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なぜかただただ髪飾りを渡すだけだというのにひどく緊張している。着物の裾を震える手で持ちながら、下駄を鳴らして部室が並ぶ廊下を歩いていく。階段を上るあたりで僕はとうとう下駄を脱いだ。足袋が汚れるとかなんとか思うことは色々あったけれど、足の痛みにはどうしても勝てない。それによろよろと亀の歩みで歩き続けると無駄に募る緊張で限界が来てしまいそうだ。もう普通に歩こうと決意してひたひたと足音なく廊下を歩く。薙刀部、サッカー部、バレー部、バスケ部、弓道部、陸上部…そして図書室を通り過ぎていくと左側に見えてくるのは「嶋原部」の文字。僕がいつも咲良ちゃんと過ごす部屋。そこまで来ていよいよ心臓が破裂しそうな程に苦しくなった。
きっと咲良ちゃんはまだ僕が美術室でデッサンをしていると思っているだろう。だって僕が美術部から戻るのは六時過ぎ遅くて七時だということを、咲良ちゃんはもう知っている。ほかならぬ僕が雑談混じりに喋ったからだ。きっと覚えているに違いない。でも今はまだ五時を回ったばかりだ。こんなに早い時間にいきなり帰ってきた僕を咲良ちゃんはどう思うだろうか。何で、まだ一緒に部活できるの、と目を丸くして笑ってくれるだろうか。想像すればするほど少しだけわくわくしてくる。咲良ちゃんは、僕の中ではとても優しい子で、僕と一緒に部活をするのを楽しいと喜んでくれる子だった。きっと、僕がいきなり戻ってきたってなんにも文句なんて言われない。なんの疑いもなく僕は咲良ちゃんとの仲を信じていた。
とりあえずいきなり扉を開けて誰も居なかったらを思うと、その後の僕が虚しいことになりそうだから、まず聞き耳でも立ててみようかと思いつつ近づくと、予想していなかったことに人の話し声がぽそぽそと引き戸の向こうから聞こえた。かすかに聞こえてくる高い声は確かに咲良ちゃんの声だ。一人で喋っている?珍しいな、と思いながら僕は扉に手をかける。それを止めたのは、「お前は間違っている」という男の声を聞いたせいだ。僕はその男の声が誰のものかを知っている。
「お前のやってることはおかしい。こんなことがいつまでも続けられるわけがない」
「それでもよ、それでもあたしは続けなきゃいけないの。どうして分かってくれないの?大地だって、咲良のことが大好きなはずなのに」
やっぱり、緑疾大地の声だ。…なんで?大地は嶋原部には行きたがっていなかった。それにそもそも咲良ちゃんとは「友達と言えばそうじゃない」みたいなことを言っていた。二人はなんの関係もない、ただのクラスメイトのはずだ。なのにどうして大地の声がここから聞こえてくるのだろう。どうして、咲良ちゃんが他人事のように咲良ちゃんの名前を出すんだ。どうして、そんなに冷たくて泣きそうな声をしているんだ。
悪いことをしている、という自覚はあった。けれど聞かないといけないような気さえした。不穏な空気にどうわり込めばいいかわからなかったし状況が読めない。それにこれで男女二人が部屋の中にいるせいで、お互いに何かあったらたまったものじゃない。不審に思いつつ僕は耳を澄まし続ける。聞いてはいけない話を聞いているような気がしたけれど、なぜか僕はその行為を止めることができなかった。
「大地には分からないわ。あの時あたしはとんでもないことをあの子に言ってしまった。あの子がああなったのはあたしのせい。…誰だってそう思ってるでしょう?大地だって、本当はそう思ってる。なんであたしじゃなくて、あの時咲良が…って、だから」
「だから、誰もお前をそうは思ってないって言ってるだろ!お前が何をしようと、どう償いとやらをしようとそれで咲良が目を覚ますわけでもない。お前が、オレがするのは償いでも、こんな茶番でもない。咲良が目覚めるのを待つことだろう――…」
「なに、それ」
勝手に、扉が開く。誰が?…ああ、そうだ。僕が開けたんだ。さっきまで聞こえていなかった第三者の声が茶室めいた個室に響く。
目の前にはこんな話を聞かれているなんて思ってもいなかったであろう二人がいた。大地は、いつもよりも表情が堅いまま彼女を見下すように立ち尽くしている。ぺたりと畳の上に太ももを付けて座っていた彼女は、予想していたような着物姿ではなく制服だった。いつもよりも真っ白な顔で、けれども丸い目を僕に向けて小さく口を開けていた。駄目だ。見なかったことにしないと。そうは思ったけれどもう止められそうになかった。目の前の女の子が、ただ怖くて仕方がなかった。
「咲良ちゃんが、違うって、演じるって、目覚めるって、茶番って、…何?何の話、してるの」
「…桜葉、なんで」
「坂根」
「わけがわからないよ。咲良ちゃん?…いや、違うんだね。君は咲良ちゃんのふりをしていた別の誰か、なんだもんね」
「坂根、やめろ」
「やめない。ねぇ、君が僕が思っていた咲良ちゃんじゃないっていうなら、君は誰?ねぇ、…誰なの?」
「坂根!!」
僕は、果たして目の前にいる女の子の顔を見ていたかというと、多分そうではなかった。怖くて見ることができなかった。顔を見ているようで僕は彼女の髪の毛だとか、ネクタイだとか、髪先だとかそんなところばかりちらちらと見ていたと思う。恐ろしくて目を見れなかった。だって僕は、彼女を責めてしまっている。分かっていた。けれど純粋に知りたかったのだ。
「やめてやれ」と大地が僕の肩を掴んで彼女から僕を引き離そうとする。落ち着け、なんて言われたけれど落ち着けるわけがなかった。だって、無理だよ。本当に意味が分からないんだから。目の前にいるのが咲良ちゃんじゃない?茶番?何が?どこから?どれが?ねぇ、答えてよ。僕の目の前にいて、今まで笑いかけてくれたのは、どこまでが嘘でどこまでが本物だったというの。
「…何言ってるの、桜葉も、大地も」
僕は、その静かな笑いを含んだ声を出した彼女の目を見ることが出来なかった。口元がかすかに震えていて、それでも確かに笑っていた。聞いておきながら僕は目を見られない。彼女は、僕を見ているのだろうか。それすらわからないまま僕は唇だけを見た。彼女は「あははっ」とお腹を抱えて心底楽しい、とでもいうように笑うポーズだけとる。ポーズだけに見えたのは、どう考えても楽しい状況じゃなかったし、いつもの笑いと全く違ったからだ。笑えないのに笑っている。「ああおかしい、」って、おかしいのは君の方だ。
「もう、何言ってるの?私が誰って。最初にちゃんと言ったじゃない。瑞崎咲良です、って。言ったでしょ?なにをどうしたら疑えるの?」
「…き、みは」
「やだ、そんな他人行儀。やめてよ桜葉。言ったじゃない。私のことは咲良って呼んで?」
「呼べない。呼べるわけない。君が咲良ちゃんじゃないっていうなら、呼べない」
「どうして?あたし、咲良よ。ずっと桜葉と一緒に朝も昼も放課後もずっとずっと仲良くしてた、瑞崎咲良。何か違うことがある?私は桜葉が何時間目まで授業になれば欠伸をし始めるのかも知ってるくらい、桜葉と一緒にいたのよ?桜葉だって私を友達だって言ってくれた。ねぇ、呼んでよ。あたしは、あなたの友達の咲良よ」
「――散音!!」
大地を間に僕に近寄って、焦点の揺らぐ瞳で僕を見つめてくる桃色が、その瞬間正気を取り戻したように僕に視線を合わせた。僕は、その名前らしきものを聞いた時どんな顔になってしまったのだろう。恐怖に歪んだような顔の彼女に、昼まで見ていたはずの愛らしい笑顔は見る影もなかった。ちるね。…そうか、君は、そうだったのか。本当に、そうなのか。僕は言ってはいけない言葉があるとわかっていた。けれど、僕は僕が思う以上に若く、どうしようもない子供だった。狼狽することも上手に出来ずに泣きそうな顔で、けれども泣けないような顔の彼女が僕とも大地とも距離をとって部屋の奥に逃げるように後ずさる。僕は分かっていた。何か理由があるんだって本当は気がついていた。けれど、どうしても僕の脳裏に浮かぶのは、四月の終わりから六月の今日までの「咲良ちゃん」との日々でしかなかった。
「…嘘吐き」
そう言ってしまった途端、もう戻れないところまで行ってしまったということに気がついた。ちょっとは「しまった」と思った。けれど、もう言葉は戻らない。そういうものだ。そういう、残酷なものなのだ。言葉というのは。
目の前の彼女は泣き出しそうな顔をずっとずっと堪えているような、酷い顔をしていた。多分僕もそうだっただろう。柄にもなくきっとお互いに酷い顔をしている。分かっていた。どうして君が泣かないのか。僕はその理由をよく知っていた。傷つけてしまった人間に、泣く権利なんてない。だから、僕は大地の制止も振り切ってただ扉に向かって振り向いた。
「…ごめんね」
「ごめんなさい…」
お互いの顔も見ずにそういう謝罪の言葉だけが最後に部屋に響いた。僕は引き戸を閉めて、そのままずるずると扉を背もたれに座り込んでしまう。その瞬間、扉の向こうからどうしようもなく引き攣った嗚咽と、廊下にも堪えきれない声が漏れた。もう仲直りなんて出来そうもない。取り返しのつかないことをした。僕はどうして大人になれなかったんだろう。傷ついたからって人を傷つけても良いなんて、そんな権利はどこにもないはずなのに。
「だから、忠告したんだ」
「嶋原部に、干渉するなと」
僕がそこにいることをわかっていたらしい、大地の声が扉越しに響いた。依然として啜り泣く声は扉の向こうからひびき続けている。僕がいると分かっていて、堪えるような声だ。僕は見えないとわかっていても頷くことしか出来なかった。そうだ、知るべきではなかったのだ。こんなことになるのなら。こんなふうに泣かせてしまうのならば、きっと。
鞄の中にしまっていたラッピングされた髪飾りは、もうきっと渡せない。それどころか、明日からどうなってしまうのかももう分からない。僕はきっと明日から、彼女をどうとも呼ぶことが出来ない。僕らはもう、友達ではいられない。なんの感謝もなんの気持ちも伝えられないまま、ただ僕は失ったのだ。そもそも本当にあったのかもわからない何かを。
ひとしきりボロボロになった後、一度僕は女子トイレに逃げ込んだ。三十分くらい蓋を閉めた便座の上に座り込んでいたと思う。そうして時間をやり過ごして、おそらく彼女が帰ったと見計らって、覚えている必要を失った着物を脱いだ。もう訪れることもない嶋原部の電気を落として、薄暗くなった部屋はあまりに寒かった。
玄関口に大地が居て、僕を駅まで送るという口実の元に教えてくれた。勝手なことを言ってるのは分かるが、許してやってくれって、僕だって許されたいし許すにもどうしたらいいかわからなかった。
あの子は瑞崎散音といって、大地と、本物の瑞崎咲良ちゃんの幼なじみなのだという。本物の咲良ちゃんの義理のお姉さんで、本物の咲良ちゃんは交通事故でずっと目を覚まさぬまま病室で眠り続けているのだという。事故自体は本物の咲良ちゃんの不注意で起きたこと。けれど、彼女は養子の自分が生きていることを負い目に思っている、らしい。彼女は咲良ちゃんの事故は自分が原因で起きたと思っているらしいのだ。そもそもの事故の原因は、咲良ちゃんが『前世』の人らしき誰かがいる、なんて誰もいない向こう岸の歩道になりふり構わず突っ込んだせいで明確な誰の過失でもないというのに。それでも咲良ちゃんの夢を応援しなかったことを、彼女はずっと負い目に思っている。そうして、存在もしない罪の償いに誰も望んでいないことをもう5年も続けている……。本当に二人揃ってバカみたいだろ、って言われたけれど、説明してくれた相手はちっとも笑ってなんかいなかった。ありもしない夢に踊らされているんだ、なんて国語の点数がクラス最下位である男の口から、そんな詩的な言葉を今聞きたくはなかった。
夜中にメールが届いた。『咲良ちゃん』からだった。ピンクのライトが点滅したあと、届いたメールにはたったの数行程度の言葉しかなかった。僕は返事が出来なかった。まるで今生の別れみたいだ、って、思ったのならば何か言えばよかったのに。僕は画面を凝視してやがて閉じた。
『ごめんね。今までありがとう』なんて、これからのことをどうして僕は言い出せなかったんだろうか。
次の日の朝から、咲良ちゃんが僕の席の前にやってくることはなくなった。
そして僕は、あの悪夢のような一言を、のちに電話越しに聞くことになるのだ。
『散音が死んだ』
既に募っている後悔が、本当に取り返しがつかなくなるなんて、分かっていたらもう少しは僕は君と向き合えたのだろうか。そんなことも、終わってしまった今となっては考えたってもうどうしようもないんだ。
青薔薇
叶わぬ夢
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