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三月半ばとはいえ北の地方であるこの街は暦カレンダーの挿絵通りの風景にはならない。
四年越しに訪れた小学校の校舎は一見するとひとつの変化もなく、古びているような様子もなかった。自分がいた時点でまだ開校三十周年にもなっていなかったからかもしれない。それか、思っていた以上に自分の記憶の中に校舎の様子がなかったか。おおよそどちらも正解だろう。
児童玄関前の喧騒を離れて俺はかつて行き慣れていた校舎裏に足を踏み込む。雪でぬかるんだ道には小さい足跡が一つぽつぽつと続いていた。懐かしさひとつ感じられず人の立ち寄らない道を進んでいくと、記憶よりも小さくなった飼育小屋があった。留め具が壊れた扉は外れて斜めに傾いている。もはや鍵も不要となった小屋の中には、あったはずの命の気配はすべて失われていた。
ただ、居たとするならそれはたった一人。
彼女。
彼女が、檻の中に制服まがいの晴れ着に重いモッズコートを羽織った姿で頭を垂れて立ち尽くしていた。結局愛称しか知らずに終わった少女が、人の気配に気づいたのかゆるりとこっちを振り返る。長く垂れ下げた二つ縛りの髪の毛が重く靡く。
「卒業、おめでとう」
自分が誰だか名乗らずとも分かっているだろう。そんな傲慢から第一声がそれだった。あの時ほどの輝きを失った大人びた、というよりは死んだような瞳を支える目尻が微かに下がる。子供らしさの一切を失ったような表情と丸みのある子供の頬がアンバランスに見えて不気味だった。「ありがとうございます」、とすべてわかったような悟った言葉のくせに高い声だということも、すべてが。すべてが少女に不釣り合いだった。
「みんな死んじゃったんです。今年の冬に。今年は特に寒かったですから」
「…そうか」
「残念です。兎、きっと…先輩、が来てくれたと知れば、喜んだでしょうけど」
「…そうか」
「あ、そうだ。私、坂根桜葉って言います。今更なんですけれど…」
「…俺は」
「■■先輩でしょう、知ってますよ。みんな言ってました。■■委員長って」
「……」
「すっごく、みんな尊敬してた。貴方のこと。私もきっとその一人」
「…あいつは」
「はい」
「春日井にいなは、どうした」
車椅子に揺られていた薄青色の髪をした少女の名前を口にすると、坂根桜葉はへにゃりと口元を歪めた。取り繕った笑みではなく、心底に悲しさを隠しきれないような、それでも嘲りを含んだ笑みだった。お前がそれを言うのか。そんな表情を言外に滲ませて「死にましたが?」と同級生の末路を簡素な言葉で表した。俺はそれがやるせなくて、有り体に言ってしまうと許せなかった。「なぜ」と三月の外気に触れた白い煙が震えて消える。坂根桜葉は俺を睨むような吊りあがった眉とは裏腹に、口元だけは笑いの形に歪んでいた。それが見れば見るほどに、奇妙だった。
「なぁんだ。知ってるんじゃないですか。あの時はすごく大騒ぎになったから」
「お前、」
「もしかして■■先輩、あの子のことが好きだったんですか?私が死んでもそういう顔をしてくれた?ああ、そんなに真っ赤な顔をしないで、だってもう四年は前の昔のことなんですから」
「違う、そうじゃない。お前、お前はなぜ止めなかったんだ。お前はなんで、あいつの言うことを聞いたんだ」
「なんでって、■■先輩。その答えはたった一つですよ」
私は彼女の友達だから。
坂根桜葉は四年前、教師陣に口にした言葉をそのまま答えた。目を伏せたまつ毛に微かに白い雪が積もる。三月の中旬だと言うのにまだ時折ちらついてくる雪は、いつまでも冬の終わりを見せては来ない。ブロンドの髪に微かに白い雪を滲ませて、坂根桜葉は「仕方なかった」と呟く。それは、やっと俺が聞けた小学校六年生の子供らしい後悔の言葉だった。
春日井にいなが屋上から飛び降りることは理論上できない。少女には自由に歩く足がなかった。
だから、彼女を授業の合間に保健室に連れていった坂根桜葉が彼女を屋上に連れ出し、鉄柵の向こうに彼女を立たせたのだというのは自明だった。殺した、とまでは誰も疑わなかったが、それでも、彼女が死なせたのだということだけは明らかで、その後彼女は少しの間肩身の狭い思いをしたという。転校をすればよかっただろうに、彼女は結局今日に至るまでこの学校を離れることはなかった。離れていたなら、今俺は彼女の懺悔を聞いていない。
「友達なら、止めるべきだろう。お前がいた時のあいつは楽しそうだった」
「…そう見えました?」
「少なくともあいつは一人じゃここには来られなかった」
「それでも私はにいなちゃんの一番のお願いは叶えてあげられなかったし、私は正直、ちょっとだけ下に見てましたよ。だから、多分ちゃんとした友達なんかじゃなかった」
「……」
「それに四年も経つと私、なんにも覚えてなくって。あの子のどこが好きだったかとか、どんなときが楽しかったかなんて。なんにもわかんなくて。だから、かわいそうなあのこがいなくなって、今かわいそうなのは私だけなんですよね」
「…そうは、思ってなかっただろう」
「…そうですね、多分、思ってなかった。…ごめんなさい、本当は私、人を待ってたんだけど、でもやっぱりいなかったみたいで。……■■先輩に言ったってしょうがないけど。だって、貴方はいつも、外側からしか私たちのことなんて見ていなかった」
「……」
「今も部外者のくせに私をマスコミみたいに責めてくる。責めるくらいなら、貴方だってこっちに来ればよかったのに」
「…すまない」
ぐす、と鼻を鳴らして発した彼女の責め苦は最もだった。俺は春日井にいながいた生前も世間話さえ最小限だったし、死んでからもまともに話をしたのが今日が初めてだった。わざわざ身内がいるわけでもないのに卒業式などという晴れの日に訪れて話す内容でもない。そもそも、話すべき内容でもなかった。少なくとも、彼女からすれば。そして、俺自身も正直なところ、何故ここに来たのかが自分でもよく分かっていなかった。
「ねぇ■■先輩、貴方がどう思っていたかなんて知らないけど、先輩はにいなちゃんを救えたと思う?」
「……」
「何処にも自由に行けなくて、自由になれる場所に憧れて、何も無い死後の世界なんかに夢を見てしまったあの子を、先輩だったら救えたのかな。私みたいに友達じゃなくって、子供じゃない貴方なら」
もしもなんて何処にもない。考えたって無駄な事だった。俺だって大人じゃない、まだガキみたいなものだ。今更別に俺がなにかしたいとは思わない。そもそも、思ったってもはや何も変わらない。それでも、自分よりかは幼い子供に見上げられたその時、窓の向こうの水色の目が脳裏を過ぎた。何年も経ってしまったせいで、笑っていたようにも泣いていたようにも見えるあの影を。黙り込み続けていた喉奥が、口を開いた途端やけに粘った。
「お前に救えなかったのなら、多分俺にも救えない」
「……」
「だが、それでもそれが当人の望みだろうと、俺はその道に手を貸さない」
「…はい」
そっと目を伏せて涙を拭った少女は雪の中にぽつりと静かに声を落とした。そのままモッズコートの襟を正して、少女は俺のそばを通り過ぎる。話はこれで終わり、ということだろう。「元気でな」と猫背気味の背中に声をかけると、異質なピンクのランドセルが代わりに「先輩も」と返事をした。背格好に似つかわしくない背伸びをした声だった。俺は大方両親の元に行ったんだろう彼女から視線を逸らし、空っぽの飼育小屋に目を向ける。人参やキャベツを入れていた黒いトレーや、モルモット用の餌を入れていた丸皿も、何故か置かれていた教室の机も何もかもがそのままになった小屋は、それでもいるべき生き物がもういない。賑やかさを失い廃墟と化した檻の柵に手を触れてそのままずるずるとしゃがみこむ。そのまま小屋の中を覗き込むと、少しだけ「その気」になれたような気がした。あの時、小屋の中にどうしても入ることの出来なかった彼女の、春日井にいなの心境に。動物園の檻の中に憧れていたあの日の子供の心境に。
「……」
おそらく、今更何かをどう思う話ではなかった。ただ、光景として焼き付いて離れないだけで。自分が救われたいだけだ。別に、彼女を救いたいとは思っていなかった。ただ、部外者という枠に収まったがためにひとつの命を見逃してしまった自分を救いたくて、俺はさっきはそう言ってしまったんだろう。それだけだ。きっと。その程度の思い入れしか、実際の春日井にいな自体に対して思うことはなかった。俺は時が過ぎた今でも彼女が車椅子でいることをどう思っていたのかも知らないし、車椅子であるという要素を除いた彼女自身の人となりさえも知らなかった。どうして空を飛ぼうと思ったのかさえも。本当に死にたかったのかさえも。この先も知らずにきっと俺はいずれは彼女のことを忘れて本当に歳をとっていく。
それでも、この檻の外側にしか居られないことは、異様に寂しい。
喧騒が少しづつ静かになっていく校舎の片隅で、俺は柵をしばらく握りしめて、やがていつまでもこうしてはいられないことを思い出して立ち上がった。相変わらず顔を上げて歩くということは出来ず、溶けかけた根雪に隠れた土を踏みしめて小屋に背を向ける。
そうして、この話はこれで終わりだ、と俺は自分に言い聞かせていった。
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