新訳Prism


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 「…ねぇ、聞こえる?」

 その日、僕はいつも通り自分の部屋のベッドで目を閉じて眠っていた。正確に言うとおそらく眠っていたのは身体だけで、どこか頭は冴えていたような気がする。まるで金縛りにでもあったような気分だった。でも、実際想像するような金縛りほど辛いものではなかった。だから、多分眠っているという夢を見ていただけなのだと思う。そうでなかったら、親以外の誰か、違う女性の声が耳元から聞こえてくるはずがない。
 目を閉じているから、誰にそうされているのかは分からない。ただ誰かに僕は髪を撫でられていた。なんとなく頬に冷たい風が当たっているのを感じる。かすかに風が部屋に流れ込んできているような布団越しの寒さも感じた。初夏とはいえ夜はどうにも肌寒い。けど、だからといってその寒さに不快感はそれほど覚えなかった。所詮夢だ。感覚なんてものはないに等しい。すべては想像上の体験でしかなかった。ただ、撫でつけてくる小さな手のひらの暖かさだけはやたらとリアルに感じた。

 「昔も実はこうしていたのよ。触れられない貴方の瞼の下に指先を当てる真似をしていたの。貴方は、覚えていないでしょう」

  頭上から降ってくる声はまるで母親のように優しく聞こえた。実際の母親よりも下手をすれば優しかったかもしれない。撫でてくる指先は少し冷たかった。部屋が寒いからかもしれない。それか、僕の頬の体温が高くて冷たく感じるか。多分、どちらもだ。何せ僕は眠っているし、それに部屋は依然少し寒い。

 「…ねぇ、誰のためになんて言わないわ。ただお願いがあるの。私は貴方にもう二度と苦しんでほしくない。一人で泣いて生きられない顔をして欲しくないの。ごめんなさい。聞こえないからって、今更勝手なことを言ってる」

 聞こえているよ、と目を開けられたらよかった。けれど夢に僕はそれ以上反応ができない。黙って死体のように横たわって寝息を立てる以外に行動の余地がなかった。夢の中で狸寝入りでもしている気分だ。明日覚えていたら、誰かに話してみるのもアリかもしれない。でも、そんな笑い話で終わる夢のような気がしなかった。

 「私は貴方に幸せになってほしかった。一度でいい、貴方に心から笑んでほしかった。私はきっと、今幸せだわ。だから私は、この先が怖くて仕方がないの。…この夜が明けることが怖くて仕方がない。…ねぇ、分かってくれるでしょう?」
 「分からない」

 寒々しい空気に似つかわしい声が部屋に響いた。優しい声とは真逆の棘のあるわずかばかりの低い声。けれどどうしようもなく女性の声だった。…僕の声、だった。でも、僕は目を閉じているはずだった。目を閉じて横たわっている。なのに、いつしか僕は起き上がって、窓を背に立っている黒い影を横たわりながら睨みつけていた。

 「分からない。ただ、貴女のそれは何もかもが傲慢というだけに過ぎない。一生、永遠にわかりなんてしない。貴女は他の誰かなんて何一つとして愛していない。貴女は、貴女が好きなだけ。そうでしょう?そうじゃなかったら、貴女は私を選ばなかった」
 「…桜葉」
 「許しはしないわ。許さない。貴女には絶対に渡さない。帰って。近づかないで。邪魔をしないで」
 「違う」
 「何も違っていない。私を愛していないくせに、私を愛しているような顔をしないで。分かってなんかくれないくせに。帰って。近づかないで。私からこれ以上なにも奪わないで。帰って。帰れ!!」

 激しい激昂に喉奥が切れたような痛みを一瞬だけ覚えた。陰が何も言わず、ただ少し悲しげに闇夜に溶けていく。僕?は布団に潜り込み、真っ暗な世界に胎児のように丸まりこんで、「うぅぅう…」と呻いた。いや、呻くような泣き声だった。咽びながら「ちがう、ちがうのよぉ」と子供のように声をあげて何かに反論をしている。暴れまわりでもしそうな勢いで僕?…いや、彼女は声をあげて泣いていた。違うの、違う、と何かに反論している。


 「傲慢は私のほうよ。でもあの人だってそう、誰だってそうよ。みんな傲慢なの。みんな、みんな何かのために何かに対して傲慢になる。あああ、いや。いや。どうして私は愛されないの?私はどうしてこんなに、なんで。愛していたのに。愛していたのにどうして全部おかしくなって、やだ。嫌だ、見たくない。ごめんなさい。許して。ごめんなさい、でもみんなが悪いのよ、みんなが私を愛さないから。誰も私を見てくれないから、だから悪いのは私じゃないの、私を見ない全部みんなが悪い。違うそういう考えが傲慢なんだ。もう嫌だ。違うのに、ただ愛されたかっただけなのに。ただお兄ちゃんに見てほしかっただけなのに、なんで、なんでなんで……


 徐々に意識が失われていく。いよいよ夢すら途切れるほどの深い眠りに落ちるらしい。でも、本当にこれは、夢だったのだろうか。だって僕が泣いている。僕ではない僕が泣いているのだ。助けを請うようにシーツを掴みながら、心臓を抑えながら、鼻水が出ようと唾が出ようと涙でぐちゃぐちゃになろうとなりふり構わず泣いて、許しと助けを願っている。本当に、それは夢なのだろうか。夢じゃないのなら、助けられは出来ないのだろうか。助けられないということは、夢なのだろうか。

  「だれか…私を愛してよぉ…」

 幼い子供のような声だけが、落ちる最後に鮮明に聞こえた。愛しているよ、愛していたんだよ。そんな言葉も言ったような気がした。それは、誰の声だったのだろうか。深夜未明の記憶なんて曖昧で、そもそも意識も不確かで、だからこそ僕は何にも答えを見つけられそうになかった。



 「これは浮世絵を真似た西洋の画家の気持ちも分からなくはない。いや、素晴らしいよ坂根さん。実に」
 「へへ…そうですか?そう言われるとさすがに着た甲斐があります」

 あの日の翌日。咲良ちゃんはいつも通りだった。いつも通りの顔で「おはよう」と笑まれて、僕も普通に返事をしたと思う。多分済んだこととして片付いたのだろう。だから僕も何も気にせずに放課後を満喫していた。昨日はついに自分の力で着物を着ることが出来るようになったのだ。今までは咲良ちゃんに最後直してもらってなんとかしていたのだけど、悔しくて一人で着たり脱いだりを繰り返していくうちになんとか覚えられた。あの時の咲良ちゃんの「おめでとう!」の声量はいつもの三倍はあったと思う。あれがもし日曜日ではなく平日だったら間違いなく僕らは隣の図書委員会もといせっちゃんに怒られていたに違いない。にしても自主練習とは言ったけれど、笑って日曜日も僕の着付けに付き合ってくれた咲良ちゃんの優しさといったらない。
 もちろん斎藤先輩と交わした約束も忘れてはいない。あれからも僕はちゃんと僕は美術室に赴いては斎藤先輩の絵のモデルをしている。今日はこれで三回目だ。三回目となるとさすがに少しだけ斎藤先輩がどんなものを描きたいのかもニュアンスで分かってくる。けれどいったい僕のどこに描きがいがあるのかは分からない。曰く、僕は扱いやすいそうだけど、なんだかバカにされているような気がしてならない。
 そして今日は自慢のために着物で出陣することにした。もうとにかく僕は自分がこうして着物を着られたことを誰かに見せびらかしたかったのだ。斎藤先輩はわりとその承認欲求を満たすにはちょうどよかった。多分向こうだって資料といってくれるだろうし、Win―Winだ。そして想定した通り、斎藤先輩に見せにアトリエに入った瞬間にやはりクロッキーがはじまったのでこれは少し嬉しい。向こうが僕を扱いやすいと思うように、僕も実は少しだけこの先輩の扱いや人となりを心得始めているのだ。そう、例えば初期の笑顔は愛想笑いだっただけで今は不機嫌ではなくてこれが素なのだ…とか。意外とロマンティックで幻想的なものを求めて何かを描こうとしているようだ、とか。
 和服姿を描く機会はめったにないらしく、斎藤先輩は生き生きと筆を動かしていた。心なしか表情も真顔ではいるのだけど目が少し輝いているように見えなくもない。そんなに嬉しいんですかとなんとなく尋ねてみると、「そうだね。このあたりで着物を着ている人なんて本当に限られてるし、それにモデルに頼めるようなしろものでもないからね。そうなるとなかなかこういう機会ってないんだよ。写真資料は見たい角度でものを見ることもできないし、やっぱり現物を描くのが一番いいね」と饒舌に語ってくれた。
 ちなみに前から気になっていたのだが目元、口元は別に動かしても構わないらしい。想像で補っているそうだしそもそもクロッキーではそこまで書いてはいないようだ。それって絵としてどうなんだろうかと、一瞬思ったけれど絵に疎い僕にそれを言う資格はない。それに多分斎藤先輩なら僕の表情の中で必要な形くらい覚えているだろうし、なんとかできるんだろう。斎藤先輩だし。

 「…ふぅ。はい、終わったよ坂根さん。今日はどうもありがとう」
 「いえ、どういたしまして。じゃあ僕はもうこれで…」
 「うん。…あ、次はまた水曜日、お願いできるかな」
 「はい、大丈夫です!」

 いつもどおりの言葉を交わして美術室を出る。足の親指と人差し指が鼻緒で痛む。眉を顰めながらいつもより遅く歩きながら僕は軽く溜息を吐いた。扱いがわかってきたとは言ったものの、僕自身がクロッキーをされるのに慣れたかと言われるとまた少し話が変わってくる。ああして人にじっと見つめられるのは別に苦手まではいかないけれど落ち着かない。
 でも今日ははじめにお願いしいた通りに早く終わってよかった。いつも美術室でのアルバイトが終わる時間は遅い。正直、今日がちゃんと終わってくれたのが奇跡と言っていいだろう。もしかしたら第一回目の時に僕がお弁当を食べ損ねたことを少しは気にしてくれたのかもしれない。最初の愛想の良さは消えて無表情で淡々としている人だけど、ああしてみると実はやっぱり優しいところは変わらないのだろう。
 いつもは咲良ちゃんも帰る時間になっているから、僕も特に挨拶とかはせずにそのまま家に直行している。でも今日はこの後着替えなくちゃいけないし、着物の片付けもしないといけない。その時間も必要だしなんとかなって助かった。その代わり次に行く時はもしかしたら「着て来て」と言われる可能性が高いけれど。後でメールでもするべきなのかもしれない。

 それに僕にとって今日は特別な日だった。咲良ちゃんにプレゼントを渡そうと思って、カバンの中に髪飾りを用意しているのだ。
 襟の内側にしまいこんでいたリボンを取り出して眺める。この赤いリボンを咲良ちゃんからもらって、明日で一週間が経つ。先週、咲良ちゃんがこれを着けていたところを見たかったという話をした時、「赤色はちょっと私には似合わなかったみたい」とやんわり断られてしまった。確かにあかりちゃんくらいもっと薄い桃色の髪なら似合うかもしれないけれど、咲良ちゃんの髪は赤色と大分近い桃色だった。そうなるとどうしても髪の毛の色と同化してしまうのだろう。「でもリボンは好きよ」と笑って濁した咲良ちゃんは、その日も僕の髪を結んでくれた。気分、と言って三つ編みお下げにされた僕を咲良ちゃんは「外国のお嬢さんみたいよ」と褒めてくれたけれど…僕はあの時思ったのだ。だったら似合う髪飾りを僕が選ぼうじゃないか、と。それに咲良ちゃんにはいろんなことを四月から助けてもらっていたわけだし、いい加減そのお礼もしたかった。…まあ建前5割、本音5割の心境だ。お陰様で昨日は病院で別れた咲良ちゃんを見送った後に僕は夕暮れの商店街で随分思い悩んだものだ。選んだのは黒いリボンで僕のと色違いに近いデザインのちょっと小悪魔めいたものだ。これは多分、天使が可愛い悪魔になる、なんて一人で興奮しながらレジに行ったのは記憶に新しい。…いや、違う。違うんだ喜んで欲しいんだ。本音は5割くらいしかない。違う。ダメだ、本当に変な顔をして下心を見せて渡すのだけは死んでもしないようにしよう。ああでも本当に、喜んでくれるだろうか…。


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