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適当な服を上下持って脱衣所まで足を動かす。扉を閉めたところで聞こえたかもしれないため息が出た。濡れた服の重たさと冷たさは水中ならば感じることのない違和感だっただろうに、今は鉛のように重たくて気持ちが悪い。それなのに一度ズルズルと座り込んでしまった以上すぐにどうにかしようという気にはなれなかった。
…なんだろう。この気持ち。普通好きな子が自分の家に居てしかも服透けてるとか普通欲情することだけ心配しないか?
平静を装っていたはずの掌はいつの間にかどうしようもないほどに震えていた。大した距離を走っていないのに息は未だ上がっている。それなのに背筋がずっと冷たくて、好きな子に何かしてしまうかもしれない興奮より先に這い上るのはただただ「恐怖」だった。
…駄目だ、一人放ったらかしにして病むな。雨のせいでナーバスになっているだけだ。言い聞かせてのろのろと俺は着替えにやっと着手する。ついでに濡れ鼠になってもなお存命でいてくれた携帯で美沙ちゃんが一番信用しているであろう男に電話をかける。四コール鳴ったところで聞こえたもしもしの声はひどく眠たげだった。
「寝てたところごめん」
『分かってんならなんで電話するんだよぉ…課題なら金曜なかったよ…』
「美沙ちゃんと一緒に居たら通り雨に巻き込まれた。さすがに俺の服貸すとかアウトだと思うから俺ん家に着替え持ってきてくれない?」
『はぁ!?』
受話音量が例えるなら一から五に急に跳ね上がったような音量で電話の向こうの成一が叫ぶ。いや、分かる。何をどうしたらそうなるんだって感じではある。でも事が事だった。
「経緯は後で話すから。暖房の前に居させてるけどこのままじゃ風邪引かせる」
『……分かった』
デカすぎる溜息を最後に電話が切れる。洗濯機に濡れた服を放り込み、あまり使っていないタオルその二を持って脱衣所を出る。暖房前で大人しく座りながら髪をタオルで拭いていた美沙ちゃんがこちらを見た。こんな状況だけど顔色はさっきよりもマシそうだったけど、なんだか妙に落ち着いているようにも見えた。
「待たせてごめん。今成一に連絡したから。着替え持ってきてくれるって」
「あ…そうなんですね…。すみません、ありがとうございます」
「むしろ俺がすぐに着替えとか渡せたら一番良かったんだけどね、流石にそうもいかないから。あとこれも使って、足りないでしょ」
暖色のタオルをぼんやりした顔で美沙ちゃんが受け取る。妙に静かだ。いや、もともと静かな子なんだけども。熱でも出しているのかもしれない。そう思って「美沙ちゃん?」と声をかける。こちらに目線を向けてくる美沙ちゃんの視線は僅かに悲しげで、もっと言えば同情的なものだった。
「…不躾なことを聞いてしまって申し訳ないんですが、もしかして亮介さん…ここに一人で暮らしているんですか?」
「……ああ、うん、まあ…ね。親居ないから…」
いつ聞かれても不思議じゃなかったことをどう返せばいいか分からず、一瞬フリーズした自分がいた。頭のどこかで「お前がそうしたんだよ」と正しく殺意のある自分が毒づいたせいでもあった。
忘れてた。親が居ないことは喋っていなかった。成一にも別に口止めしていたわけじゃなかったけど、そもそもあの男は人の事情をペラペラ他人に喋る質でもなかった。どうしよう、どんな態度を取るのが正解だろうか。思えばこの子にあらゆる意味でお近づきになりたいと思っていたけど、家に入れることまでは想定していなかった。
「なんというか…ごめんね。親が帰ってくるような状況ならともかく男の一人暮らしの部屋なんて余計心配だよね」
「そんなこと…今更気にしてないです…ぜんぜん…でも、」
「でも?」
「…寂しくないのかなって……すみません、多分私が寂しいからなんです。ごめんなさい…失礼なことを考えてしまいました」
「…寂しくないと言い切るのは嘘になるよ」
気を遣わせないように「寂しくない」と言い切れば良かったのに出てきたのは真逆の言葉だった。思わず出てきてしまった言葉に内心でも驚きながら、言ってしまった言葉を取り返すことは出来ないので「いやでも」と言葉を続ける努力をする。
「近くに親戚一応いるしね、何年も同じ生活してたらさすがに慣れたし心配されるようなアレじゃないから大丈夫」
「そういうものですか…?」
「違うかもしれないけど…無いもの欲しがってもしょうがないから」
言いながら左の肺あたりがぐっと縮んだような気がした。我ながら女々しいことを言ったとも思った。
美沙ちゃんは泣き出しそうな顔をしながら俺の言葉を聞いている。ああそうか、境遇的には同じ状況だから俺の虚勢って全部彼女に刺さるのか。彼女のことを好きだと思う自分と、殺してやりたいと思う自分が呟く。だからこんな話はしたくなかった、と。
「…なんかごめんこんな話して」
「い、いえ…!私もその…聞いてしまって申し訳ないです…でも、」
「でも?」
「……難しくてもいつか本当に寂しくなくなるといいな、と思って」
目線を逸らしながら美沙ちゃんがちょっとだけ顔を赤らめる。彼女的には恥ずかしい台詞だったのかもしれない。「そうだねぇ」と彼女の頭を撫でると美沙ちゃんはぎゅっと目を瞑った。可愛い。いやでもちょっと待て、何もしないって言ったのになんで俺はさも自然に頭を撫でた??
「……ごめん、つい撫でちゃった」
なんとか大声を出すのを抑えてそろそろと彼女の頭から手を離す。いつぞやの駅といい家の前でといいい、彼女のことでキャパを超えるとすぐ声がらしくなく大きくなるから嫌だ。というかこんな至近距離でそんなことをしたら絶対鼓膜を破る自信があった。危ない、正直よく耐えた。おかげで心拍数が三百メートル疾走したあとみたいになってるけど。
絶対引かれた。「手を出さないとかなんとか言ったくせにやっぱりそういうことが目当てだったんですね」みたいなこと絶対思われてる。息遣いさえ聞こえてきそうな距離感でどう後退すればいいか分からず、なんとなく目線を下げて彼女を見た。
「……」
予想していたような表情だったらスピード土下座を決めよう。そう思っていたのに美沙ちゃんはじっと俺を見ていた。溶け落ちそうなチョコレート色の瞳が、目尻を下げてこちらに向いている。白い頬は化粧もしてないのに薄らと桃色に染まっていた。つまるところ嫌がる反応とはどう見ても真逆の様子だった。
「い、いえ…すみません、撫でられるなんて滅多にされないからちょっと…びっくりしちゃいました」
「ああ…そ、そうだよねびっくりしたよね。ごめんね」
美沙ちゃんが弾かれたように恥ずかしそうに縮こまる。えへへ、と嬉しそうに笑うその顔はびっくりという形容詞とは程遠かった。…俺は五分前に取った「坂根成一を急遽この家に呼ぶ」という自分の選択肢が間違っていなかったことを確信する。危なかった。もし完全に人払いに成功していたらマジで手を出していた。というかなんでそんなに無防備なの?男と二人きりなのに頭撫でられてそんなに嬉しそうにしないでほしい。相手は何考えてるか分からないっていうのに。
(殺されるかもしれないのに)
耐えきれずにため息が出そうになるのを抑えながらもう一度美沙ちゃんの頭に手を伸ばす。わしゃわしゃとせっかく整えていた髪を少し乱すと、さっきと同じようにどこか擽ったそうに彼女は笑った。信頼されている。信頼され始めている。それが嬉しいと思う反面、とてつもない罪悪感が背筋を這い上った。
「…もう少し気をつけようね」
「…? はい」
恋愛小説が好きとか聞いていたわりに鈍感そうに首を傾げて頷かれた。まあでも、そういう返事でいいと思う。あまり確信を突いたことを言われていたら、多分いよいよ理性のどこかが切れていたに違いない。
伯母用のマグカップに入れた緑茶を美沙ちゃんが飲み干した時、ちょうど家のチャイムが鳴った。普段成一とやっているゲームの話とか、一人暮らしあるあるの話をしていたお陰で随分とその後の時間の流れは早かった気がする。「ちょっと待ってて」と言い残して玄関の扉を開ければ、濡れた傘とビニール袋を下げて気難しそうに立つ成一と、背後には一度だけ写真で見たことのある菫色の髪をした女子がいた。都多由香子。美沙ちゃんとまさに一緒に暮らしている「ゆーちゃん」その人である。成一の後ろに隠れるように立つ都多さんの表情はよく見えない。
「連れ込むとか聞いてない」
「傘忘れたって言うから」
「お前も傘くらい持ち歩けよ」
「そもそも今日美沙ちゃんと会うこと自体想定してなかった」
真顔で軽い口論をしながら成一はずかずかと靴を脱いで取次に上がる。何度となく入り浸りに来てるくせに「お邪魔します」と早口でも言ってくるところがまあ良い奴たる所以だと思った。美沙〜と居間の方に向かっていく親友の背を横目に、未だ玄関口に立ち尽くしている都多さんへ振り返る。思えば存在だけは把握していたけれど、喋るのは初めてのことだった。
「あー…すぐに帰しますけど、ここで待ちます?」
「大丈夫です。お気になさらず」
美沙ちゃんとは似ても似つかない語気の強さだった。物怖じすることなく俺を、というより俺の背後にある居間の方をじっと見ている。成一曰く「僕よりしっかりしていて世話焼き」で、美沙ちゃん曰く「居たら頼ってしまう」相手は、まあ確かに落ち着いていてまるで成一と美沙ちゃんの保護者のように見えなくもない。ない、けども。
「色々すみませんでした…二人まで呼んでいただいて…」 貸した脱衣所から美沙ちゃんが出てくる。さっきよりも厚手の上着を羽織った美沙ちゃんは、昼に出会った時と同じ顔色に戻っている。
今日何度目か分からない「気にしなくていいよ」の言葉をかけると、背後ーーつまり玄関側から刺すような視線を感じた。正面からそれを見ているだろうに成一は気づかずに「由香子が僕じゃ着替えも選べないだろって言うから」と雑談を振る。満足げに鼻を鳴らして「本当のことだもの」と返す声色は、俺と二人でいた時のものより明らかに機嫌が良い。…成程、これで確信した。俺もこの子のことは本能的に好きになれない。
三人は雨の中傘をさして帰っていく。忘れたことを咎めつつも二人は美沙ちゃん用の傘を用意しなかった。その愛情がどこか少しだけ歪に見えるのは、俺が真っ当な家族を知らないからだろうか。それとも。
レースカーテン越しに見える三人の背中を少し見送ったところで遮光カーテンでその光景を覆い隠す。雨はまだ止む気配を見せない。降るなら日曜までにしてほしいと願いながら、俺はテレビの電源をつけた。下らないバラエティ番組の再放送が流れだし、一発屋のギャグで雑に笑う声が室内に響く。意識がテレビに向くことはなかった。
寂しくないと言えば嘘になる。そこで無理をして大人ぶるつもりはない。でも、時折この三十畳二間が猛烈に広く感じて恐ろしくなるのは、一体どうすればいいのだろうか。
テレビの音に混じって、雨音が聞こえてくる。一度意識すれば耳に焼き付いて消えないのだ。最早幻聴のように混じるノイズの中、一瞬だけ米神が痛んだ。それは幻聴というよりも、白昼夢めいた言葉だった。
きみに許してほしかった。
それは、出したこともないほど悲壮めいた紛れもない自分の声だった。
To Be Continued.
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