▼ 金盞花
雨の音が聞こえる。多分、外があるとしたら土砂降りだ。ぴちゃぴちゃと地面を這う音と、地面に叩きつけられていく雨粒の音がずっと耳の奥で鳴り響いている。
僕はどうして此処が暗いのかをようやく分かってしまった。あの日から夜明けなんて僕らにはなかった。あの日から明けない夜にずっと眠れずにいた。はじまりの雨にずっと僕らは脅されていたのだ。そうだろう?きっと。すべてが僕のせいだったと君は言いたいのだ。きっと。その目が自分を責めるふりをして僕を詰っているからよく分かる。蜜色の瞳は僕を見ていた。図書室で倒れているはずの僕は、いつの間にかもはや何処にもいない。ただ、何処か薄暗い場所に倒れていた。
「あの図書委員長はね、ちゃんと副委員長の彼女を止めたのよ」
僕の前に立った彼女――桜葉が、屈みこんで僕の髪の毛を撫でる。僕の目の奥には、突然司書室に連れ込まれてうろたえているところに突然ブラウスを脱ぎだすあの子が見えた。分かってほしい、受け止めてほしい。ただそれだけを繰り返す彼女は断じて彼を「好き」とは口にしていない。鎖骨を露わにした彼女から視線を逸らしながら、あの先輩は見えている片目も抑えて「やめろ」を繰り返し、やがて背を向けた。やり方が、手順がおかしすぎる。自分を大事にしてほしい。いたって普通の、紳士が言うような言葉の背後では、僕の友達は今までに見たことのない爛々とした笑顔でナイフを取り出して、そうして躊躇うことなく一撃を振りかぶった。
「全九か所。彼、信じられないとでも言いたげな目で逃げようとしたわ。でも足も腕も痛かったでしょう。浅い呼吸で、なんとか疑問を口にしたわ。確かあの子もちゃんと答えたはずよ」
「……」
「『何も知らずに死んだ方が幸せですよ』って。彼、怖かったでしょうね。死ぬのも生きるのも、怖かったでしょう。泣いていたわ、目を開けて泣いていた。可哀想、すごく可哀想だった…貴方の悲鳴を聞いて駆けつけてしまった彼の幼馴染みも、可哀想」
嘔吐しながら叫んだあの声が、聞こえていないわけがなかった。司書室も図書室も扉が開いていた。あの先輩がせっちゃんに嫌がらせをするために、近くにいないわけがない。そもそもそれが本当に嫌がらせだったのかも、もう僕にはわからなかった。いや、わかったって、もうどうにも。
「彼女は抵抗しなかったわね、黙って、それでも薄気味悪く笑いながらナイフも明け渡すように奪われて刺されて。馬鹿よねぇ、幼馴染みちゃん。全部掌の上だったっていうのに、貴方にも誰にも言えなかった」
「僕…?」
「図書室の本棚はあの子の作戦だけじゃうまくいかなかった。あの子は最初本棚に釘打ちしてロープを結び付けていたけれど、それじゃあ重い本棚に釘は抜けてしまう。あれは失敗する作戦だった、だから手を貸したのよ。本棚に押しつぶされるはずの被害者が、棚板に外れないようにフックを取り付けた。驚いたでしょうね、本棚、本当に倒れちゃったんだもの」
遊楽先輩の寂しそうな顔が目に浮かんだ。僕は、彼女に何と言っただろう。そうだ、友達だといった。せっちゃんを友達だと言ったんだ。あの時の僕は、どんな目で先輩を見ていただろう。
「亮介さん、真夏だというのにガソリンスタンドで灯油をポリタンク一つ分購入してね、貴方と別れてから車に積んで、それから自宅の庭裏に置いたの。ショートホームルームが終わって、貴方が悲鳴を上げて腰を抜かしている頃には彼も目的を達成したわ。ねぇ、自らを裁くように火に焼かれるなんてどんな思いだったんでしょうね。これも愛した人のためなのかしら」
「…やめてよ」
「貴方の溜飲は下がった?」
「わかんない、わかんないよ」
身体を丸めて耳を塞ぐ。やめてくれ。もう嫌だ、聞きたくない。何が楽しくて僕にこんな話をするというんだ。どうして僕が見たくなかったものを敢えて君は見せようとするんだ。今更僕に何をさせたいんだよ、僕を、追いつめてどうしたいんだ。なのに君は一息ついたらまた「あの子」と語り始める。僕の隣に寝そべって、同じ色の髪の毛を床にまき散らして、君は僕の手を両手で握ってこちらを見つめてくるんだ。聞け、と言わんばかりに。
「あの子も死んだわ。貴方が此処に来る少し前」
「…やめて、」
「『桜葉ごめんね』って言ってたわ。傷つけてごめんねって、嘘を吐いてごめんね、って本当にやさしい子。自分が悪くないことでも人を責められないから、あの子は全部を自分のせいにしてしまえるのよ」
「…、っ」
「まるで貴方の【妹】とそっくりね」
脳裏に、藍色の髪の女の子を前に電話をしていた少女が見えた。桃色の髪の毛が相変わらずつやつやしていて、笑顔が愛らしいあの子は電話越しに笑っていた。でも、その笑顔は僕が知っている笑顔ではなかった。もう何もかもを諦めたような笑顔だ。僕は、遠い昔にこれと同じ笑い方をしていた女の子のことを大切に思っていた。こんな笑顔をさせたくなかった。ずっと思っていたのに、電話を切った散音ちゃんは、病室に飾られている花瓶の花を摘まんだ。
「あの子は花屋の娘だから、よく言い聞かされているのよ。綺麗な花には棘もあれば毒があることを、彼女は誰よりも分かっているわ」
もはや何の言葉も出せそうになかった。だくだくと流れてくる涙と息切れでまたも頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。どうして。何を考えて。なんのために君は僕にこんなものを見せるの。僕の左手で遊ぶ君は、指に指を絡めて僕の左手に頬を寄せる。こんな話を聞かされて僕はもうぼろぼろなのに、それでも君は表情の一つも変えはしないのはどうしてなのか、僕にはまるで理解が出来なかった。手に隠れた君の表情はもう読み取れない。
「全部、私が殺したの」
吐き捨てるように君が呟いた。よりいっそう強く握りしめられた僕の左手はもはや血の気が失せきっていた。いつか聞いた話を思い出す。あまり考えたくはなかったけれど、それでも気づいた時からずっと分かっていたことだ。この世界が偽物だってことくらい。この世界が、つくりものだということくらい、君に語られた時からもう何もかもがわかっていた。それでも、僕にとってはどこまでもこの世界は本物だったのだ。僕は、ここで生きている。でももう分かっていた。此処が終着点で、エピローグで、僕はもう死ぬのだと。君が最後に何をしたいのか、震えた両手のせいで分かってしまった。ひとえに僕が君のものだったから、気づかざるを得なかった。
「本当はこんなこと誰が望んでしたいと思う?したくなんてなかった。誰にも死なれたくなんてなかったわ。元がなんであれ今にしては私の大切な我が子なの。私のものよ、誰も壊したくなんてなかった。でも違ったの、そうじゃない。誰も私のものなんかじゃなかったし誰も私を見やしなかった。当然よね、だって私は何処にも居ないんだし、私のために彼らが生きているわけでもなかった」
「…僕は」
「あなたが私のために在ったことなんてただの一度もなかった」
問いかける前に何もかもを否定された。本当にそうだっただろうか。だって僕は【覚えている】。君が新しく何かを作ったときの楽しそうな顔も、上手く絵が描けたときの喜びの声も、全部僕は思い出せる。僕は君の隣にいたのではなかっただろうか。君が話を考えているところに、僕はいつも相槌を打っていたはずだ。君には、聞こえていなかったのだろうか。それとも忘れられてしまったのだろうか。…僕が、ただの少女である君を忘れたから。でも。
「僕は、君のための僕だよ」
「違う、貴方は私のものなんかじゃなかった。ただの一度も、貴方が私のためになんていやしなかった。嘘よ、嘘に決まっているじゃない。私のものなんて一つもなかったわ」
君は僕の左手を握る手を僕の左腕へするりと伸ばした。私の物ではない、といいながら君は僕の腕を離すまいと強く握る。蛇のように僕の腕に絡みつく手は、僕の手よりもわずかに小さい。
「…でも此処は君が作った世界だろう」
「そうね、私と、お兄ちゃんの天国よ」
「だったらみんな、そのお兄さんと君のためにいるはずじゃないの?」
「いいえ、誰のものでもなかったわ。少なくともただの一人も私のものではなかった」
「…嘘を吐いていたの?」
「そうかもしれない」
曖昧な答えとともに君は僕の手を離した。僕がそうしているように胎児みたいに丸くなった君は、僕を掴んでいたその腕で自分の身体を抱いた。あまりに自然な、慣れた動作だった。僕は君がどうしてほしいのかをなんとなくわかっているような気がした。でも、それを自分からするのはなんとなく釈然としなかった。だから、胡乱な問いを繰り返す。
「君は僕に何をしてほしかったの」
「…何も、望んでなかった」
「嘘だ」
「……」
「どうして、思っていることを言ってくれないの?昔はちゃんと、僕にだけは色んなことを話してくれていたのに」
今度は僕が君の左手を掴む番だった。君もまた胡乱げに僕を見つめてくる。蜜色の瞳が一瞬だけ暗く見えた。僕は覚えている。学校から帰ってきた君が、僕の眠るスケッチブックを開いて僕に「ただいま」と笑うあの姿。ランドセルを椅子の上に置きながら、君は僕に今日あったことを少しずつ話してくれるんだ。友達のこと、勉強のこと、ああ運動は苦手だったっけ。それから夜には「明日もまたはなそう」と笑って、僕に「おやすみ」を言ってくれた。僕は君の紛うことなき親友だった。僕は、間違いなく君のためにいたんだ。君が、僕をそう言ってくれたから。
「僕は、桜葉のための【イチ】なんだ」
「嘘よ!だったらどうして私を見てくれなくなったの?」
「…知らないよ、そんなことない。そんなことは、」
「…この物語を、書いたとき、はじめて貴方に物語の主人公になってもらった。貴方が、他の人たちのことを羨ましいって、言ったから」
僕は、君のことしか思い出せない。それは僕にとってあったのかなかったのか、まったく保証のない真実だった。けれど君が語るのならば、それは真実なんだろう。僕が忘れているだけで。だって、この世界も、物語がなかったら作られはしなかったのだ。僕が生きた春から夏も、桜葉の語る事実がない限りは、生まれなかった。
うまくできたようなそんな話をいくら語られても僕は思い出せそうになかった。僕は生徒会に憧れて、生徒会に入って新しい生徒会長を目指すらしい。普通に男子生徒として馬鹿をやりながら、遠目でクラスのアイドルにひそやかに恋をする。いつしか彼女に釣り合えたらって思いはじめて、それでもうまく喋れなくて、そんな普通の人生を――僕が暗闇に気付くまで、過ごすなんて、それはどうにも、心当たりがないようであるストーリーだ。暗闇に気付くまでは、きっと目を覚ましたくないと強く願ってしまうほどにきっと幸せな学園生活を送っていたに違いない。だって、今までがそうだったから。もしかしたらそうして夢中になっていくうちに、確かに僕は君のものであることを忘れていたのかもしれない。けど、今はもう、ちゃんと思い出せている。
「…認めるよ、分かった。君が言う通り、僕は君のものなんかじゃなかった」
「……そう」
「僕は僕のものだね。そしてみんなもそうだ、僕らは自分のために生きているんだ。その世界が偽物かだとか、そんなことは関係なく、ただ僕らは生きているんだ」
「……」
「自分のために。だから、神様でしかない君のことなんて、誰も見やしなかった。そう言いたいんだよね?」
そう言われたかったはずだったというのに君がようやく感情の粒を落とした。僕は君の左手を握りしめる。今ここまで来てようやく気が付いたことがある。僕は君に作られたけれど、僕と君の価値観は決定的に違いすぎる。
「それでも僕は君とみんなを救いたい」
君にとっての僕がどういう存在なのか、僕らとは何なのか。正直僕はそんなことはどうでもよかった。君にとっては確かに僕らは作り物だ。所詮は創作物で、君には君の現実がある。僕らは君の目線から見れば確かに偽物なのだろう。でも、そんなことは僕にとってはあまりに些末だ。だって、偽物であるはずの僕らのために確かに君は心を痛めて泣いたんだ。その思いさえあれば、僕はもう自分がなにものかなんて最早どうでもよかった。君が信じてくれる限り、僕はどこででも生きていける。どうかそうだと信じさせてほしい。だから。
「こんな風に終わったら駄目だ。やり直そう。君だって苦しい、僕も苦しい。こんなのは嫌だ。ねぇ僕らがたとえ本当に君のためのものじゃないんだとしても、それでも君は僕らを愛してくれているんだ。じゃなかったら僕は此処にいない。そうでしょう?だったらこんなのは君のためにもよくないよ!僕はこんな結末は絶対に嫌だ」
「…あなた、それ、傲慢よ…貴方には見せていないものが私にはたくさんある。貴方がそれを知ったら、きっと同じことは言わないわ」
「そんなの知ったこっちゃない!もういいよ、君が何を隠しているかだとか君がどんな嘘を吐いているかなんて今の僕の気持ちには何の関係もない。傲慢でも何でもいい、ただもうこんなのは嫌なんだ。もう見たくない、こんなのは絶対に終わりだなんて認めてたまるものか!!」
「もう、遅いのよ…だって、私、もう…」
その先は自分の台詞のせいでまったく聞き取れそうもなかった。嗚咽を漏らしながら蹲る桜葉の左手に縋る。どうしてだろう、まだ頑張れるような気がした。いや、しぶとくあらねばならないと思った。あんな結末を見たから余計にそうだ。僕は救いたかった。傲慢だろうと欲深かろうと関係がない。僕の友達を、僕の仲間を、僕が愛したものを、これ以上僕は傷つけたくなんてなかった。それが間違いなんて僕は言わせたくなかった。
「書き直そう、僕が着いてる。君が生きている限りそばにいる。君が望む限り何度だって付き合う。君が何度壊そうとしたって、僕がそれを書き変えてやる」
不思議と足に力が入った。いつの間にか声に力が戻ったことに気が付く。ああ、こんなどん底だろうと僕は生きている。生きているんだ。まだ終わってなんかいない。あんなもの、全部ただの悪い夢になってしまえばいい。そうだ。そうして僕は見るんだ。友達と笑って過ごす夏休みの終わりを。遠くで微笑む君の笑顔を。雨上がりの夜明けを。
「僕が君の運命を変えてみせる!」
さっきまですぐそばに寄り添っていたはずの君が、何故かやけに遠くに見えた。それに気付いたのは僕が沈んでいるということに気付いた瞬間だ。水の中にいる。言葉が水という見えない暴力にすべて飲み込まれていく。開いた口の中に容赦なく入る塊が、僕から自由の何もかもを一瞬で奪った。遠くの雨に溺れたのだと気が付いたのは少しあとだ。
「ひとは、かみさまになんてなれないの」
暗闇の中で君の声がした。水の中で反響する君の声はやけに静かで、それでも僕は何かを叫びたかった。そんな話がしたいんじゃないって、言いたかったはずなのに僕と君はやっぱり、どこまでも価値観が違っていた。どうして、同じ人間に等しいはずなのにうまくいかないのだろう。何処から僕らは食い違ったのだろう。何もかもを言葉にしたかったのに、もはや僕は口を閉じることさえできなかった。ああ、そうか、僕はもう死んでいたのか。君の影も見えなくなったところで、ようやく僕はその事実に気が付いた。
「私、ずっとあなたを神様だと思ってた。実際そうよ。貴方はあの八月に生まれ変わったんでしょう。私もそうなりたかった。憧れていたわ、愛していた。でも私はどこまでも女でしかなかったのよ。そしてどうあがいても、臆病な人間でしかなかったの。貴方みたいに強い人にはなれなかった」
「求めてないの。もう欲しかったものが手に入らないって分かっているから。だから救ってくれるというのなら、せめてこの最果てで私と死んで」
「私を殺して」
いつか聞いた言葉が遠くで響いた。ああ僕は目を閉じているのだろうか。まだ何かを見ようと探しているのだろうか。もうなんにもわかりそうにない。ただ、僕は落ちていくのだ。どこかへ。どこかへ。遠くへ。
そうして僕は、世界が壊れる音を聞いた。
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