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記憶を振り返るたびに過去の事実は捻じ曲げられていく。
あの時、あの地獄で、父親が本当は俺に何を伝えていたのかを何一つとして思い出せない。どんなふうに口の形を変えていたのかも、どんな表情をしていたのかも。いつしか夢を疑うこともしなくなっていった。あまりにもリアルな夢が、完全に現実にあった過去を覆い隠してしまったから。
ずっと近くにいたはずの父親は、あの日、暗い海の底へと落ちていったきり帰ってくることはなかった。母親も俺に何かしきりに言っていたような気がするが、もう何をそんなに言い聞かせてくれたのかを思い出せない。俺が何ひとつとして耳を傾けなかったからだ。そうして真っ暗なあの場所に呪われた俺に母親は、最後に何かひとつ言い残してそのままどこかへ消えていった。今はもう生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。俺は自分と同じ色をした父親の髪の色も、空の光を引き連れたような母親の髪の色も、もう何ひとつとして思い出せないまま大人になった。
もう何十年分もの時が過ぎてしまった。幸いだったのは、陸に上がってからの時間はあの水の中で過ごしていた時よりもずっと速く流れてくれたことくらいだろうか。それでも、人の世界で9年。9年ももうあの日から遠ざかってしまった。それでも、どこにいようと実質の時間が何十年分だろうと何年だろうと、俺はあの日のことだけは忘れられない。
「あの日」。俺はその時はまだ難しいことなんて何一つ知らないただの子供だった。長く生きられる種族。だから、長く生きられる分ゆっくりと大人になりなさいと、いつか誰かが俺を抱き上げてそう囁いていた。俺はきっと、そうして望まれたとおりに無邪気に育ったことだろう。俺は普遍的に愛されていた。優しい父親とその父親を支える美しい母。その間にいる自分。多分、ありふれた家族の姿をしていたに違いない。違うことがひとつあったとするならば、精々自分たちの身分くらいだっただろうか。けれどそれまでだった。俺にとっては自分の「王子」という肩書きも、「王」と崇められる男も、「妃」と崇められる女も、ただの記号に過ぎなかったのだ。誰がどうと呼ばれようと、俺は俺で、父は父で、母は母だった。そういう考えさえ許されていた。俺は普通の子供と同じようにその父親と母親に囲まれて育って、愛されていたと思う。俺は確かに「あの日」までは普通に生きていられた。「人質」と呼ばれる少女がこの国に、この城にやってくるまでは。
「わたしの名前はね、アマノミサっていうのよ」
忘れもしない。琥珀色に溶けた瞳を細めて、あの女はそう自分を名乗った。あたりの色とよく似た青色の尾が纏っている腰布の下に透けて見えて、ああ人魚というのはどこの国でもこんな色の尾をしているんだ、と子供ながらに感心した覚えがある。「おともだちなんてはじめて」と少女は俺の両手を取ってじゃれついた。その後ろで父親が、「捕虜」の身で寂しいだろうから、と耳打ちしてきたことも懐かしい。そうして俺は確かに子供ながらにその少女の身の上に同情したはずだっただろう。実際、少女は敵国との和睦を結ぶために、国から送られてきた人質ではあったが、少女は、見目は確かに俺と同じくらいの背丈の子供だったのだ。
早く大人になんてならなくていい。時間は沢山あるから。過ごせるうちは、子供のままで。ゆっくりと大人になればいい。私たちの人生は長いから。
俺の世界ではその言葉は当たり前の事だった。子供とはそういうものでいいのだと、むしろそれを望まれているのだと思っていた。現に城の他の子供も、背丈が同じうちは同じく子供の扱いだったのだ。それを疑ったことはなかった。子供だから、疑わなかった。だから俺は、俺の家族は、周りは少女が少女ではなかったことを見抜けなかった。少女はとても無邪気で明るい笑顔を常に城の中で浮かべていた。その笑顔のままに、ある夜、飾られていた銀装飾で俺の胸を刺した。
そのあとのことはよく覚えていない。気がつくと見知らぬ崖にいろんな大人が集まっていた。大きな崖を挟んだ向こう側に父がいる。俺の横に立つ人質は変わらない笑顔で俺の手をにぎっていた。振りほどきたかったのに、少女の指先は恐ろしいほどに強く俺の指に絡んでいて解けない。そんな少女と俺の肩を抱く少女の父親は、俺の父親の名前を呼んでから崖を指差した。ドロップオフ。落ちればもう帰れない。いくら泳ぎが上手い種族とはいえ、永遠に近い時間を生きられるとはいえ、死なないとは限らないし落ちれば死ぬ。俺は人質にされたのだ。俺は少女と思っていた何かに刺され、父親の弱みになってしまった。父親は名前の通りに優しい男だった。文字を知っている母親が、いつか砂浜の上に漢字とやらを書いて家族の名前を並べて教えてくれたことがある。優しい父親、優しい男は、俺を見捨てられなかった。いや、きっとハナから誰かを犠牲にしてまで生き残れるような男ではなかっただろう。いつか誰かが言っていた。俺の父親は、国王になるにはあまりに不向きな男だった、と。
涯に落ちてどこにも見えなくなってしまった影を、真っ暗な穴の底を見下ろして探した。追いかけられたら良かっただろうに、目の前で見せつけられた死に俺は動けなかった。あの時、どうしていただろう。自分が泣いていたのか早くも怒り狂っていたか、それとも何一つのことも考えられなかったのか、もはや何も思い出せない。ただ、数日前までは「友達」だったはずの少女が、俺の肩に両手を置いて今までで一番の大声で笑っていた。城を探検した時よりも、海の上の噂話をした時よりも、何よりも愉快そうな高い声だった。
「死んじゃったね。かわいそう。ざんねんね。あなたが、わたしなんかに騙されちゃうから」
「ねぇ、わすれないでね。わたしが、きみのすべてを滅茶苦茶にしたこと。絶対に忘れないで」
するりと俺の首を撫でて少女が俺から離れていく。それでも、俺は追いかけることが出来ずにそのまま暗い場所をまだ見下ろしていた。一人寂しく誰も帰れない場所に行ってしまった人を思うと、はじめて重力に潰れてしまいたくなった。やっと立ち上がれた頃には、多分それなりの時間が経っていただろうか。脳裏にはあったはずの両親の笑顔と、城の人々の笑顔があった。立ち上がって、這いずるように泳いで戻ってきたそこは、もう俺が知っていた優しい世界ではなかった。だから俺は、
初めて人を憎むということを覚えたのだった。
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