一組なんだ。そこまで頭は良くないけど、それでも知力を買われたからあそこにいたんだ。賢くできるなら、賢くしていたい。だから私はわかることを数えながら指を折った。
ひとつ、ここは二十年前の白崎らしい。
ふたつ、でも私の知っている白崎とは全然街並みも違うし、そもそも私の知ってる白崎は断じて島なんかじゃなかった。
みっつ、でもそういえば白崎の歴史って習ってない。
よっつ、私はどうしてかあの人たちから離れられない。
いつつ、多分、私は何かしらの理由があってここにいる。
ちょうど片手で足りたわかることを数え終えて、紙や携帯電話があればよかったと思い直す。そういえば、持っていたはずの鞄がどこにもない。美沙さん知ってるかな。私は握っていた手から人差し指だけを立て直す。むっつ、私物は全部どこかに行った、ということで。わかることをあげつらえたところで今度は忘れないように私は蝋燭が立っている棚の下を覗き込んだ。並んでいる本の背表紙を睨みながら私は紙きれやノートがないかを探す。部屋は好きに使っていいし何を見てもいいとは言われていたんだ。冷静になるには必要ということで、と私は床に落ちていた鉛筆と本の隙間にねじ込まれていたチラシを引き出す。裏面が真っ白のチラシを引っ張り出して、私はぺったりと貼るように紙を窓に押付けた。正直かなり見づらいしまともに字が書ける気がしない。絶対目が悪くなる。でもないよりはマシだった。ぐちゃぐちゃと覚書を作ったところで改めて私はベッドに腰をかける。正直何も解決出来そうにない。ないけど、でも整理しないといけない。「えっと」と勝手に私は独り言を始める。ここにひろくんがいたらきっと怪訝そうに見られてたんだろうけど、なんの音もないこんな暗い部屋の中では自分の独り言くらいしか安心できるものがなかった。
「歴史、全然好きじゃなかったからなぁ…開拓史とか全く聞いてなかった気がするし。考えたこともなかったし…でも島じゃなかったよね…?」
いや、島なわけがない。だって街の南北を通る路面電車のほかに、隣町に続く電車だって通ってたんだ。いやでも埋め立てた、と言われたらわからなくはないけど、…わからなくはないけど私が小学校の時にはもう今と街並みは大差なかったような気が…するし…平地だったから納得が行くけど…。
「…?」
駄目だ、なんだかぼんやりとしててうまく思い出せない。隣町、どんな感じに電車が伸びていたっけ。別に好き好んで電車の風景なんて見てなかった気がするし、乗り物はそもそも酔いやすくて寝ていたことがほとんどだったせいで全然印象が湧いてこない。私ってこんなに自分の住んでる街に興味なかったんだ。なんだか漠然とショックを受けながら私は歴史について考えることを放棄する。分からないことを考えてもしょうがない。多分、二十年で変わったんだろう。昔と今は違うけど、変わったということだけは確か。そう無理やり結論づけて今度は違うことを考える。えっと、とまた独り言をはじめながら。
「…何を考えているんだろう」
あの人たちも、神様も。
何ひとつとして意図が読めない。多分、あの人たち――美沙さんたちは多分、あまりまともな生活はしていない。それは昼間の様子から見ても明らかだった。同じ歳くらいの血の繋がりのない他人同士が、こんなビルを「家」と称して暮らしている。それから、「仕事」とやらには夜に行く。この繁華街の外で。それだけでも十分異常だ。生活に余裕が無いことなんて目に見えてる。…それなのに私をここに置く理由って?
「売り払われる…?」
口に出した瞬間寒気がした。なんか、そんな気がする。どうしよう、手足とか切り落とされてダルマにされたら。なんかそんな映画を前に深夜番組で芸能人が紹介しているの見たことあるし。どうしよう、そんな気がしてきた。やっぱり逃げた方がいいのかもしれない。でも美沙さんが外に行ったことはさておき、あの人、アザヤさんとやらがビルにいたら色々と怖いし、それにここに住んでいるのがあの二人だけとも限らない。
つまり、逃げるだけ厄介なことになるだけだ。そういうの、前に幕末と吸血鬼を掛け合わせた乙女ゲームで見た。それでもダルマにはなりたくないし、トロッコに乗せられてあぜ道を見送られるのもごめんだ。どうしよう、素直に売り払われたくない。でも逃げ出して殺されるのも無理だ。さっき死ぬ覚悟はしてここまで来たとはいえ、それでもまだ死ねるかって言ったら多分私はそうじゃない。ていうか眠るように死ねるならともかく、痛い死に方は嫌だ。それこそ今意識がある意味が無くなるわけで。
「…ねぇ、見ているんでしょう」
だから私はとうとう独り言をやめて薄暗い部屋に向かって話しかける。宵闇に溶け込んだ黒髪が、くすくす小さく笑い声をあげるように揺れた。ああ、ほらやっぱり。あの夢の中で私にやたらと構い倒してきた「神様」が、こんな中途半端な現場に私を放り出すわけがない。ずるり、と暗闇から影を作った神様は「ごめんなさいね」と白い手を伸ばして私の頬を撫でた。あの日みたいだ。あの日、はじめて出会った時も、この人はこんな風にゆっくりと姿を作って私の前に現れた。なんだか、懐かしくって、それでも今はこんな感傷なんて望んでいない。
「貴女ったら想像力がとても豊かなんだもの、一人で慌てて、なんだか愛らしかったわ」
「…私で遊んでいたの?」
「ごめんなさいね」
「…なんで、私はここにいるの?私、死ぬんじゃなかった?」
「そうよ」
暖色の光に照らされた神様の唇は柔らかく弧を描いていた。慈悲深い女性の笑みは、とてもじゃないけれど「お前は死にます」と宣告した女のそれではない。残酷だ。ひどいひとだ。私は「だましたの」と声を震わせる。違う。別に騙されてなんかない。確かに私は弟のために身代わりになると言った。でも、その代償があの瞬間に、今すぐにやって来るとは誰にも何も言われていなかった。
神様は窓の外を見遣りながら「少し散歩がしたかったの」と世間話めいた声色で私を手招く。ほら、見てこの街。貴女の知らない街。私の愛した世界なのよ。そんなことを言うけれど、生憎窓の外は薄暗くて、昏い灯りがぽつぽつ浮かんでいる程度にしかなんにも見えない。「汚れているよ」と素直にこぼしてしまったのは、私の本心以外の何ものでもなかった。とはいえ、あの夢の中の世界が本当にきれいだなんて思っていたかといえば、そうではなかったけど。
「ねぇ広香。私ね、貴女にお願いしたいことがあるのよ」
「…それが、代償?」
「いいえ。私の個人的なお願いよ。別に嫌ならいいわ。帰すことは出来ないけれど」
「…考えとく。脅迫に乗るほど追い詰められてないし」
「あら、余裕ね。せっかく動機を与えようとしたのに」
やっぱり人を良いように動かしたかっただけらしい。あまりのあからさまな本性の見せ方に私は汚い、と零した。このひとたぶん、現実に人間として存在していたら友達なんてきっとできなかったに違いない。けれども人間ではなく所詮神様でしかないその女は、私の愚痴を「そうかしら」と一笑した。
「人はこういう神からの脅迫を、運命と呼んでいるじゃない」
「…だとしても、」
「まあいいわ。今日答えを聞くのは『演出』的につまらないものね」
「……」
性格が悪い。絶対友達がいない。私はいっそその悪口を言葉にしてやろうかと神様を睨みつける。けれど彼女はもはや私と話をする気はないらしい。「おやすみなさい」と彼女は私の頬を撫で、そうして真っ黒な瞳で私の顔色を覗き込んだ。あの、夜空をそっくりそのまま映しとったような瞳で。それで?それで、現実はどこまで進んだだろう。わからない。何ひとつとしてわからない。ただ――、次に目を開けた時、そこには知らない場所でのいつも通りの朝があった。それだけだった。
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