新訳Prism


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 図書室に行く、と言ったせっちゃんに着いていく気になれなかった。遠慮したというのが正しい。休校になっても図書室を必要とする人間はいるに違いない、先輩を説得して私は図書室を開くと意気込むせっちゃんの邪魔になる訳には行かなかった。すごいな、と思う。こんなに騒動が連続しているというのに好き好んで学校になんて僕は正直言って行きたいとは思えない。正直、途方に暮れているのは僕だって同じだ。
 廊下で別れたところで僕はなんとなく携帯電話を開く。あれからメールなんて一通も送っていないあの子のアドレスを開いて、僕はメール送信画面で指を止めた。…心配だと言うならば追いかければよかったのだ。どうして僕は踏みとどまってしまったんだろう。怖かったからだ。直に会ってどんな顔をしたらいいのか、僕だって未だにわかったものじゃない。どう向き合えばいいのか分からない状態で、追いかける勇気なんて僕にはなかった。けれど、何も声をかけずにいることも出来ない。これは多分優しさなんてものじゃないだろう。
 送るか迷いに迷ってようやく僕は文章をひとことふたこと打って、文章を作って送るか迷ったところで僕は文字を四文字残してほかすべてを削除した。何があれば聞くから、とかどの口で言えたものだろうか。気にすることないよ、って僕が言っていい身分ではない。結局一言だけになってしまったメールを送信して、僕はふらりと歩き始める。…アトリエになんとなく行こうと思った。斎藤先輩が元気でなさそうだということは明らかだったけれど、それでも、知っている人のところに少しでも何か話をしに行きたかった。けれど三年一組を通り掛かった時に僕の足は止まった。ふと見えたドアの隙間から斎藤先輩の緑青色の髪が見えたからだ。「あ」と勝手に声が漏れたせいで、教室の中の人と目が合う。向こうも僕を見て「あ」と気まずそうに声をあげた。…なんだか、見てはいけなかったような気がしたけれど僕の行き場のなさを向こうも察してくれたらしい、おいでと手招きをされて僕はふらふらと教室のドアを潜った。

 「さっきさ、愚弟が散音ちゃんのこと追いかけっててたんだけど、一年は何があったの?」
 「おおかた内部分裂でしょ。ソラも聞かなくたって分かるでしょう」
 「…ええ、まあ」

 茶色の長い髪の女性ががたがたと僕の座る席を持ってきてくれる。そうしてドアのすぐ近くに椅子だけを固めて座っている蒼空先輩と合唱部の…桐島先輩、斎藤先輩の輪の中に僕も加わることになった。「ありがとうございます」と青いセーラー服の女性に会釈すると、彼女はにっこりと笑みだけ作って桐島先輩のそばに座った。少しふっくらとした頬をしている彼女は、驚く程に桐島先輩と顔立ちが似ている。じっと見ていると桐島先輩は、「ああ、双子なの。アタシが梨花で、こっちは姉の綾花」と自分と彼女を指さした。…なんか名前が前に聞いたのと違うような…?あれ?と僕は首を傾げたか、今はそれどころではないので考えることはよした。大人しげな顔をした綾花先輩が手持ちできるサイズのホワイトボードに『みんな大変です…』と書く。喋ればいいのに、と思ったがまあ、もうそっちも突っ込む余力がなくて「そうですね」と曖昧に僕は頷いた。蒼空先輩が深くため息を吐いて頭を抱える。

 「…マジで、現実に追いつけないっつっか…斎藤君はなんでそんな普段通りなのかが謎だよ」
 「いや、動揺はしているよ。動揺していなかったら今頃僕は事件現場のアトリエで普通に絵を描いているからね」
 「ああ…」

 そういえば、アトリエで人が死んでいたんだっけ。情報量が追いつかなくて気がついたところで吐き気が込み上げそうになった。そういえばお気に入り、と話していたあの屋上でも人が死んでいる。なんだ、僕の行く場所どこもかしこも事故現場じゃないか。そりゃあ人が違うところに集まることになっても無理はない。
 『はるかくんは辛くないですか?』と綾花先輩が問いかける。目を閉じて腕を組み続けている斎藤先輩を隣の蒼空先輩が小突いた。薄目を開けてボードを見た斎藤先輩がまた目を伏せる。そういえば、斎藤先輩の顔をアトリエ以外で長く見るのははじめてだったような気がする…なんて、どうでもいいことが頭をよぎった。

 「…まあ、考えないことはないよ。すぐ近くでかしましく声を上げていた女の声が何処を探しても聞こえないのだから。それなりに考えるよ」
 「……」
 「それも死んだのは、僕のせいらしいから余計にね」
 
 それってどういうことだ、と聞きたい口を噤んだ。斎藤先輩が別に過失で殺したとか死に追い込んだとかそんなつもりは微塵もなさそうなただ後悔の滲んだ表情をしていたからだ。斎藤君、と蒼空先輩が少し震えた声で呟く。斎藤先輩は顰めた眉を抑えてがたりと音を立てて席を立った。

 「これ以上感傷に浸るつもりは悪いけどないよ。描かないといけない絵だってある。こんなところで感情を持て余す訳にはいかないんだ」
 「…斎藤先輩は、強いですね」
 「…強かったなら、僕は人を殺していないよ」

 あんなところで絵を描くのかと少しぞっとする思いもしたけれど、それ以前になんとかしていつも通りに振舞おうとするその背中に僕は思わずそんな声をかけてしまった。しまった、と思ったのはその返事があまりに震えていたからだ。引き戸が少しばかり乱暴に閉じられたところで、蒼空先輩がまたため息を吐いて頭を抱え直しながら、ぼそりと「人を責めたくなる」と呟いた。

 「わかんねぇ…武智君までおかしくなっちまったし、久条君は気づいたら死んでるし、なんなんだよ…四月から何もかもが変だ」
 「…四月から?」
 「……」
 「死んだのよ。四月に一人。そっからソラ達、少しづつおかしくなっていったわ」

 ちらりと梨花先輩が教室の左後ろに視線を移す。視線の先にはまた、花瓶のある机が目に入った。ただ花は先日からやたらと見かけるあの菊の花ではなく、別の白い花が生けられている。少しだけしおれたように見える花は、昨日今日に生けられたものではないようだった。

 「安藤慶」

 ぽそりと、蒼空先輩がその机の持ち主の名前を呟いた。

 「去年の秋に生徒会長になったんだ。目立つのが好きなのか嫌いなのかよく分からない奴でさ、白い学ランが無駄に似合う王子みたいな男だった。女子にめちゃくちゃモテてさ、でもなんか性格悪くて、うちのクラスの女子にはあまり好かれてなかったな。あいつ」
 「生徒会長…」

 話が繋がった。確か、前に部活案内をされた時に生徒会長は死んだという話を聞かされた気がする。ああ、そうか。そりゃあそうだ。生徒会長だというなら、その人は三年生で、一組であるに違いがなかった。蒼空先輩は太ももに肘を付いてぼんやりと遠くの机を眺めた。

 「あれもなんの前触れもなかったよ。もうすぐ桜でも咲くんじゃないかってくらい大分あったかくなってきた頃でさ、…大震災からもうすぐ一ヶ月だなとか、そんな話しながら、俺は放課後に音楽室でピアノを弾いてたんだよ。…Nコンの練習をしないといけなかったから、……そしたら、あいつが不意に『あれを聴きたい』って言ったんだ。あいつ、モーリス・ラヴェルが好きだったからリクエスト通りラヴェルを弾いたんだ。そしたらあいつはいつの間にか昼飯食う手を止めて俺のことをじっと見てて、俺のピアノがやっぱり好きだって褒めちぎったんだ。…マジで、いつも通りだったんだよ。いつも通りだったんだ」

 机の方から目を逸らした蒼空先輩が「なんで死んだのか誰も分からないまんま、他の奴らまでいなくなってった」と嗚咽に似た声を上げる。綾花先輩が蒼空先輩の背中を撫でながら、唇だけ動かした。多分、つらいね、とかかなしいね、とかそんな感じの言葉だったと思う。僕はなんとなく立ち上がって、その机の前に歩み寄った。どうしてそんなことをしようと思ったのかは分からない。
 カーテンがたまに机の上に靡くその机は、あまり使われたような形跡がなかった。太陽がきらきらと机の木目を照らしている。活けられた白い花に視線を落とすと、何故か僕はその花の名前を知っていることに気がついた。なんで分かったんだろう。この花はガーベラだ、だなんて。教室のあの菊はなんなのか知らないのに。よほどメジャーだから分かってしまったのだろうか。なぜか花言葉まで思い出せてしまったのは誰からの知恵だろうか。…僕はこの先輩のことなんて当然微塵も知らない。けれど、この花がこの先輩の存在の全てを物語っているような気がした。この人がいたら、何かが変わっていたのだろうか。僕は少し目を伏せて机に向けて黙祷をする。
 ゆらりと、瞼の裏側で金色の髪の毛がたなびく後ろ姿を見た。



 一応、普通クラスで授業を受けることができるとは話に聞いているけれど気まずさからとてもじゃないけれど僕はその気にはなれなかった。別に勉強をしたくないとかではない。いきなり散り散りになった状態で平然と過ごせるメンタルがないのだ。頭がついていけていない状態で授業を受けるくらいなら、まだテレビの音でもにして家で課題をやった方が遥かにマシだ。
 そして学校側もそんな僕らの精神不安定さをよく理解してくれたらしく、急遽面談を行うことが決まったのだ。夏休みになる前である今から少しづつ新学期からどうやって生活していくかを決めていくことになるらしい。便宜上三者面談ということにはなっているけれど、二者面談でも良いそうだ。だから僕もそのつもりで行く気だったのだけど…母親はどうやら貴重な休みをわざわざ潰して面談に来てくれるらしい。正直親が来ると余計に話しにくくなりそうな気がするのだけど、でも来るなとも言えずに僕は今ここにいる。
 同じ階の空き教室の扉を開くと、スーツ姿で蒼井先生が机を四つ合わせた広いテーブルに書類を広げて待ち構えていた。今日は無精髭もないし襟が張ったシャツを着ているけれど、どこか疲れ果てているように見えなくもない。別に真面目に先生のことを見て生きてきたわけでもないからそんなに違いがわからないけど、なんか多分、先生も参っているに違いないだろう。そんな先生ががたりと立ち上がって母親に会釈したのと同時に、僕は教室の中に足を踏み入れた。



 なんか、いよいよ精神的に参ってきた。
 お昼は外でランチにしましょう、と誘われたけれど僕はやんわりと断って自分の教室に帰ってきていた。なんかもう動くのも億劫になるほどの事実の突きつけられかたにすっかり混乱している。なんだそれ。なんだそれ。いったい僕は、坂根桜葉はなんだっていうんだ。

 僕が、屋上から飛び降りたっていったいどういうことなんだよ。

 やっぱり転入は間違いだったんでしょうかだとか、優秀な学園だと聞いていましただとかと僕を置いてヒートアップする親を横目に、僕は袖を握りしめていた。なんとか「母さん、先生に言ってもしょうがない」とか言って引き留めていたと思う。実際母親もある程度は冷静な人だ。でも、そうやって落ち込んでいる僕に何か引っかかることがあったらしい。可哀想なものを見るような目で僕を見て「どうしていつもこうなんでしょう」って、どうしても何も、僕は何も知らなかった。当然蒼井先生だって知るわけがない。ただ、それでも先生は「坂根はどうしたい」と問いかけてくれていたと思う。僕はなんとか「頑張りたい」と声に出した。そこまではよかった。

 「でも先生もご存知でしょう。この子は前の学校で屋上から飛び降りたんです。頑張れるなんて本当に思えますか」

 その時の、『私は坂根に聞いています』という先生の言葉がなかったら、僕は多分ショックでどうにかなっていた。母親も言ってはいけないことに気づいた、みたいな顔をして、多分、分かっていたのだろう。僕が飛び降りたことを忘れているって。そこでようやく冷静になったようだった。今更遅いような気もしたけれど。
 なんとか、僕は新学期からまた頑張るということ、でも出来ればどんなに辛くてもクラス替えはしたくないということを伝えた。人が入れ替わればなんとかなるなんて話じゃないと思いたかった。たとえもうどこまでも拗れて上手くいかないことがあるのだとしても。僕はあれから返信が結局来なかった散音ちゃんとのやりとりを思い出した。大丈夫じゃないだろうに大丈夫かなんて、聞いた僕はやっぱり馬鹿だったって、思い出してまた胸が潰れそうになったけれど、でも彼女がいない教室に行くのも辛かった。

 そうしてのろのろと一人で教室に帰ってきて、頭を抱えだしてかれこれ五分が経つ。誰もいない教室に僕の荒い呼吸だけが響いてなんだか不気味だ。気持ち悪い。うっかり通り縋った誰かに頭がおかしいとか思われたらどうしよう。そんな他人事みたいな感想すら過ったけれど、余裕があるかと言ったらそんなわけでもなかった。
 …飛び降りたのは、僕ではなく桜葉のほうだ。そんなことはよく分かっている。それでも驚かないわけがないし衝撃を受けて当然だった。何か辛いことがあったんだということはあの薄暗い表情を見てわかっていたけれど、そんな風に孤独に一人で飛び降りるまでに追い詰められていたとは微塵も思っていなかった。そのせいで色々、考えてしまうのだ。

 助けてって、言えないんだ。

 言いたいのに言えない。言う相手がいない。いたら、多分飛び降りてなんていなかっただろう。けどわからない。どうして彼女はそこまでの孤独を抱えてしまったんだろう。僕は?僕はいったいなにをしていたんだ?僕が彼女のための【イチ】だというのなら、僕はどうして彼女の自殺を止める何ものにもなれなかったのだろうか。考えても考えても思い出せそうにない。ただ、自分がなんのために生きているのかを、桜葉が飛び降りるほどに苦しんでいたということを考えると、泣き叫びたくなるほど心が痛い。

 「…坂根さん?」

 不意に教室の外から声がして顔を上げると、せっちゃんがドアのそばに立ち尽くしていた。僕の顔を見た彼女は血相を変えて「泣いていたのですか」と駆け寄ってくる。さらさらと靡いた名前の通り雪みたいな色の髪の毛にちょっとだけほっとする。ああ、現実に帰ってこれたって、錯覚した。僕は浮かんでいた涙と汗を袖でごしごしと拭った。

 「大丈夫、ちょっと考えてたらしんどくなっただけ。ごめんね」
 「私は良いのですが、…そうですよね、坂根さんも、辛いですよね」
 「ううん、僕なんて途中から来ただけだし。…せっちゃんは?面談?」
 「…そうですね、私は十分程度で終わったので。二者面談でしたし、カウンセリングとやらは丁重にお断りしたので」
 「そっか、…でも、ちょっと辛そうだね、せっちゃんも」

 苦い顔をするせっちゃんの額に滲む汗は、多分暑さのせいじゃなかった。どこか顔色の悪いせっちゃんの目をじっと見ていると、彼女は気まずそうに視線を逸らして「それなりに」と微かに微笑む。ああ、嘘をつくのが下手なんだなって、僕はその笑顔を見て気がついた。これは多分、現実逃避の一環だった。僕は現実逃避のために、他の誰かの悲しみに逃げようとしている。そうして優しい彼女は、そんな僕の心理に乗っかって甘えた声を出してくれた。

 「…あの、坂根さんも辛いことは百も承知なのですが、授業がないせいで人に相談できず。…少し聞いていただけませんか」

 冬月雪ちゃん。
 能面みたいなポーカーフェイスで、授業中や読書をしている時は眼鏡を掛けている上に少しだけ目付きが悪いこの子は、冷静な性格も相まって人に誤解をされやすい。けれどそんな彼女は実はご飯を食べるのが面倒に思うくらい本が好きで、ちょっと浮世離れした天然めいた発言をする子で、いつもあかりちゃんと散音ちゃんに笑われていることが多い。それでも優しい人だった。そして好きなことには真剣だ。普通の女の子だ。僕はそれを知ってる。
 そんな彼女の、僕の服の裾を掴む左手は微かに震えていた。


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