▼ Prologue:R
「僕は死んでいるんだ」
誰にも聞こえていないと思い込んでいるらしい貴方の声が響いた。私は部屋の片隅で眠っている振りをしながら、真夜中の声に耳を澄ませる。布団に埋もれた貴方は、私が寝静まっていると思い込んでいるのかそれとも寝言か、小さく薄暗い声で取り留めのない独り言を吐き続ける。
「生きてなんかいない。僕はあの八月に死んだんだ。生きてなんかいないよ、だからこんなに辛いはずがないんだ。辛くなんてない、何も、なにも辛いことなんてもう僕には無縁のはずなんだ」
私は彼の名前を知らなければ、彼がどうしてこんなにも一人で苦しんでいるのかを知らない。
いつから私はここに居ただろう。確か冬の終わりにはもう既に私はこの部屋で彼のことを見ていたと思う。彼の机の上には色んな人物の絵が置いてあって、その絵の隣には名前や誕生日、経歴などが書かれていた。紙に書かれたお話を見て気がついた。私は彼に創作されたのだと。だから記憶が無い、私は多分彼の隣にいることだけを目的として創られた。…そう、勝手に思い込んでいるのだけど、貴方は私を決して寂しさを埋める何かにする気はないらしかった。
「創造主」
以前、私の名前を聞いたら「決めてない」と貴方は私を切り捨てた。貴方はいつも私を呼ばない。不意に独り言のように語りかけてくる。もしかしたら語りかけたつもりのないときもあったかもしれない。それこそ今みたいに。私はそういう彼の自分勝手にも程のある態度が少し憎らしいと思うと同時にどこか愛しかった。素っ気なくされていることこそ大事にされているように思えてしまう奇特な女が隣にいることを、貴方は多分分かっていない。
近寄った私に仰々しく呼ばれるのも慣れ始めただろう彼が、強く閉じていた目をゆるゆると開いて薄目で私と視線を合わせた。眠いと言っていただけあってか、それとも苦しいのか、はじめてそう呼んだ時と同じ不機嫌そうな表情をしていた。苦しそうで、気まずそうな。そんな貴方の髪を撫でるように指先を伸ばす。目測を誤った指は彼の額にぬぷりと沈んだ。
「眠る時くらい何も考えない方がいいわ」
「…そんなこと、出来たら苦労しないさ」
「楽しいことを考えたらいいのよ。そうだわ、私がお話をしてあげる。それで、眠たくなったら眠ればいいわ」
「…君は書けなくても語りはできるんだね」
静かに目を閉じながら呟いた彼に私はどういうこと?と問いかける。けれど彼は答えてくれるつもりは無いようで、ただ「いや」とさっきの独り言をなかったことにした。教えてくれないらしい。まあいいわ、と私は諦めて「昔昔」とよくある口上を語りかける。
「深い深い海の底に、人魚のひいさまがいました。七人姉妹の末の娘であった人魚のひいさまは、」
「…やがて恋に身を滅ぼし泡になって死ぬ」
「違うわ、ちゃんと王子様はひいさまに気づいてくれるのよ。王子様は、人魚姫の声をなにも好きになったわけじゃないのだから」
「そんな何処かのご都合アニメの話をされても困る」
なんのことだか分からないけれどどうやらそういう映像があるらしい。もう、と嘆息して私は諦めてほかの話をする。ただ昔昔、はもうやめた。これじゃあ創造主が語り出した瞬間に顛末を喋って終わらせてしまう。
「遠い将来、王子様がお姫様に恋をします。琥珀色の瞳をしたお姫様は、王子様にとっては春の女神のように美しい存在でした。けれどもお姫様は、魔女によって死の呪いがかけられていました」
「…それ本当にかけたの魔女かな」
「さあ、これはただのお話だから、私には分からないわ。…それでね、王子様はお姫様を救うために長い旅に出るの。魔女を倒してお姫様の呪いを解こうとするの。その旅の中で王子様は、何度も心も体も傷つけたわ。勿論お姫様も傷つくの、そうして言うのよ。『どうして私なんかのためにあなたはそんなに傷つくの』って。泣きじゃくるお姫様に王子様は微笑むの」
「……」
「『きみが愛してくれるから』って」
「……」
「王子様とお姫様は、そうして遠い将来にきっと幸せになるの」
「……」
「きっと、よ」
「…まるで何か知ったように言うね…」
「いいえ、私はなんにも知らないわ。けれど」
さっきよりも緩く閉じた瞼をなぞる。なんにも知らない。知らないわ。貴方の過去に何があったかなんて私はなんにも知らない。けれど、今の貴方のことなら少しだけわかる。貴方はきっと人に傷つけられてきたのでしょう。それだけに人を愛してきたのでしょう。貴方はこの世のあらゆるものを愛したいのでしょう。けれど、そんなことが出来ないからこそ、人間らしくそうして夜になれば泣くのでしょう。私は貴方の心の傷を知らない。知らないけれど。
「貴方はいつか幸せになるわ」
その言葉に傷つくということはわかっていた。何も言わなくなってぎゅっと目を瞑った彼の首元に折り重なるように頬を寄せる。触れた感覚なんて何一つなかったけれど、それでも貴方に私は触れたかった。私は貴方の心を知らない。知らないけれど知りたかった。
「また書いてみようと思う」
彼の髪の毛に桜の花びらが一枚引っかかっていた。はじめて出掛けるところを見たと思ったら、帰ってくるなりそう言ったものだから不思議だった。どうやら机の上にずっと置きっぱなしにしていた物語を書く気になったらしい。「なんだよこれ」「古い」「ちょっと馬鹿すぎる」と文句を言いながら機械の画面とにらめっこする彼は、なるほどどこまでも人間だった。だってまるで新しいおもちゃをみつけた子供みたいにどこか楽しげで、怒っているんじゃないかと錯覚するほどに熱意がある背中なのだ。私は花びらについては触れずに彼のそばに寄って画面を覗く。
「ねぇ、私は書かないの?」
「書くさ、君はメインキャラクターだからね」
「えっ本当に?」
「ああ。まあ、…出番という出番もないけれど」
「どういうこと?」
「君は他の登場人物のことを空の上から眺めてクスクス笑ってるか、時折誰かしらにちょっかいをかけにいくだけの役なんだ。神出鬼没だからなんとも言えない」
「あら、何処へ行っても私は幽霊扱いなのね」
「いいや、君は神様のつもりだよ」
「かみさま」
「…だから君に名前を与えるつもりはこれからもない」
最後だけやけにそっけなく言い放って、創造主は『登場人物紹介』という大きい見出しの下に小さく人物の設定を打ち込み始める。けれどいくら待っても私の名前らしきものだとか、私の存在だとかはその紹介のところには載せられなくて、段々と悲しくなってきた。どうして悲しいのかは分からない。省かれてしまっていること?ひとりだけ名前がないこと?人間として扱われないこと?気に留めてもらえていないように見えるから?多分、全部だった。肩を震わせだした私に気づいたらしい、創造主が困ったような顔でこちらに振り返る。それから「違うんだよ」と私の頬に手を伸ばした。
「神頼みする時に神様の名前ってあんまり言わないだろう?」
「…阿弥陀如来」
「いや呼ばないでしょ、神社とか行ってお参りする時そんなわざわざ神様の名前言って祈るかい?いや、ああ違うな…何かの奇跡を願う時って、そんな特定の誰かに対して願うと思う?」
「……さあ、そんなことを願ったこともないから」
「誰でもいいから救って欲しい、別に何処の誰とかではなく、頼むから奇跡が起きて欲しい。そういう時に願うものって多分『神様』でしかないんだ。僕は君にそれになって欲しい。だから、君に名前は要らないんだ。君には名前のある死生有命に縛られた存在になんてならなくていい」
「…死ぬでしょう、信じる人がいなくなれば私も」
「僕がいる。僕が死んでも君を信じている」
ただのお話の設定について話しているはずだったのに、私を射抜く目はやけに真剣だった。そんなふうに創造主に信頼をされていると知ったのは初めてだった。もしかすると創造主にまともに正面から顔を見られたのもこれまでにはじめてだったかもしれない。だとするなら、私が創造主の視線から目を離したのもはじめてだ。やめて、と言おうとしたけれどなんだかそう言うのは気が引けた。ただ顔を本棚のある壁の方へ背ける。彼が小さく笑う声が聞こえた。それも、はじめて聞いたなんの皮肉もない自然な笑い声だった。
「…神様なんかになれる素質なんてないわ、私はただの女だもの。それに、」
「それに?」
「…なんでもない。冗談でも死ぬなんて言わないで、貴方が死んだら私も死ぬわ、作品でしかないんですから」
名前があれば貴方に呼んでもらえたかもしれない、なんて多分貴方には通じなかったでしょう。何せ私と貴方の世界において、名前という概念はなかった。貴方は私にとって創造主でしかなく、貴方にとっての私も神様か幽霊でしかなかったのだ。それに、私がそれ以上を望んでも無意味だったこともよく分かっている。私は貴方と同じ存在には、たとえ天上に存在する何かに願ったところで永遠に叶いはしない。私は一生貴方を外へ連れ出して隣に歩ける存在にはなれなかった。そんな私が、貴方に呼ばれるためだけの女としての名前を望んだって、虚しいことだということはもうその時にはとっくに分かっていたのだ。
「桜葉の気持ちもそろそろ考えてやらないとな。分かってはいるんだよ」
貴方の名前を知った後も、私はまともに彼の名前を呼ぶことは出来ずにいた。そうして私がひとりで仕様もないことに胸を焦がしているうちに、貴方は私との決別の準備を進めていたのだ。だから、とうとうこの日が来たんだと、私は遠くの蝉の声を聞きながら覚悟した。
知りたいとは思っていたけれど、いつしか逆になんにも気が付かないようにしていた。貴方は今となっては少年ではなく一人の青年で、一人だけかけがえのない友人が今も貴方を心配して遊びに来る。貴方はその友人を邪険に扱いはすれど本当は彼に感謝をしていて、せめて彼こそ大事にしたいと思っている。そして貴方には、ずっと部屋の外で貴方を待っている妹がいる。聞こえていないわけがなかった。貴方が聞こえないふりをやめた時から、私にもその声は聞こえている。「お兄ちゃん」と、貴方を呼ぶ小さな声は、さっき部屋の外で「今日はいい天気だよ」とたった一人の兄に語りかけてきていた。貴方はもはや創造主なんかじゃ、私の神様なんかじゃなかった。私に背を向けてノートパソコンの蓋を閉じる貴方は、坂根成一という一人の男性でしかなかった。
「…貴方は、書くことをやめてしまうの?」
それは多分、私の心からの不安だった。貴方には沢山の触れ合える人が、未来と一緒に待ち受けている。でも私にはどうしても貴方しかいなかった。勿論貴方が大人になることも、幸せになることも、私の望みであることは確かだった。確かだけれど、忘れられるのも辛い。
彼は面食らったような顔をして、それからぷっと小さく笑って「まさか」と目を細めた。窓の外の晴天に似つかわしい笑顔で頬を撫でてくれるのだ。感覚がなくてもわかる。その手はきっと世界の誰よりも暖かい。
「全部大事にするよ。これからの妹とのことも僕自身の事も、作品も、君も」
ああ、なんて幸せな言葉だろう。一人で泣いていた貴方が笑っている。それだけでもし私が幽霊だったなら、その晩には成仏なんてものが出来るような気がした。
穏やかな心持ちで私は貴方が外に出ていく準備をするところを見守っていた。妹へのプレゼントを買ってくる、という彼の顎髭をチェックして、服装も薄手のカーディガンを羽織るように勧めた。靴下なんて久しぶりに履くよ、なんて恥ずかしそうに笑っていた彼は背丈は小さけれど格好良かった。
「行ってらっしゃい。イチ」
見送る名前を迷うことはなかった。扉を開けて立ち止まった彼に手を振りながら、私は最大限できる限りの笑みを見せたつもりだ。幸せだったけれどどうしても、少しだけ寂しかったのは貴方がはじめから私のものではなかったからなんて、決して話題が尽きても話せそうになかった。だから、笑うだけに努めた。
貴方は一瞬だけ驚いたような顔をして、それからまた目を細めてこちらに向けて手をあげた。そうして扉を閉めて出ていく。一言だけ残して。
「行ってくるよ。凛」
そうして、貴方は私が最も望んでいたものを与えてあの日部屋を出て行った。遠くの空はどこまでも青くて、遠くで蝉の声がした。微かに揺れるカーテンの向こうはじりじりと揺れていて、真夏の空気にカーディガンと靴下はちょっと不味かったかもしれないと夕方になって後悔した。私は気温が分からないから。それでも、折角の晴れの日に半袖にサンダルとかはどうかと思ったし、彼もそれはと躊躇っていたから、多分間違いではなかっただろう。間違いがあったとしたら、彼を笑って送り出してしまったこと、だっただろうか。
私はどうしてここに自分がいるのかも、何もかもをあの日に思い出した。言いたいことが沢山あった。ありがとうもごめんなさいも、言うなら多分さようならも必要だったかもしれない。
けれど、貴方がこの部屋に「ただいま」と晴れやかに帰ってくることは二度となかった。
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