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レールはいつしか途切れていた。遠くで波のさざめく音が聞こえる。けれど、波はなくそこには見慣れた通学路の公園があった。坂道に沿って作られた公園にはいつもいるはずの犬を散歩させている老人も学生も、親子も誰もいない。何が咲いているということもなく草木だけが生えるいやに殺風景な公園は、何故かいつもより広々と感じた。多分、目の前にあるはずの建物がないからだろう。校舎も学生寮もコンビニも、めぼしい建物を失った坂の空洞を青空が埋めていた。空っぽだ。けれど、その坂の頂上には僕が会うべきだった白い学ランを着込んだ男がいる。
どう言葉を切り出したらいいのかは分からなかった。何を言われるのかわかったものじゃない。この期に及んで拒絶されてしまったらどうしたらいいだろう。言いたいことなら沢山あった。時間があったなら今までの道先のことを話していたし、明日からの夏休みの計画も立てたかった。けれど、初めの言葉が出てこない。そうこうしている間に遠くの影があっちへ行ってしまったらどうしよう。僕は追いかけられるだろうか。迷って、やがて僕は名前を呼ぶしかないと思って息を吸った。けれど、先に切り出してくれたのは先輩の惚けたような声だった。
「…驚いた。ひろくん、随分なことをするね。教室前で僕を張りこんだり、殴りかかったり、かと思ったら、僕を追ってきたんだね。あんな風に突き放した僕を。そんなに好かれていたなんてこれはもう結婚するしかないんじゃないかな」
「…ここまで追わせて馬鹿な冗談はやめてくれませんか。帰りますよ」
「はは、でもキミが僕を好きだってことは分かってたよ。僕だってそうだ。だから僕も此処にいるんだよ」
あの望んでいた柔らかな口調で、先輩が坂道を降りてくる。僕はそっちに歩み寄ると、ちょうど向かい合わせに立つことになった。なんだか坂道でバランスが悪い。降りようと僕は振り返ろうとしたけれど、先輩が僕の肩を制した。何となく、わかっている。あっちにはもう坂がないのだ。それでも僕は何故か冷静だった。
本当はもう気づいているからかもしれない。
僕達はみんなで誰かの見ている夢の世界にいるんだと。
「先輩、僕の話を聞いてください」
「…うん」
「僕の家は物心着いた時から両親が不仲で、家族での会話というものがありませんでした。両親は顔を合わせれば喧嘩をする。そういう家庭の中で、双子の姉だけが僕の全てでした。姉が傷つくことには僕も傷つく。姉が許せないことは、僕も許せない。だから、僕にとって僕とは姉、麻生広香そのものでした。だから姉が許せないことを、姉が傷つくようなことを、姉から離れてしまうことを、僕はしたくなかった。麻生広香から離れてしまう自分のことが、何よりも怖くてしょうがなかった」
「…うん」
「それに僕は賢くない。元が馬鹿なんです。でも馬鹿なりに賢くなろうとしたんです。馬鹿じゃない振りをしてきました。…僕達が、僕がおかしいってことくらい誰に言われずとも分かってました。でもそれを分からない振りをすることこそ、あの時は賢さであり、正しさだって、信じるしかなかった。あなたに会うまでは、」
真っ暗な世界で、ずっと隣にある体温だけに縋りついていた。それに縋っていればなにも恐れることはないと思っていたし、何よりそれが心地よかった。そう信じていたかった。その先のことなんて何一つ考えたくはなかった。将来のこと。姉と僕という別個の人間のこれからのこと。見たくはなかったし、分かりたくもなかった。だって間違って少しでも手を離したら、僕はその暗闇で迷子になってしまうかもしれない。その手を時折に握り直せる自信がなかった。同じ不安を抱えている姉と、僕が前を歩くための道標が、二人だけの狭い部屋の中には何処にもなかった。
大袈裟な表現だということはわかっている。それでも、あの時差し込んだ光が、あなたの手が、僕を照らしてくれた。照らしてくれたから、僕は隣にいる広香の姿を見失わずとも行きたいところへ行けた。
「先輩との出会いが、あれで良かった。だから先輩に否定されると、堪らないんです。僕を否定しないでくれませんか」
「……」
「先輩はそうじゃなかったんですか?もしそうなら僕に嘘を吐いた最低野郎として、僕は一生先輩のことはそうして心に刻みますけど」
「…いや、そんなことは、なかったよ。でも」
「まだ何かを気にしているんですね」
「……」
「先輩、僕あれから考えたんです。どうしたら先輩を救えるだろうって。悪口と暴言の境で何度か真剣に考えました」
僕はきっと最後まで先輩の考えていることは分からない。賢い人間の考える賢いことを馬鹿の僕が理解できる話ではないだろう。多分詳しく聞かされても首を傾げてしまうし、共感もきっと出来ない。僕は先輩がどうして手首を切っているのかだって最初から最後まで知らなかったし分かってはあげられなかった。それでも、僕にだって出来ることがないわけじゃない。
「正しいことなんて何処にもないそうです。先輩が言っていました」
「…うん、言った、と思う」
「言いました。今僕と話している先輩が、同じ目をして言ったんです」
「……」
「正しいことなんて何処にもない。でも、誰かが信じればそれは誰かの正しさになりますよね?」
「…うん」
「先輩、僕は先輩を正しいと思いました。正しさなんてないって、自分の正しささえ疑うあなたを」
「……」
「先輩が先輩を信じられないのだとしても、僕が先輩を信じています。それじゃあ、ダメですか」
ぼろりと、湖から雫が伝って落ちて地面に溶けた。
ぼろぼろと雨粒みたいに瞳の色と同じ色をした感情を落とす先輩は、やっぱり迷子の子供のようで、それでも相変わらず僕より図体が大きかった。ああでも図体が大きくてもやっぱり先輩だって普通に歳が少ししか違わない普通の高校生なんだろう。僕だってまだ泣いてしまうんだ。二歳離れたらもう泣かない、なんてそんなことはない。ぼとぼとと涙を落とす先輩が手の甲で雫を拭いながら、「ねぇ、ひろとくん」と大人ぶったただの少年の声で僕を呼んだ。
「僕は、誰?」
「…先輩は、先輩です。安藤慶。僕をここまで連れてきてくれた人」
「どれが、僕の本当のことなの?何が僕の中での正しいことなの?」
「それは僕にも分かりません。でも、僕が聞いた先輩の言葉はすべて僕にとっては本当のことでした。先輩にとってもきっとそうだと思います。先輩が信じたいことこそ、先輩にとっての本当のことですよ」
「間違っているって言われたら?」
「先輩なら、間違いの中にでも正しさを導けますよ。そういう人ですよ、少なくとも僕にとっては」
「どうして、キミは此処にいるの?なんで僕をこんなにも」
「賢い先輩に教えてあげます。最後に勝つのはその『馬鹿』だから」
「……」
「どうですか、敗北者の気分は」
「…そうだね、案外、悪くなかったな」
涙混じりに先輩が口を開けて笑う。王子様を気取ったお綺麗な顔をくしゃりと歪めて普通の男子高校生と違わぬくしゃりとした笑みだった。ああ、安藤先輩だ。とどうしてか僕だって泣きそうになる。まだしたい話があったな、と思ったけれど、多分それは叶いそうもなかった。だって遠くの亀裂の音がもうここまで来ている。世界が終わる。此処にいる僕らが歩んできたすべてが消え失せる。
「どっかでね、僕は一人で歩いている気になってたみたいだ。武智に随分昔に怒られてたんだけどな、つい格好つけてたみたいだ。ねぇ、分からなくてもいいよ。分からなくていいから、聞くだけ聞いてくれるかな」
「なんのために僕がここまで来たと思います?」
「はは、キレ気味だね」
「当たり前です。どんだけ煮え湯を飲まされてきたと思ってるんですか」
「ごめん、機会があったら今度キミの言うことを叶えられる範囲で聞くよ」
冗談っぽく笑っていた先輩が、遠くにあったはずの海へ視線を向ける。ないはずなのにさざ波の音が意識すれば聞こえるような気がした。
「…信じられないだろうけど、記憶が欠けてるんだ。よっぽどショックだったんだと思う。だけど、おかしなことに僕はそれがいつの記憶なのか、何処の記憶なのかも分からない。だけど、ずっと遠い昔に、何かを確かに失った」
「……」
「そのせいか、人を信じることができなかった。何を失ったかさえもわからない自分なんて信じられなかったから、当然誰かを信じるなんてこともできなかった。
そもそも周りの人たちが見る僕は、『慶』じゃなくて、常に『安藤』だったから、それが余計に僕を駄目にさせた。僕を見てくれない周りの人に、僕はそれが余計に怖くなった。…僕は実はさ、安藤家の分家筋のほうなんだ。本家が疾風君で、僕は疾風君よりも、本家よりも早く生まれてしまった。それで自分で言うのもあれだけど、出来がそれなりによくてさ、焦った本家の伯父さん…疾風君の父親は、僕の飲み物に毒を点した。…フランスに行ったのは、逃げるためだったんだ。日本に帰れたのは、その伯父が病死したから。繰り上がりで当主になった父親は僕を次期当主に任命した。…理事長子息って言うのはさ、そういう黒い過去から成った皮肉なんだよ。だからきゃあきゃあ女の子たちから持て囃されても鬱陶しいだけだった。疾風君も義理の弟になったのと前のゴタゴタも相まって余計に距離が遠くなっちゃってさ。だからもう、なんか僕の人生は色々もう駄目なんだって、生徒会室に入るまではそう思ってた」
安藤先輩が遠い目をしながらちょっとだけ笑った。昔のことを回想しているのだろう。僕の知らない昔の話だ。それから、僕をもう一度見て、「武智だよ、」と続けた。さっきまで淡々と語るだけだった薄暗い表情が、武智先輩という名前一言でふっと緩んだ。
「昔からあいつは正義感の強い奴でさ、僕みたいに嫌々生徒会に入らされた奴なんて気に食わなかったんだよ。ほっとけない、とも言われたなぁ。あまり詳しく聞いてないからあれなんだけどさ、自分の好きな子に似てたんだって、だからなんとかしたかったんだって。それからあいつ言うんだよ僕だって周りを見ていないじゃないかって。それなら僕がなにも信じられないのは当然だよね。何も見えていないんだから、信じられないのは当たり前だって。だからまず俺たちを見ろって、あいつそう言ったんだ。武智達がね、僕の初めての友人になってくれた。
…でも、僕はそれまでだった。このままじゃ駄目だって気づくことは出来たけれど、そこから動くことは出来なかった。結局僕は狭い場所で、結局何も信じられずに、何を失ったのかも分からないから何をどうしたらいいのかも分からずにいたんだ。僕は前を見ることが出来なかった。傷つくことも、傷つけることも怖くて、僕は何も出来なかった。当たり前にそこにあった自分を、壊すことはいつだって恐ろしい。これからもきっとそうだ。でもね、」
「キミと出会った瞬間ね、何かが突然開けたんだよ。似たもの同士のキミとなら、僕は世界を変えられると思った」
「…買い被りすぎですよ。突っ立ってただけですよ、僕」
「そうだね、僕も気狂いと思われてもしょうがなかったと思う。でも、今はそれでもよかったって思ってるよ。たとえ誰に間違いと言われようと、僕はキミに会えてよかった。キミが僕の世界を変えたんだ」
なんだか照れくさくて、僕はやめてください、とやめてほしくはないのに頭を掻きながら誤魔化す。遠くの空が白んでいる。まるで雪でも降るみたいだ。でも曇り空とは違って濁りがなく、どこまでもそこは澄んでいる。同じように先輩も空を見ていた。「結局さ、ここでは僕は何も解決させられなかったけど」なんて自嘲しながらも上を見る姿はどこまでもサマになっている。けれど別に気取っているわけでもない。そういう自然体で格好ついた男だったのだ。僕の先輩は。
そんな風に心の内で賛美されているなんて微塵も知らない男は、やがて僕を見て、手のひらをこちらに向けて伸ばした。袖の奥に傷のある手首もちらりと覗く。それでも、はじめに僕が掴んだあの手と違わない、しなやかな割に力強い手だ。先輩は恥ずかしそうに頬を掻く。そうされると、求められていることが何かをわかっているのに僕もなんだか気恥ずかしかった。
「もし、また会えたらさ、その時もまた一緒に行けるかな」
「…まあ、暇なら付き合ってやりますよ」
「どこまでも素直じゃないけど、キミらしくて頼もしいな」
伸ばされた手を握り返す。屈託なく笑った先輩が、やがてふっとあの大人びたような、悟ったような表情になる。静かな湖が、「じゃあ」と目尻を下げて僕の手を離した。時間切れだ、と僕は悟った。そうだ。僕にはまだ、行かなきゃいけないところがあるのだ。僕は体温の冷めていく手を握りしめて、先輩に背を向ける。夏休みがある明日は訪れない。もしかしたら夏休み云々以前に明日すら何もないかもしれない。それでも、僕はさよならは言わなかった。たった二文字だけを最後に叫ぶ。きっと聞こえていたはずだ。だって、僕もかすかな呟きを背で聞いてしまったのだ。まったく、どこまで買い被ったら気が済むというのだろうか。
「…さよなら、僕の世界を広げた人」
都忘れ
また会いましょう
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