新訳Prism


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 そうやって真面目に誰もいない教室に鞄を置いて、図書室に向かって勉強をして、少しだけせっちゃんやNoName先輩と会話をして、たまに知っている人の後姿を見かけて声をかけずに終わって、そんな日々を少しだけ過ごした。短いようで長い数日間を終えて、今僕は久しぶりに教室の後ろの席に腰を下ろしている。窓の向こうは相も変わらず晴天だった。それでもやっぱり、教室の中は淀んでいるのだ。けれど今日に限っては、ちゃんと居られる人が席に着いて前を向いている。誰も一言も話さない、茶化しあいもしない教室の教壇に蒼井先生も立っていた。大した言葉はなかった。終業式を終えて、最後のショートホームルームだ。これが終わればクラス替えになるというのに。それでも僕らはろくな会話もせず、あまりにも品行方正すぎる学生を演じていた。蒼井先生も業務連絡を淡々と続けている。紙きれ一枚を読み上げながら、夏期講習だとか試験日程だとかを伝えて、それでもちらちらと僕らを見るんだ。その表情が少しばかり悔しそうで、この人が担任だったんだということを改めて痛感した。蒼井先生が紙を握りしめる。「通夜みたいな顔すんなよ」と笑う先生は、多分泣きたかっただろうに。そしてこの場にいる僕らだって、本当は多分そんな顔はしたくなかったし、多分誰もさせたくはなかった。何処から間違えたんだろう。四月からだっていうのなら、それは誰のせいなんだろうか。誰のせいでもないのだと、いい。それかあるとするなら、全員のせいだ。きっと。

 「落ちぶれんなよ」

 連絡以外の言葉はたったそれきりだった。先生に促された学級委員長が、静かに「起立、令」と最後の号令をする。そうして僕らは少しずつ散り散りになって、教室を出て行った。僕は緑疾の顔も見なければ、後ろのせっちゃんさえも今日は見なかった。早く一人になりたかった。一人になって、どうしたらよかったんだ!と一人で叫びたかった。あわよくば泣きたかった。どうしようもないことを、泣きたかったのだ。でも、僕にはやることが一つだけある。

 今日はちゃんと鞄を肩に掛けて持ち歩いた。網戸のない窓は今日は人がいることもあって用務員さんの手によって開け放たれている。遠くから聞こえる蝉の声や、街を走る車の音が廊下からでも聞こえた。他の棟の生徒の笑い声も。多分、あの人たちにはこの蝉の声や街から鳴る音なんて、きっと聞こえてこないのだろう。こんな寂しい夏の音を聞いているのは、きっと僕たちだけだ。なんてひどい感傷に浸りながら、僕は四階までの階段を昇り始める。静かに踏みしめているはずなのに一人だけの音のせいで、やたらとよく靴音が響く。あの部屋に行くのは思えばテスト勉強の時以来だ。あの時は楽しかった。あの時は、まだ何にも知らなくてよかった。…でもどうだったんだろう。僕が知らなかっただけで、裏ではあの子もあいつも、どう思っていたんだろう。今日さえ話が出来なかった。それどころか顔すら見ていない。これでよかったか、なんてそんなわけがない。そんなわけがないのに、どうしてか僕はもう「終わりだ」としか思えなくて。ああ、泣きそうだ。いや、泣きたかった。
 思い出を振り払うように首を振って僕は社会科準備室の戸を叩く。二回ノックしたけれど、その部屋からは一切の声が聞こえなかった。…まだ教室にいるのだろうか?佐藤先生は三年生の担任だ。いや、でも確か、上級生は僕らより早く下校していなかったか。だとしたらどこに行ったんだろう?もしかして忘れている?不審に思いながら僕はなんとなく居ないことを改めて確認するようにドアノブを回す。すると、ドアノブは確かにくるりと回った。…開いてしまったのだ。僕は一瞬ひやりとしてしまう。人のいない場所に、先生方の部屋に勝手に入っていいとは思えない。普通なら開いていても引き返すだろう。でも、何故か、僕は部屋に入ってしまった。そうして僕は見つけてしまったのだ。それがあまりにも、あまりにもこれみよがしとデスクに置いてあったから。

 「佐藤先生…?」

 デスクの真ん中の茶封筒だけがぽつりと置いてある部屋に呼びかけたところで何の返事もない。ドアの後ろに実はいる、なんてこともなければ、掃除用具のロッカーの中に潜んでいるわけもない。部屋に人の気配はひとつとしてなかった。僕はとうとうデスクに近寄る。コンビニに売っているような茶封筒には確かに僕の名前が記されていた。坂根桜葉。そうだ、僕の、けれど僕のモノではない名前だ。でも、どうして?なぜ僕なんだ。僕はまだ、それを一向に聞かされていない。…本物の坂根桜葉なら知っていること、なんだろうか?だとして、それを読んでいいのか?わからない。でも、佐藤先生が接していた坂根桜葉とは、確かに僕で間違いはない。だから、開くべきだと思った。そうして僕は糊の貼られていない封筒を開けて、一枚の折りたたまれた用紙を引き出す。これまたコンビニに売っているようなシンプル極まりない便箋の一行目は、「前略」から始まっていた。つまり、これは手紙だ。指が震えるのを自覚する。ただの手紙ではない。二行目から僕はそれを察してしまった。
 


 前略
 
 まったくもって、これは下らない話である。
 きみもそうは思わないか。少なくとも俺はこんな手紙を綴る自分をあまりに下らないと卑下したくなる。けれどもこれはきみと俺にとって後に必要な凶器となるのだ。言っている意味がまるで分からない、という顔でもしていそうだね。お前のことなど、俺は別にさして理解しているわけでもないけど。
 さて、成一。そう、きみだよ。このらしくもない手紙なんてものを俺に託されて読んでいるお前の名前だ。成一、俺はあの夏からずっとお前からの恨み節を背に負い約束通り生き続けている。けれど今世に限ってはこれで終わりだ。別にそんなエンターテインメントというわけではないから仰々しく終わる気はないんだけどね。やりたいようにやるってだけで。
 とにもかくにもこれで終わりだ。俺にとってこの世界で生きることに最早なんの価値もない。役目が終わったとでも言えばいいかな。強いて言うならば、この結末こそが俺に設定された役目だよ。俺はそれを果たしに行く。おめでとう。お前のすべてを破滅させた元凶は、今日をもって一度死ぬ。けれど勘違いしないで欲しい。何もお前に妙な負い目を与えたくてこうするんじゃない。俺は殺したくて仕方のなかったものを殺しに行くだけだ。お前だけのためじゃない。むしろすべては俺のためだ。よもや彼女のためでもない。彼女はむしろ、自惚れたことを言うとこんな俺のために泣いて止めてくれただろう。俺はね、そんな彼女を想像するたびにあいも変わらない感情を覚える。彼女に泣き縋られたかった。どうかやめてほしい、と俺を抱きしめてくれたならどれだけそれは幸福だっただろう。そんなふうにあの子に泣かれたならば、俺はあの子の涙を拭うためにどんな憎しみも殺していただろう。もしかすると、あの子の涙を見て泣くことだって出来たかもしれない。そんな夢をたまに見る。けれど彼女は死んだ。俺は彼女を奪い去ったあの女と自分のことを殺したくてしょうがなかった。お前だって、きっと思い出せばわかるだろう。あの雨をまさか忘れたなんて、馬鹿なことは言い出さないと俺はお前に期待してるよ。
 ちっぽけな復讐心だという自覚はあるよ。つまらないことに巻き込んで申し訳ないね。
 さて、はたしてお前がこの結末を見て少しは溜飲を下げてくれるのか、それとも余計に憤るのか。どちらにせよ俺はお前の結末を目に出来なかったことだけが少し心残りかもしれない。重ね重ね言うけれど、俺はお前のことはかけがえのない友人だと思っているからね。そんな友人の家に入り浸る日々をまた期待しているからさ、だからそろそろ行こうと思う。

 草々

 

 縺れた足が滑り落ちて、階段から転げ落ちた。
 痛みで動けない。動きたくなかったけれど、それでも今は行かなければいけなかった。大変なことが起きている。早く、早くなんとかしなくちゃいけなかった。僕が何かだとか、どうしてだとか、いろんな疑問があふれて止まらない。でもそれ以前の問題だった。これはただの手紙じゃない。はやくしないと、取り返しのつかないことが起きてしまう。痛みと動悸を抑えながらなんとか三階の図書室の扉を乱暴に開ける。息を乱しながら開けた扉の向こうは静まり返っていた。いや、それでも居る可能性のあるところを僕は知っている。早く、早くNoName先輩に伝えないといけない。いくら憎かろうと嫌いだろうと、伝えないといけない話だ。そして聞かないといけない。お前の父親は僕の何だ、と。あとで問い詰めるのだ。だから、そのために僕は受付奥、司書室を――図書委員しか入ってはいけないそこの扉を、開け放った。

 「なんで、」

 四畳一間程度の密室の四方を本棚が囲む部屋だということははじめて知ったけれど、それでもこの赤色はどう考えても毎日ずっとあるものではなかった。そんなことは、その赤色が四方八方に飛び散っているものだったから、よくわかる。それがただの絵の具ではないことも、むせかえるような部屋の暑さのせいで、籠った黴の匂いと混じった異質な匂いのせいで、よく、わかってしまう。分かってしまった時、漏れ出たのはどうしようもなく情けない女の悲鳴だった。叫びながら口から僕はあらゆるものを吐き出した。多分、それのせいで部屋の匂いはさらに生臭くなった。目の前の君は、そんな僕をどんな目で見ていたのだろう。ああ、もう何も見たくない。何にも信じられそうにない。

 「坂根さん、違うんですよ。違うんです」

 人間の腹の上にまたがった状態の彼女が、こっちを見ていつも通りの声色で弁解をしてくる。いや、聞こえない。聞こえるわけがないんだ。そんな声色はありえない。そんな声色で言い訳をされても、さすがに僕は信じられない。たとえ君がそんな、ブラウスどころか下着だけの上半身を晒していても、それでも君の右手に握られている刃物だけが真実だと疑えない。
 
 「先輩が急にナイフで襲い掛かってきたんです。私怖くて、それで咄嗟に」

 咄嗟に、どうやって、どういう思考回路で君は「好きだ」と語った男のことを滅多刺しに出来たというんだ。なんで?どうして?何をどう考えてそんなことになってしまったんだ?暑さのせいで頭がぼんやりしてきた。ただでさえこの部屋は薄暗いというのに。ただでさえこの部屋は蒸し暑くて、酸っぱい匂いやら黴の匂いやらでとにかく臭いというのに。ああもうなにがどうなって、ただとにかく頭がくらくらする。くらくらするんだ。もう全部全部。もうやめてくれ。考えたくない。考えたくない。だから。

 「たろちゃん、」

 後ろからその声が響いたとき、僕は這いずるように司書室を出た。腰が抜けて立てなくて、這い蹲って僕はそこから逃げようとした。けれど、僕は逃げきれなくて、女性の悲痛な叫びが語る真実を、聞きたくもないのに聞いてしまった。

 「嫌だぁ!!たろちゃん!!たろちゃん!!こんなの嫌ぁ!!!どうして、どうしてなにも悪くないたろちゃんがこんなに傷つかないといけなかったの!?いやだいやだこんなの、いやだよぉ・・・まもってあげられなかった…あたしがまもってあげるって、やくそくしたのに、たろちゃん…ごめん…たろちゃん…」

 やめてくれ、もうなにもかもを聞きたくない。聞きたくないんだ。やめて、お願いだからもうやめてくれ。せめて僕が、僕が図書室から逃げてからにしてくれ。それか司書室の扉を今すぐに閉めてくれ。それかいっそ、僕のことも共犯だと勘違いしてどうにでもしてくれ。ああ、やめて。やめてほしい。その子は、何はどうあれ僕の、僕のことを友達だって言ってくれたんだ。ああ、まってにげて、どうして君もそんな動かないんだ。何なんだよ、僕は何を見せられているっていうんだ。握りしめていた手紙のせいで何もかもがめちゃくちゃだ。僕は何をしにここに来たんだ。もうそれさえもわからない。ただ、

 「たろちゃん…今度は、もし生まれ変われたら、ふたりでしあわせになろうね、しあわせに、してあげるからね」

 本当に全部取り返しがつかない安い悲劇に終わったのだということを、背中に受けた生温い飛沫の感触で悟った。




 
 救ってください

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