▼ 2
陸地に上がって大分、というか数年経って分かったことがある。水中で暮らしていた時は物を食べて暮らすということがなかったから知った話、共食いに成り得る行為だろうと魚は美味いということと。水中で暮らしていたくせに雨が嫌いだということだ。
五月も半ばに来て生活の慣れに嫌気が指す頃に滅茶苦茶と降ってくるせいかもしれないが、雨が降ると気持ちが沈む。という話を以前雑談程度に喋った時、クラスメイトもとい小烏夕凪は「気圧辛いよね」とやたらと同意してきた。曰く、どうやら気圧の変化で頭痛がしたり気怠くなったりする関係上気が滅入るらしい。以後、天気予報の度に気圧も見てみたが一年通して分かった話、俺はただただ雨が嫌いらしかった。雨が降ったせいで皆勤賞を逃した年があるのも少なくはない。
住んでいる地域柄梅雨はないとしても、この時期まで来ると頻繁に雨が降る。一昨晩は翌日の昼まで雨だった。別に雨に何かされたわけじゃあないがなんとなく寝れずにゲームをしてやり過ごしていたら翌朝は普通に最悪の体調が出来上がった。それは雨のせいじゃなくてFPSを辞められなかったせいではないか、となんとなく思いもするがまあ人間そんなこともあるだろう。多分。
兎にも角にも二年に上がって欠席は初のことだった。まあ皆勤したところで何か貰えるってわけでもないし気にすることはない。なかったけども。
『From:美沙ちゃん
Title:大丈夫ですか?
Text:成一から聞いたんですが今日お休みだったんですね…。どうかお大事にしてください』
好きな子に余計な心配をさせた、というのはあまりに心苦しい。向こうは純粋に俺が風邪を引いたと思っているかもしれないが、実態は徹夜でゲームをして寝不足が祟ったというのが主要の原因だ。まあいくら五月病とはいえ好きな子を心配させるくらいなら真面目に寝る努力をするべきだったかもしれない。
『ありがとう、また月曜日に』という趣旨のメールを送って一人大反省会をしたのが昨日の夜。そして今日、五月十日の土曜。
「…えっと…その、お元気そうでよかった…?です」
俺は某ショッピングモールのフードコートでアイスを手に彷徨っている美沙ちゃんに遭遇してしまったのである。
いやここまでモノローグをしたが別に悪いことをしたわけではない。
まず木曜の夕方に俺は買い物を怠った。結果、金曜の我が家には冷蔵庫に炭酸飲料と海苔の佃煮しかない愉快な状況になった。昨日の天候は小雨ならまだしも、正直そこまで降るなら好き嫌い問わず家を出たくないだろうと思うほどの土砂降りだった。わざわざ買い物程度のためにその天候とは戦いたくはない。そうなると今日くらいにはさすがに外に出ないといけなかった。これはまあ普通のことだろう。
うちの近所にはよくあるスーパーがない。代わりに最寄り駅よりも近い場所にそこそこの広さのショッピングモールがある。幸い食品売り場に繋がる入口は最短ルートで入れるし、行き来も手間ではない。たまに担任が子連れで買い物をする姿を見つけてしまうのは気まずいが、まあ買い物するには最適なのは確かだった。
家を出たのが十一時。まあ買い物前に何か食べておこうと思ってフードコートに立ち寄った。某Lから始まるチェーン店のハンバーガーセットを適当に頼み、食べてすぐに動くのも嫌だったためそのまま一狩りはじめたのが十二時前のことになる。まあ土曜だ。そのくらいの時間にもなれば流石にフードコート内もそこそこに混み始める。そろそろ大人しく買い物に行って帰るかと思い立ち、イヤホンを外したら見慣れた女の子と目が合ったというのがついさっきのことだ。
いや本当に、昨日の夜に心配のメールを送られていたのに今日元気な姿を見せるのは正直仮病じゃないとしても気まずい。
「えっと…美沙ちゃん、奇遇だね。買い物?」
――だが気まずいと思っていることを当人に悟られてはいけない。
確かにあの誕生日以降、昨日みたいな小さいやりとりのメールは確かに来るようになった。佐藤さん呼びもそこそこ減ってきて俺と美沙ちゃんの距離感はこの約二十日間で縮まりつつある。が、相手は美沙ちゃんだ。こっちが下手に動揺した姿を見せればもしかしたら「もう自分からこの男に話しかけないほうがいいかもしれない」なんて馬鹿な学習をされかねない。
俺はすでに片耳外していたイヤホンを左から外しながら微笑んで見せようとする。待って、なんで有線のくせに引っ張っても取れないんだ。眼鏡のフレームごと取れそうになるイヤホンに動揺していると上からくす、と笑い声がした。バレている。動揺していることが。もたつきながらイヤホンを外して眼鏡を顔のもとの位置に戻す。そうして、やっと美沙ちゃんが座る場所がなくて彷徨っていた途中だったであろうことを思い出した。
「よかったら、座る?俺の前でよければ」
「あ、えっと…す、すみません。ありがとうございます…いえ、えっと、違くて。別にカウンターでも良かったんですけど、見かけてしまったのでつい」
「俺もまさかこんな場所で会うと思わなかったよ」
嫌味とかではなく本心だ。まあ何もない街だし休みにこういうモールに人が集まるっていうのは道理としても、待ち合わせもなしにばったり会うなんて滅多に起こる話じゃないだろう。
ピンク色をしたアイスのカップを持ったまま美沙ちゃんが「ちょっと用事があって」と話を続ける。溶けちゃうし食べなよ、と促すとちょっと恥ずかしそうに頷かれた。そのままプラスチックのスプーンでアイスをちょっとずつ食べ始める。初対面の時はいかにも緊張で何も飲めません、みたいな真っ青な顔だったことを思い出すとえらい進歩だった。
「亮介さんもお買い物…ですか?」
「うん。近いから買い物するとなると必然的に此処になるんだよね。まあ調子も直ったし気晴らしも兼ねてかな」
「そうだったんですね…その、いっちゃん……成一から聞いた時はびっくりしたんですがお元気そうでよかったです」
「まあただの頭痛だからね。むしろ余計な心配かけちゃったなって感じだけど…でも、うん、ゲーム出来る程度にはもう余裕だから心配しないで」
さっき遭遇した直後の様子と重ねて冗談を言えばほっとしたように美沙ちゃんが微笑む。素直な子だ。多分成一も同じように心配してくれて俺が休んだことを彼女に伝えたんだろう。素直な人達、なんだろう。逆の立場だったら俺は多分そこまで一日休んだ程度の友人の体調なんて案じないし、休んだ翌日遊んでいる姿を見たらサボりを真っ先に疑うだろう。
「ところで俺はこの後暇な身だから聞いてしまうんだけど、美沙ちゃんどこに行くの?」
数分のち、アイスのカップが空っぽになったのを見計らって尋ねる。美沙ちゃんは少し斜め上を見上げて考えこみながら鳥の名前を呟いた。ペットショップかと思ったけどそうじゃなくて手芸屋らしい。無縁の世界のせいで一度も店内に入ったことはなかったけれど、そういえばそれなりにデカい店が入っていたことを思い出す。
「手芸好きなんだね。それは知らなかったかも」
「恥ずかしくてあんまりいっちゃんにも見せてないので…でも今日はその、おばさんの誕生日が近いのでプレゼント用に何かと思って」
「おばさん?」
「はい。私のことをお世話してくださっている人です。その…もうすでにお察しかもしれませんが私、両親がいないので…今は都多家にお世話になっているんです」
知っている。天野美沙に両親は居ない。成一にやんわりと事故死したと聞かされるより前から俺にとっては周知の事実だ。それなのにさも今はじめて聞かされた、みたいな声色で返事をした俺は、やっぱり「素直」という言葉とは程遠い。
「ああ…表札が天野じゃないなとは思ってたけど、そうだったんだ。おばさんも手芸が好きな人なんだね」
「はい、その…洋裁店で働いてて、たまに仕事とは別に、趣味でお洋服を作ったりするんです。私もその影響で好きになったと言いますか…」
「なるほど…俺家庭科全然分からないからアレだけど、似合うね。そういうの」
「そ、そうですか…?だといいです」
どちらからともなく身の回りの片づけをして立ち上がる。同時に立ち上がってなんとなく並んでフードコートを出た。なんとなく美沙ちゃんの足が二階のエスカレーターに向かっていくのに着いていく。なんか一瞬でも嫌な顔をされたらじゃあ俺はこれでと離れようかと迷ったけれど、意外にも美沙ちゃんは普通に話を続けてきた。どうやら俺は休日の美沙ちゃんの一人行動に着いて行くのを許されたらしい。今更着いて行って大丈夫かの確認は敢えて俺もしなかった。
prev / next