新訳:Reflection


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 いつから僕たちの家が「そう」だったのか。なんてことは当然子供のころからの話だったからよく覚えていない。だけど僕が物心ついたときにはすでに僕の味方――家族と呼べる存在は広香だけだった。多分広香もそうだったと思う。僕たちは僕たちだけで生きているつもりになっていた。そうして親を敵だと思わないと、僕たちはこの家ではうまく呼吸ができないままだっただろうから。
 何の話か分からない話でいつも喧嘩をする両親だった。そうならないようになるべく二人が顔を合わせずに生活をしようと務めあっているのはわかる。だけど顔を合わせるといつも口論をするのだ。それがどういう理由で起きる喧嘩なのかは僕にも広香にもわからない。だけど、幼いころ、広香と二人身を寄せ合いながらそっと垣間見た表情は未だに忘れられない。父親は苦し気に顔を歪めていて、母親はいつも泣きながら父親に何事かを訴えていた。一緒にいることが辛いというような、苦しいというような、どうして出会ってしまったんだとか、どうしてここまで来てしまって今更、みたいなそんな話だと思う。だけどなぜか離婚しないで二人はまるでお互いを縛るかのようにローンを組んで家を買った。形だけは四人家族の体をなして僕らは共同生活をしている。だけど、僕はどうしてもいつも涙をぼろぼろと流して「どうして喧嘩をするんだろう」と苦しむ広香を見ると、僕はあの二人を家族だとは思えないままでいた。きっとこの先もずっとこうだ。僕と広香はあと三年もすればきっとあの二人を置いて家を出るだろう。そうしたら二人も子育ての役目を終えて離婚するに違いない。最初から壊れている家族だ。離散することになったとしても、それはもう「運命だった」としか言いようがない。
 「ただいま」も言わずに玄関の扉を開ける。広香の靴はない。多分友達と遊びに行ったのだろう。広香は女の子の友達が多く、結構放課後はショッピングモールのフードコートとかでずっと友達と喋っていたりカラオケに行ったりすることが多い。今日も多分六時くらいまでは帰らないだろう。部屋に広香がいないのなら僕は夜ご飯でも作っていよう。そう予定を立てて僕はスクールバッグを部屋においてからリビングの隣にあるキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、トマトと鶏肉が大量に入っていた。トマト煮込みが食べたいんだろうな、となんとなく察知する。あの先輩には言わなかったが母親も父親も休みや労働時間が不定で、ご飯を作れることが中々ない。それに普段悪口を言っている僕らがのうのうと家事をしてもらうことに甘えて「子供」の体をなしているのはなんとなく気に食わなかった。お金とかそういうことについては僕らは確かにどうしようもないところがある。でも生活については少しでも自立したい。だから僕らは、家族としては生活していないけれど、親の分まで家事をしていることが多い。冷蔵庫の中の食材は母親が買ってきていることが多い。つまり、これは僕と母親との唯一のコミュニケーションの一環だった。多分今日食べたいのはトマト煮込み。そう察知して僕はまあ、望まれたとおりにトマト煮込みを作るべく解凍されている鶏もも肉のパックを出してまな板の上にパックを置いた。その途端、ガチャ、という玄関の鍵が開く音がする。勝手に背筋が伸びた。時刻はまだ五時にもなっていない頃だ。この時間には広香はまだ帰らないし、帰るとしたら僕と一緒のはずだ。そうなるとこの家の扉を開けてこの時間に帰ってくる人間は一人しかいない。

 「…ひろくん、帰ってたんだね」
 「…うん」

 多分、僕の声が父親に似たものだとするならば、広香の声はこの人に似たものだっただろう。鈴みたいな綺麗な声だ。多分、もっといい関係だったなら僕はこの人の声のことだって好きでいただろう。「おかえり」とか「ただいま」とか、そういう会話もないままに僕は一度だけ桃色の眼と視線を合わせて、それから背中を向けて鶏肉のパックのビニールを引き裂く。このまま無視をしてくれたら去ってくれるだろうか。そう思ったけれど、母親は僕の隣に並んでくる。僕よりも身長が小さい母親は、分かっているだろうに「何を作るの?」と問いかけてきた。

 「…トマト煮込み。お母さん、今日は仕事じゃなかったんだね」
 「うん。昔の友達とちょっとお話してたの。トマト煮込みね、お母さんひろくんの作るトマト煮込み好きだからうれしいわ」
 「……」

 何を返したらいいのかわからず、「そう」とだけなんとかして返した。広香がいるときはこの人はこうも饒舌に話しかけてはこない。今日みたいに僕が一人で帰ってきて、たまたまこの人が帰ってきた時はこんな感じだ。多分、二対一だと僕らのほうが「怖い」とこの人には思われているのだろう。お互い何も親とのコミュニケーションについてはどうこう話をしないけれど、僕がこうして話しかけられているように広香も話しかけられているということを僕はなんとなく知っている。

 「…広人」

 ぽつりと呼びかけられた名前に背筋が凍った。堪らず僕は「やめて」と切り返す。ふっと視線を向けた先にいる母親は、大して妙な会話をしたわけでもないのに泣きそうな顔をしていた。ああ、それがむかつくんだとどうして分かってくれないのだろうか。いやわかっている。こういう関係を築き上げたのはこの人自身でもあり、僕ら自身でもある。だけどもう戻れないんだ。どうしようもないんだ。僕たちは、どう足掻いたって家族にはなれない。

 「そうやって僕を呼んでいいのは、姉さんだけだ」

 きゅっと唇を結んだ母親が、今にも桃色の丸い瞳から何かをこぼそうとするのを僕は見た。でもその瞬間を見られそうになくて、僕はまな板にだけ目を向けようと努力する。ぺちゃぺちゃと生音を立てながら鶏肉をまな板の上に並べ始めて切る準備をし始めると、やがて母親が「ごめんなさい」と小さく呟いて僕の隣から離れていった。キッチンと、隣接するリビングからも母親の気配を感じなくなったところで、それまでなんとかして動かしていた手を止める。どうしようもないんだ。同じ言葉をまた脳裏に繰り返して、僕はしばらく包丁を持てずにいた。



 友人に好きな人ができた。
 そういう話を聞かされたのは今からもう一週間は前になる。友人――安藤慶は、二年前の今頃は突っ張っていて完全に心を閉ざし、心を病んでいた。まるで其処にいるのに存在していないような雰囲気を醸し出している男だった。いつも目の前の現在を見ているのではなく、自分でさえも分からない過去を見ているような途方もない闇を抱えている男だった。その安藤慶が、恋をしたというのだから聞いたときは手放しで祝福してやりたいと思ったのだ。やっと普通の高校生らしくなかった男が高校生らしくしてくれる、と友人ながらに思ったのに、それが「男だ」というものだから全く祝福もできそうにない。前々から確かにおかしな奴だとは思っていたし感性のズレもあるようには感じていたが、そこまでとは思ってもみなかった。同性愛というものがこの世に存在していることは勿論知ってはいたし、人間の性嗜好が必ずしも性別と一致するとは限らないということも理解は出来ている。だが、隣にいる友人がこれ以上修羅の道を歩むことになると誰が想定しただろうか。
 何度か「考え直せ」と諭した。生徒名簿を調べたところ、友人の心を射止めてしまった哀れな男には一年一組に双子の姉がいるらしい。どう考えてもそっちと先に出会っていればそっちに一目ぼれをしていたはずだった。せめてそうあるべきだった。何故そっちに行ってしまったのか。全く皆目見当もつかない。もしあの時、その場にいることができたならば、俺はあいつの目を殴ってでも覚まさせようとしただろう。分からない。もしかすると俺に単純に同性愛に対する寛容さが足りないのかもしれない。

 「武智君は結構安藤君のこと子供か何かだと思ってるもんね」
 「馬鹿言うな。あんなにデカい子供がいてたまるか」

 もはや隣人の奇行については面白半分で見ることにしたというか、諦めを持つことにしたらしい緑疾蒼空が、五日たってなお「考え直せ」という言葉を呪詛のように吐く俺をとうとう「安藤慶の保護者」認定した。口では否定したが、確かに半分は保護者めいた心情はある。二年。たった二年しかまだあの男とは関わりだしてはいなかったが、相当に不安定な心を持っている男だということを俺はこの二年で理解している。その男が、これ以上道を踏み外すというか、修羅の道に行こうとするところを黙って見てはいたくなかった。なるほど、確かにこれは保護者の心情と一致するのかもしれない。

 「保護者っていうか、武智は真面目ってだけな気がするけどね。オレ別にどうでもいいよ、安藤って元から変な奴だし。正直見てて面白いからオレはあのまま拗らせてていい」

 俺の席の前――教卓前一番前の席に陣取りスケッチブックに何か得体のしれないもの(正直あまり目にはしたくない)を描く久条凪が半笑いであの男の評価を下す。緑疾は「いやーでもアレはちょっとやばいっしょ。絶対なんか脳に腫瘍とかあるって。病院に連れてくべき」と久条の言葉を否定するが、久条凪が人間関係については非常にドライな男だということはこの場にいる俺も緑疾もよく理解していた。

 「でもぶっちゃけ思う話さ、あいつ絶対姉と間違えたよね。一目惚れの相手。麻生広香女史のほうが間違いなく麻生広人君とやらよりはよっぽど可愛げがある顔してるし、オレなら絶対そっちに行くね。まあ瑞崎女史とタメを張れる程度にぺったんこのおっぱいがなんとも哀愁を漂わせているけど」
 「久条君ストップ。それ以上言ったら多分【彼女】が来る。広香ちゃんねー…あの子はでも結構…」
 「…何かあったのか?」

 そういえば緑疾は麻生広人と知人のような態度を取っていた。「あー」と緑疾が話をはじめようとしたところで、教室の扉が開いて噂の種がやって来た。「あれ?」と緑疾は首を傾げた。四時半。アトリエに麻生広人に会いに行っていたにしてはずいぶんとおかしい時間に帰ってきた。当の安藤慶の顔は少し憂いげだ。

 「…何かしたか?」
 「いや、なんで僕が何かしたこと前提なわけ?」
 「もうそれは信頼の問題でしょ。男を好きになったとかって宣ってる時点で、安藤君の信用はわりと地に堕ちてるよ」

 緑疾の言葉に「ひど、」と小さく呟きながら、慶が俺の右隣の席に座る。腰を下ろしてため息を吐いたところで、「さっきひろくんのお姉さんに初めて会った」と慶が話を切り出した。呼び方が地味に変わっている。緑疾は「ああ、ご愁傷さま」と事情を分かっているかのように苦笑いした。

 「蒼空、もしかしてアレ知ってたの?」
 「まあ小学校くらいから知ってるから」
 「え、何?何の話?」

 スケッチブックを睨んでいた久条が顔を上げて緑疾を見ると、緑疾は一言「共依存だよ」という単語を吐いた。共依存、という言葉に慶が「なるほどアレってやっぱりそうなんだ」と得心がいったように呟く。具体的な意味が分からない俺と久条が緑疾を眺め続けると、応えてくれるらしい緑疾が話を続けた。

 「麻生さんちと俺の父さんって中学時代からの友人でさ、昔は結構仲良かったんだけどここ十五年くらいは疎遠ぎみなんだよね」
 「え、ここ十五年ってそれギリ件の麻生広人君が生まれるか生まれないかじゃん。緑疾弟とか同学年なわけだし、普通疎遠になるどころか距離近くならない?」
 「やー…俺も不思議なんだけどさ、なんか麻生さん夫婦急に仲悪くなったらしいっつーか…その時俺も二歳児とかだしよく知らないから今の状態しか知らないんだけど、なんか父さんいわくおじさんのほうがちょっと突っぱねるようになりだしたとかなんとか。〜〜〜っよく知らないんだけど、とにかく麻生さんちは双子たちが生まれた時にはすでにおかしかったらしいよ」

 「本当によく知らないんだけど」と緑疾がぽつりと念を押した。あまりにも困ったような顔をして言うので、本当に具体的な事情はわかっていないのだろう。慶が「それでなんで蒼空パパとひろくんパパは疎遠になったの?」と話を突っ込む。緑疾は「さあ、うちの父さんは色々後先のことを考えて色々助言しようとしてるんだけど、あっちがなんか頑なだからとしか」と首をすくめた。あまりにも漠然としすぎていて情報がくみ取れそうにもないが、どうやら緑疾の親は麻生の親を気にかけていたが駄目だった、ということは確かだ。緑疾が組んでいた足の左右を入れ替えながらため息を吐く。

「まあとにかく、あの家はずっと喧嘩が多いし冷戦状態になることも多かったらしくてさ、あの双子は基本的に人間不信なんだよ。特に姉がひどいね。うちの愚弟が小中一緒だったから知ってる話なんだけど、姉がとにかく弟に依存ぎみだから、弟は全然友達とかいる空気なくて。質悪いのは弟の麻生君もそれをよしとしちゃってるところなんだよね。ホントあれ、やばいよ。控えめに言って」
「うん。僕もさっきお姉さんに初めてお会いしたわけだけど、呼び方まで制限されたよ。広人君、は駄目なんだってさ。お姉さんしか呼んだら駄目らしいよ」
 「マジそれ近親相姦じゃん…」

 久条の空気を読まない発言をよそに慶が「アレは確かに相当だね」とため息を吐く。事情は半分もお そらく理解できなかったが、なんとなく麻生広人という人間の人となりが見えた気がする。初対面のあの他人を検分する鋭い目つきや、人を寄せ着けたくない寄らないでほしいと拒絶する態度を思い出した。あれを俺は少し昔によく見かけていた。あれは。

 「…お前にそっくりだな」
 「え、嘘?」
 「ああ。高校一年四月から五月時点のお前によく似ている」
 「あー懐かしの安藤君黒歴史時代」
 「まあ誰しも若気の至りというものはあるけどあれは確かにやばかったね。オレ公園でお前がリストカットしてるの武智と緑疾の三人で見た時マジこいつクソメンヘラだなって思った」
 「やめて。やめてほんとそれやめて」
 「だが、まだ切っているんだろう」

 頭を抱え悶えるように机に顔をうずめた慶にそう問いかけたとたん、柔らかかった空気が凍るのを感じた。久条ですらぴたりとスケッチブックに走らせていたシャープペンシルの手を止めている。小さく「うん」と頷いた慶は、ゆるやかに顔を隠していた左腕を持ち上げ、やりにくいだろうに手の甲をわずかに裏返した。制服の袖口から見えた手首の裏側に、何本かの傷を確認する。傷の新しい古いとか、そういう話は知らないが、確かについ最近も切っていたことが如実にわかる線だった。
 出会った時からこの男は、自分でも意味が分からないままに手首を切っている。爪を噛むとか、皮膚を剥くとか、そういう手癖と同じ要領で手首を切ってしまうことがあるのだと、以前ぽつりと漏らしていた。だが俺にはそんな単純な理由には思えなかったし、おそらく慶もそれが本当の理由だとは思ってはいないだろう。だが、どうしても、分からないのだという。高校一年の五月、学園のそばにある広い公園の隅のベンチで赤い血を流して震えていた姿を思い出す。血が苦手なのだ、ということは明らかにその表情が物語っていた。なのにその男は手首を切っていた。そして今も、それは続いているのだという。

 「あ、でも最近はやってない。なんかね、なんかひろくんといると、切りそうになるんだけど切らないんだよね。なんでかな」
 「クソメンヘラなのがばれないようにとかじゃない?」
 「ホント凪って僕に失礼だね。病んでるのは凪もじゃん棚上げしないでくれる?」
 「まあまあまあまあ…いやでもうん、切らないのはいいことだよ。ホモになるのかな安藤君ーって思ってたけど、ちょっとはいいことあったみたいでよかった。ね、武智君」
 「ああ」

 うまくまとめてくれた緑疾に感謝しながらうなずいたところで、尻ポケットに突っ込んでいた携帯電話のバイブが振動する。おおかたつい先日に知り合った女からだ、とすぐに推測ができた。一言断って携帯電話を開くとやはりそうだったらしく、件名が「会いたいです」の一言から始まっていた。返信を考えているところで俺の顔を見て何か察したらしい久条が、「メンヘラに好かれている男」とぼそりと吐いた。確かに「あれ」は心を病んでいるが、一概に「メンヘラ」という言葉で一蹴されると返答に困りかねる。…もう良い、とりあえずもう行く、と立ち上がると慶が「武智の春も僕の春もちょっと曇り空ぎみだけど、まあ頑張ろうか」と意味の分からない励ましの声をかけてきた。あれは確かに女ではあるし、その女と頻繁に二人で会っていることは事実だが、春かと言われるとそういう気はしない。しかし否定をしてもどうにもならないところがある。何せ目の前の男の頭にこそ正真正銘の春が来ているのだ。花畑の脳では俺の中の道理も通じないということを俺はんとなく理解している。適当に返事をして教室を出る。「今どこだ」と携帯電話を開いてメールを返すと、漢字変換を面倒がる癖がまた働いたらしい、相手は「こうえん」と平仮名ですぐにメールを返してきた。

 「保護者」という評価を得ることは、高校時代に限った話ではない。中学時代も「保護者みたい」とか「お父さんみたい」とか、そういう言葉を言われることは往々にしてあった。多分自分は関わる人間の世話を焼きたいと思う人間だったのだろう。単純な言葉で言うならば、「優しい人間になりたかった」というのがあるのかもしれない。俺を育ててくれた人間たちは、みな優しい人たちだった。俺はその優しさを返したかった。
 だがこの世にはその優しさだけでは救えない人間もいるのかもしれない――と、悟るようになったのは春日井にいなと出会ってからだった。わざわざ二駅も路面電車を乗って白崎公園まで来たのだろう、春日井にいながベンチで膝をきちんとそろえ、背筋をぴんと伸ばして座りながら読書をしているのを見止めた時、俺はここまで来たことを後悔した。メールが来た段階でおそらく彼女はすでにここに居たのだ。そして俺が「会いたい」という言葉に答えてやってくることをすでに分かっていた。彼女は信じている。俺が自分のその先の予定を投げ出して、彼女のところにやってくるということを、信じていつも「会いたい」と唐突にメールを送るのだ。
 「春日井」と呼びかけると、活字に視線を落としていた春日井がまるい瞳をぱっと見開いて、それから「隆博さん」とふうわり笑んだ。柔らかい視線を感じながらベンチに腰を下ろすと、「来てくださって嬉しい」と上品な言葉づかいで俺が来たことを喜ぶ。本を閉じた動作をした春日井の手元を覗き込むと、読めない字が紺色の表紙の上に金字で踊っているのが見えた。読めないが何の本かは本人から以前に聞いている。ギリシア神話をご存知?と突拍子もなく聞かれたときのことを思い出す。文学はあまり好きではない。どちらかといえば数字とかのほうが好きだったし、どうしてもと言われると選択するのは日本文学か普通に新書の類であって物語ではない。ギリシャ神話は多分、俺はこの女に話をされるまでは全く関わることなく終わっていたジャンルだ。いや、今もほぼ関わっていないに等しいだろう。正直に言ってこの女の語る神話の話に俺は一分たりとも興味がもてそうになかった。それなのにそういう俺の興味のなさとか、そういうことを一つも理解していないのか定かではないが、夢中になってこの女は同じ話をするのだ。まるで何かに取り憑かれているかのように。おそらく五日だ。ちょうど五日はこの女とこうして会って話をしている。だが見えないのだ。この女の人となりというものがまったく。俺は春日井にいなの人となりを全く知らずにかれこれ春日井にいなと話をしているし、春日井にいなも同様に俺についての話を全く聞いてはこない。それなのにこの女は俺を求めて手を伸ばしてくるのだ。流石にここまで来ると気が付くものがあった。この女は、俺ではない誰かを見ているのだと。

 「…隆博さんは、私のアポロンになってくれるのかしら」

 ぼそりと吐かれたそれは疑問形で、やたらと不安げだった。なれるわけがない、という言葉を飲み込んで黙って耳を傾ける。春日井は空を見上げながら、「ね」と何かを肯定してくれと言わんばかりに言葉を強調する。知っている。別に俺に向かって話しかけているわけではないのだ。ただ誰か聞いてくれるサンドバックのようなものがあればそれでいいのだと思う。だが人形ではだめなのだろう。あくまでも耳のついた「誰か」に分かってほしいのだ、彼女は。俺が何も応えられていないのに現に彼女は話を続ける。ダフネ。アポロン。月桂樹。そして決まって彼女は最後に「知ってますか」とこれだけは俺に回答を求めてくるのだ。

 「お空には、神様がいる天国があるんですよ」

 それを信じている人間にあるわけがないとかいるわけがないとかそんな野暮なことは言えず、俺はいつも通り「そうか」とだけ返した。俺の眼を覗こうとしていた春日井が、また空を見上げて「かみさま」と小さくつぶやく。それ以上の話はなかった。

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