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昨日は楽しかったけれど大変だった。でも多分やっていくうちに「大変」が減っていくのだろう。減らない「大変」があるとするならば帰ってきた時間がかなり遅くなってしまったので母さんに怒られてしまったことくらいだ。どうやら僕が予定外の時間に帰って来るということは、母さんにとってはかなり恐ろしいことらしい。まさか泣かれるとは思わなかった。僕と母さんの間にはいったい何があったのだろうか。母さんはドライなようで結構僕に対してどこか重たい。
そんなことを思いながら今日も僕は学校に向かった。教室に入ると今日は大地は珍しく早起きをしたらしい、僕よりも先に大地が来ていた。なんだか意外だなと感じつつ僕は大地にいつもより早く「おはよう」と声をかける。すると大地もふっと顔を上げて「おっす」と返事をする。僕は席に座りながら、机の上に置いていた鞄から教科書類を取り出す。「昨日楽しかったよ」と言うと、大地は「良かったな」とそっけなく答えた。
「大地も部活やらないなら入ればいいのに。楽しいよ。咲良ちゃんとお茶飲むの」
「オレは男だから無理。あれは女が集まるやつだしオレが入ったらまずいだろ。それにお前と違ってそこまで瑞崎とは仲良くないからな」
「…そう?結構仲良さそうに見えたけど」
「…別に、…あー、まあでも一応小学校から一緒だし顔見知りではあるからな。ただ友達かと聞かれたらハァ?って感じになるっていうか」
「そ、そこまで言う…?んんん、…あ、でも大地と咲良ちゃんが小学校からの知り合いってことはさ、もしかしてほかにも同じ小学校出身の人とかもいたりするってこと?」
僕がそう質問すると大地は「そうだな…」と呟いてあたりを見渡す。それからしばらく考え込んでから、「このクラスだけだと…城ヶ崎くらいじゃないか?大体は一組は付属小から来てるはずだし」と答えた。城ヶ崎さん…と聞いて僕が思い浮かべたのは教室の一番前、右端の席に座っている人だ。そう、確か城ヶ崎 柘榴(じょうがざき ざくろ)さん。一度も話したことがないからどんな人かはよく分からないけれど、いつも藤色の羽織を制服の上に羽織っているからなんとなく印象に残っている。
でも結局分からない人だから僕はふうん、と返すだけに留めてしまった。すると大地も話題に困ったらしい、「それより今日ホラー映画見るんだけど来る?」と聞いてきてくれた。転入直後からずっと席が隣の大地とは、よくテレビや小説の話をすることが多い。とはいえ小説といってもジャンルはホラーだ。昔、文章はチープなくせにやたらと設定が奇抜で読みやすかったホラー作家がいたよね、という話がとっかかりだったと思う。そう、確かせっちゃんに好きな作家はと聞かれて出てきたのがその人だった。僕でも読めた小説だったし僕はあのくらい怖いのはわりと好きだった。けれどせっちゃんからすればあれは読み物のうちに入らないらしい。それでも好きだったからそうやってディスられるのは少し悲しいなぁ…と思って、共感してくれそうな大地にぽつりと愚痴ったら存外意気投合してしまった。確か転入して一週間とかそのくらいの時だっただろう。あれ以来、僕は時折寮に誘われて談話室でホラー映画の鑑賞をすることが稀にあった。当然のように今日も「行く」と即答したいところだった。けど僕はまだ今後の部活の予定を正直に言ってよく分かっていなかったし、昨日親を心配させたことも後ろめたさとして残っていた。だから、「今日はやめておくよ」と申し訳なくも返事をすると、大地は「そうか。じゃあいいや」とこれまたそっけなく言って話は終わった。僕もちょうど咲良ちゃんの「おはよー」という声が遠くから聞こえたので、ショートホームルームが始まるまでそっちに行くことにする。
僕が近くに寄って「おはよう」というと咲良ちゃんはいつものように「おはよう桜葉!」とにこりと笑った。「昨日は楽しかったよ」から雑談を始める。いつもと変わらない会話。だけど確かに僕と咲良ちゃんだけが共有できる感情がその内容の中には含まれていた。そのうち時間が経つと、「何々ー?部活の話?」と登校してきたせっちゃんとあかりちゃんがやってくる。いつもと同じ流れが続いていく。だけど今日は順番も違えば、会話の流れも違った。
「おい」
低い女性の冷たい声が遠くから響く。教室の前の方、いつも話をしないからあまり興味の範囲に入らない人。だけどさっき大地との会話の中で出てきた人。彼女、城ヶ崎柘榴さんは僕らの方を首も動かさずに背を向けたまま冷たい声をあげた。
「朝は自分の時間だということを知らないのか。騒いでいる貴様たちだけの教室ではないのだぞ。もう少し静かにしたらどうだ。不愉快だ」
心が急速に冷めていくのを感じた。城ヶ崎さんは「しかもそこにクラス委員長が混ざって馬鹿騒ぎをしていると来た。どうやらクラス委員長というのは単なるお飾りだったようだな」と 咲良ちゃんに追い打ちをかけていく。先にそれについて反応したのは咲良ちゃんでははなく、ため息を吐きながらもひきつった笑顔を作るあかりちゃんだった。
「んー、風紀委員長さんの言うこともま確かにもっともだけど?でも今更注意?かれこれこういう状態が続いて一か月以上たったと思うんだけど。それに、こうやって立ち歩いているのはあかりたちだけじゃないしね。あなた、委員長のこと責めたいだけでしょ。城ヶ崎さん委員長のこと嫌いだもんね」
え、と僕は交互に咲良ちゃんと城ヶ崎さんの方を見る。なんで?風紀委員と学級委員で立場が被るとか?同じ小学校なのにそんなことがあるの?と、いろいろ頭の中で混乱しているうちに城ヶ崎さんが「嫌うに決まっているだろう!!」と激昂して勢いよく立ち上がった。不味い、と僕は反射的に咲良ちゃんを庇うように彼女の前に立つ。咲良ちゃんの左後ろに座って誰かと話していたはずの大地が「あ!!」と大声を上げたのはちょうどその時だった。
「久条センパイ!!」
廊下に向かって叫んだ大地の声にその場にいた全員が注目した。どうやら廊下にたまたまいたらしいその先輩に用があったらしい。「えっ?何?オレ?」という声が廊下から聞こえる。そしてその先輩らしき人がひょっこりと「えーと、どうしたの?」と顔を出した。はじめて見る苔色の髪に眼鏡をかけたその人の学年カラーは青だった。つまり三年生だ。いったいどうしたものだろうか。大地はもうその場に目当ての先輩がいるというのにまだ大声で呼びかける。その内容はちょっと僕には理解不能だった。
「前に予約した緑疾なんですけどー!一組委員長と謎の美少女転校生の百合薄い本まだ発送されてないんすけどもう発送されて――」
「久条凪ィイイイイ!!!貴様まだ不埒なものを寮内で販売してるのか!!!」
「ヒィイイイ!なんで緑疾弟ここで言ったの!?」
城ヶ崎さんには大地の言っていた言葉の意味が分かったらしい、咲良ちゃんからあの久条先輩に着物の裾から何か妙な武器(待ってあれ鈍器っぽいけどいいの?)を取り出し、矛先を変えて走り出す。と、同時に久条先輩も大地に対する文句を言いつつ逃げ出した。当の大地は「いや、ほんともう五日くらい待ってたんでいい加減にしないかなと」と悪びれもなくそう呟く。既に周囲の関心は大地に向いていた。どうやら僕以外はさっきの言葉の意味を知っていたらしい。咲良ちゃんが「あの人何描いてるのぉっ!?」と顔を赤らめて叫び、あかりちゃんは「ああ委員長可哀想に…でもあかりも買っちゃったんだよねごめんね」とそんな咲良ちゃんを慰め(?)ている。せっちゃんは大地に対して「あなたまだ十六じゃないですか」という説教を始めていた。
着いていけないけれど会話にも入れなかったので、僕は何となく近くに座っていたクラスメイトの青木君に「薄い本ってなに?」と尋ねる。青木君は苦笑いしながら「なんつーか…この場合はエロ本?」と答えてくれた。…あの人普通そうって言うか真面目そうな顔をして僕と咲良ちゃんのエロ本描いてるの?何それ怖い近づきたくない。近づきたくないけど、でもちょっとその本は気になるかもしれない。後で買えないかな、と思いつつ「ありがと」と青木君にお礼を言って、とりあえず僕も大地の説教に……回ろうかと思ったけれどせっちゃんがその場に大地を正座させているのを見てしまったので、苦笑いをするだけでやめておくことにした。それに僕も多分買うことになるだろうから恐らく人のことを何も言えない。
蒼井先生がその後、やって来るまでせっちゃんは大地に説教を続けていた。
「咲良ちゃんはどうして嶋原部をはじめることにしたの?」
三回目くらいの部活の最中、悪戦苦闘しながらなんとか飾り紐を帯に宛てながらそんな疑問を口にした。お互い女子とはいえやっぱり咲良ちゃんのあられもない姿を見る訳にはいかず、僕は咲良ちゃんに背を向けていた。だから、「え?」と僕に問い返してきた咲良ちゃんが、どんな顔をしていたのかは知らない。だけど、いつも通りきょとんとしたような顔をしているのだと思った。声がそんな感じだったから、だから僕は「ちょっと気になって」と話を続ける。
「一番有名な遊郭じゃなくてなんで京都なのかなって。それに茶道部とは何が違うのかなって…ごめん、ちょっとした疑問なんだ。本当に」
「そうねぇ、確かに部活申請の時にも先生に言われたわ。そんな名前じゃどんな部活か分からないだろって」
「だよね…でも、嶋原部なんだね。どうして?」
「簡単よ。京都が好きだから」
「あ、ああ…なるほど…そんな良い所なんだね、僕行ったことないからなんとも言えないけど」
「やだ、そんな困ったような返事をしないで。嘘よ、これは建前の理由よ」
返事に困ってしまった僕を咲良ちゃんが笑い飛ばす。「ねぇ、桜葉」と大きく衣擦れの音がして、僕は思わず振り返った。今日は黒地に金の着物を着た彼女が、思うように着付けができないという理由で服装の乱れている僕の手を不意に両手で握ってくる。「さ、くらちゃん」と引き攣ったような声が出た。僕より幾分背の小さい彼女の赤い唇が、あまりに妖艶でくらくらする。僕は、その時手に飾り紐を持っていた。赤い紐だった。それを指先で摘んだ彼女が「私ね」と吐息混じりに吐きつつ目を細める。小指に紐を巻き付けながら、「探しているの」と真剣な目で紐を睨んだ。
「探している…って、何を?」
「私の、運命の人よ」
「運命…?」
「…私の話、引かない?頭おかしいとか、絶対間違ってるなんて、桜葉は私を責めずに聞いてくれる…?」
じぃっと見つめてくる赤に近い桃色の丸い目に黙って頷く。はりつめたような表情を浮かべる咲良ちゃんは、僕の頷きに少しだけ困ったように笑って「ありがとう」とぺたりと畳に座り込んだ。どうやら話し始めるらしい、僕も着付けがおわっていないままにぺたりと座り込むと、咲良ちゃんは不意に僕の肩に身体を寄せてきた。ふわっと漂ってきた花の匂いは、シャンプーかなにかだろうか。甘い香りとシチュエーションの異様さにまだ現実味が湧かない。「あのね」と小さく口を開いた咲良ちゃんの赤い唇を僕は見ていた。
「小さい頃からずっと夢を見るの。嶋原っていう京都の遊郭に子供の頃から暮らしている夢。ご飯もろくに食べられない日々もあった。捨てられている残飯を食べて食いつないだことだってあったわ…女将の機嫌が悪い時は、意味もなく折檻だってされた。冬の寒空の下に裸で放り出された時は死だって覚悟した」
「…なんの話…?」
「夢よ。夢の話」
くす、と小さく咲良ちゃんが口元だけ笑んだ。瞼を閉じたまま咲良ちゃんは夢の話を続ける。あまりにリアルで、地続きの夢だった。毎日見るのだという夢の話を、着物を着て語り続ける咲良ちゃんはまるでその世界からタイムスリップでもしてきたような人に見えなくもなかった。姉さんにはよくしてもらったわ、だとか、あそこでは如何に上手に花を売るかが肝心だった、だとか、全然分からないはずなのに咲良ちゃんの小説のような語り口調のおかげで容易に情景に想像が付く。どこかで三味線の音が聞こえる傍らで男の下卑た笑いも聞こえるのだとか、お酒と香の匂いだとか、どうしようもなく遠く見える夜の空だとか、そんな優雅なようで寂しい世界が僕も目を閉じれば見えるような気がした。
「ある時ね、私に固定のお客様が付いたの」
真剣な顔をしていた咲良ちゃんが少しだけ口角を上げた。お客様、という言葉にどう考えても男性だということを思い描く。どんな話かすぐに予想が着いて、少しだけモヤっとした気分になった。それでも、咲良ちゃんは幸せそうだった。
「江戸から京に上ってきた浪士…えっと、将軍家を守るために結成された組の方でね、無愛想で眉の凛々しい方だったわ。こんな人も女性を買うのかって、最初は少し残念な気持ちになったわ。そういうものとは縁遠そうな方に見えた気がしたから」
「…え…っと、…その人にも、やっぱり…」
「ううん、その人、私を抱かなかったの。どういう経緯であそこにあの方が来たのかは分からなかったけれど、でも、あの方は私を好きだと言ったその口で、私に触れはしなかったわ。私もその時あの人のことが…って、桜葉、どうしてそんなすごい顔をしているの?」
「え?…そんなすごい顔してたかな、僕…」
「ちょっと怖い顔だけど…もしかして、何か嫌なことでも言っちゃったかな…?」
「んん…なんだろう、ちょっと嫉妬した、だけ?かな。ごめん気にしないで」
まさかそんな知らない男に夢だろうとなんだろうと抱かれている咲良ちゃんのことを想像するのもしんどいと思っていたその傍らで、純愛プラトニックをされると余計に腹が立って仕方がないとは口が裂けても言えそうになかった。おかしいな、僕は女のはずなのにどうしてだかやっぱり咲良ちゃんのことをそういう目で見てしまうようだ。僕と咲良ちゃんは友達のはずで、同じ女のはずなのに、僕はどうしてだか咲良ちゃんの前では男になってしまう。こんなだからきっとレズだなんだとあかりちゃんに馬鹿にされてしまうのだろう。深いため息を吐きながら、「ダメだなぁー…」と呟く。横で咲良ちゃんが狼狽える気配がしたけれど、悪いのは友達の恋愛を素直に応援できない僕一人だった。
「友達の恋愛も素直に応援できないなんて…」
「ご、ごめんね、だいじょうぶ。大丈夫だよ。あの、私、桜葉が私の事そんなに大好きだって思ってくれてることが嬉しいから…ありがとね?こんなおかしな話してるのに、真面目に聞いてくれて…」
「…うん、僕も、咲良ちゃんのことすごく、友達だと思ってるよ。だからいいよ。ごめん、続き話してくれる?」
うん、と咲良ちゃんが軌道修正をしはじめる。多分、僕の嫉妬はただのやきもちとして受け取られているんだろうとはわかっていたけれど、それでも配慮してくれたらしい。咲良ちゃんは「でもダメだった」と悲しそうに眉を下げてまた目を閉じた。
「私、死んだのよ。あの人が京を発ってすぐに、病で死んだの」
しん、と間が続いた。僕はなんにも言えそうになくて、ただ息を飲んで咲良ちゃんを見ると、どこか泣きそうなのをぐっと堪えるように隣の咲良ちゃんは瞼をふるわせていた。
「病にかかったのは、あの人が京を発つ少し前…あの人は当然、行かないといけない戦場があった。私なんかのために、たかが遊女ひとりのために…あの人の誠は曲げられない。だから、あれが最期だったの…あの夜が、さいごの…」
「…咲良ちゃん」
「ごめんね、暗い話して。でも私、信じているのよ。だってあの人と最後に約束したの。あの人が約束をくれたのは、あの時がはじめてのことだったわ…」
不意に左手を咲良ちゃんが伸ばす。まるでなにかに手を伸ばすような、何かを手繰るような白い手が、窓から差し込む日差しに照らされて一層眩しく見えた。光に目を細めながらも目を開ける咲良ちゃんの桃色の目は、太陽のせいで余計に淡く見える。
「必ずまた会えるからって、必ず見つけるからって…ずっと信じてるの。何処にいるかも分からない、どんな姿になっているのかも分からない。けれどあの人は、いつか私を見つけてまた私の前に来てくれる。信じているのよ、ずっと。…信じているの、私は」
恋焦がれているというよりは、何故か僕にはその横顔が悲しそうに見えた気がした。いや、悲しそうだからこそ恋焦がれているのかもしれない。きっとそれだけ好きなんだろう、と思うと僕の嫉妬なんて瑣末なもののような気がした。そうなんだ、偉いね。頑張って、応援してる。そんな月並みな言葉を言おうと口を開く。けれど、それは咲良ちゃんの「でもね」にかき消された。…その笑顔は苦笑いに近い、今度こそ悲しそうなものだった。
「夢の話よ。本当かなんて、分からないから」
「…でも、咲良ちゃんはそれを信じているんでしょう?咲良ちゃんが信じているなら、僕も信じるよ」
「…桜葉みたいな人が、もっと昔からいたら良かったかもね」
「…咲良ちゃん?」
「なんでもないの。ごめん、忘れて」
俯いた咲良ちゃんが僕に完全に凭れてーーというか、最早しがみつかれる。表情は見えなくて、僕はただ咲良ちゃんの挿す朝顔の簪と白いうなじを眺める以外にできることがなかった。「ほんとうに…どうして…」と咲良ちゃんの声は震えていて、もしかしたら泣いていたかもしれない。そんなに会えないことが寂しいのだろう。僕は抱き返すなんて殊勝なことはできなかったけれど、ただされるがままになって「会えたらいいね」と背中に向かって声をかけた。咲良ちゃんは、嗚咽を堪えるだけで他に何にも口には出さなかった。
その日の部活動は、それだけで終わった。
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