新訳:Reflection


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七月も今日で三分の一を過ぎる。
平日の夜と休日が俺が自由に出来る時間だ。平日はともかく、休日を昼から過ごせるのはそこらの学生ときっと変わらない。今頃親父と母親はドライブにでも出かけていることだろう。俺が生まれるより前からずっと早いうちから付き合ってて結婚もしたとは聞いているけど、それにしてもまあ、お熱いことだ。「太郎もおいでよ」と母さんは言うけど、誰が好き好んで後部座席からイチャついている両親の横顔を見たいと思うだろう。第三者のこっちが胸焼けしそうなほどに仲のいい両親、有難いけれどおかげで息子はこうして気を使わないといけないから大変だ。ま、いいんだけど。
隣町の運河跡をふらつきながら煙草を蒸かす。国営電車の線路が敷かれているここら一帯には昔は運河が敷かれていたらしい。ガス灯も灯る石造りの橋があったりとかなりいい感じの写真を昔資料館で見た事がある。もし残っていたら今も硝子工芸で有名ではあるけど、もっと観光地としてよりアピールできたことだろう。随分もったいない都市開発をしたものだ。まあ、観光地として発展していたら今頃俺はこんな道の往来で煙草なんて吸えてはいないんだろうけど(そもそも未成年が喫煙をすること自体が悪いとは言ってはいけない)。
さて、行く宛てもなくなんとなく電車を乗り継いできてしまったわけだが、ここからどうしたものだろう。携帯灰皿に吸い殻を潰し仕舞いこんで降りた駅に目を向ける。正直別に来たくてこんなところに来たわけではなかった。でもいつも家にいるかハルカに会うか円歌にちょっかいかけるかくらいしかないのだ。つるんでいる奴がいないこともないけど、あいつらに会うとすぐ酒だクラブだカラオケだと、そっちはそっちで同じルーチンが待っているもんだからやってられない。ま、ド田舎に生まれた人間の宿命なんだろうけど。たまには違うことがしたい。
なんか面白いことあるといいんだけど。そう独りごちて駅方面の坂道を登る。白崎もそうだけどなんでこの辺一体の街並みは坂道が多いのだろう。政令指定都市になっているこの市のさらに隣の市はそうでもないらしいけど、この辺は海が近い街だからかやたらと高台や坂が多くてほっつき歩くにも夏場はストレスだ。まあ嫌いじゃないんだけど、おかげで隣町まで繰り出したっていうのに景色の代わり映えがあまりしなくていけない。薄手のパーカーの袖で汗を拭いながらなんとなく行ったことのなさそうな方面に向かって歩く。【図書館】の看板が見えたところで、少し俺は足を止めた。

本は母親がよく読む。父親も読まないことはないが基本読書を好むのはうちは親父よりは母親で、書斎にある本の六割七割は母親が趣味で読んだものだ。多分、読書をすることで現実から逃げようとしているところもあるんだと思う。鬱だと知った時から、俺はなんとなくそんなふうに親を考察するようになっていた。
遊楽円歌の親もそんな感じだった。あいつの母親もやたらと本の虫で、若い頃は司書教諭だったらしい。あいつはそんな母親に憧れていてよく読書をしていた。…まあ俺は本は正直あんまり好きじゃなかったんだけど、あいつが推す本はしょうがなく読んでいたし、多分人並以上には読んだだろう。この市立図書館にも何度か足を運んだ。せっかく二人きりでここまで来てるっていうのに、あいつは図書館に行きたがって俺の隣に座ってずっと無言で本を読み耽るんだ。まったく男女がせっかく二人きりだっていうのに色気の一つもないことをする。でも、俺はいつもはバカみたいにあどけない笑みで見上げてくるそいつが、真剣な眼差しになって本を読む横顔が、賢そうにすっとした鼻筋を眺めることがすごく好きだったから許せてた。たまに目が合って俺を小突くんだ。本読みなよって。俺は本に興味なんてないのにさ、あいつは何処までも分かっていない。…最後にここに来たのはいったいいつだっただろう。ってか、何いきなり俺も感傷に浸っちゃってんだろう。
我ながらバカみたいな浸り方をしてしまったことに気づいて俺はアイボリーの建物に背を向ける。視線が回ったその時だ。視界の隅に座り込んでいる子供のシルエットが見えた。それだけだったら多分気にはしなかっただろう。俺は思わず目を留めてしまった。

「あ」

なんか、不味いものを見た気になった。氷みたいに澄んだ水色の髪の毛がゆらりと揺れて、同じ色をした丸い目と目が合って俺と同じ母音だけを呟く。まん丸の目尻からぽろぽろと大粒の涙が零れている彼女は、今は夏だっていうのに寒空の下半袖で放り出された子供みたいに図書館前の道路で震え上がっていた。…俺はこの子を知っている。冬月雪の妹。そんなことは外見をぱっと見るだけでわかる。だけどそうじゃない、それだけじゃなかった。でも、この子が「そう」だと分かっていたから、俺はどうしても、近寄るしかなかった。

「…お前どうしたの、お姉ちゃんはどうした?」

出来るだけ懐かれないように冷たく尋ねると、しゃくりあげながら少女が首を振る。もう中学2年生くらいになるはずだったじゃないだろうか。まるで小学校四年生みたいな幼さの残る声で「お姉ちゃんいない」とたどたどしく教えてくれる。…いや、知らない人にそんな軽々しく自分の情報を言うなよ。というか、俺が誰かとかわからないだろうに「姉」を指定したことを疑問に思わないのだろうか。呆れかえりそうにもなったけれど、でも、なんとなく「らしい」と思った。俺はこの子を知っている。この子は良くも悪くも真っ直ぐだった。

「なんで泣いてんの。なんか悲しい本でも読んだ?」
「…こわいの」
「怖い?」
「車、が。大きな車が今日はたくさん、通るから」

ああ、やっぱりそうだ。この子は可愛い可愛い、「俺の」妹だ。俺といっても本当の俺とは違う、違う世界の俺の妹。雪みたいな色をした兄妹にしては似ても似つかない髪色をした妹。ひねたところのないまっすぐだった妹。そんな妹を、「佐藤太郎」は五年前の雪の日に交通事故で亡くしている。

この感情は俺のものじゃない。分かっていたけれど、それでもなおこみあげてくる熱を飲み込んで「そっか」と俺は返した。彼女は「お姉ちゃんね、友達と一緒にいるの」と聞かれてもないことをぺらぺらと喋る。大方、円歌だろう。冬月雪と幼なじみは委員会が同じ図書委員だから、その関係でよくつるんでいる。俺は幼なじみが少なからず月見織葉のトラック事故にダメージを受けていることを知っていた。多分、あの後輩はそんな俺の幼なじみを慰めに行ったのだ。今頃俺の悪口でも言って盛り上がっているに違いない。悪いのは数日前に隣町でトラック強盗を働いた暴漢だってのに、まったくとんだ風評被害だ。…さすがになんの罪悪感も感じない、なんてことはないけど。

「…分かった。じゃあ、俺がお前のお姉ちゃんのところに連れてくよ。近くに人がいたらお前もさすがに安心するだろ?」
「…いいの?」
「泣いてる女放ってどっかに行くような薄情じゃないよ俺は。まあ、お前が俺を不審者扱いするなら、それも妥当だとは思うけどね」

何せ未成年の分際で煙草を吸うし、校内でセックスするような男だし。とはさすがに言わずに牽制する。けれど俺の危機感を持たせたいがための発言は「そんなことないよ」とやんわりと否定され、その場に座り込んでいた少女は立ち上がって俺の服の袖を掴んできた。覚えていた通りの白い指先は、記憶のそれとあまり変わらない。相変わらず手の小さい子供だ。俺は見ずに「どこにいるって?」と歩き出す。さすがに中学生が一人でここまでは来ないだろう。そう踏んだ通り、少女は「駅前の…」とファストフード店の名前を口にした。ああ、近い。歩いて十分くらいだ。その程度で済んで良かったと安堵しながら俺は「そ」となるべくそっけなく返す。
歩き出して道路に出たところで、少女の肩が震えたから俺は少女を歩道の奥に追いやった。ほ、と息を吐く声が小さく下から聞こえる。本当に怖いらしい。この世界では車に撥ねられなんてしてないだろうに、それでも「あれ」はトラウマだったのだろう。白い雪の中に広がる赤を、知らないはずなのに俺は「思い出して」しまって少し吐き気がした。夏だっていうのに水分をあまりとってないから、ということにしたい。なのに少女は俺に知らずに踏み込んでくるのだ。そういう女だった。

「お兄ちゃん」
「…おじさんでいいよ」
「嘘。お兄ちゃん、お姉ちゃんとおなじくらいでしょ?」
「さあね。なんでもいいからその呼び方はやめてくれ。お前の兄になった覚えはないんだ」
「優子」
「……」
「私の名前。冬月優子」
「…優子。俺のことは、…なんでもない」

駄目だ。具合が悪くなってきた。俺は頭を振って歩く速度を早める。やっぱり話しかけるんじゃなかった。せめて見つけるべきじゃなかった。俺はどうしても出会いたくはなかった。生きているとわかりきっていた死んだ妹のことなんて誰が見たいと思っただろう。俺は「俺」のことは分からないけど、でもどうしようもなく、この「妹」のことだけはどうしようもなく分かってしまうから、余計に。そして俺の苦しみなんて知らずにこの少女はぺらぺらと喋るのだ。きっと自分がどうして知らない男にここまで懐いてしまっているのか、多分それは当の本人も知らないに違いない。まるで離れていた時を埋めるかのように饒舌に少女は学校でやっていることだとか苦手な勉強だとか、姉のことだとかを話し出す。短い距離だっていうのに余程道のりが恐ろしいのか、少女の足取りはひどく遅かった。かといって手を引きたくはなかった。これ以上一緒にいたくもなかったけど。

「私ね、お姉ちゃんが今一緒に話してるお友達はあんまり好きじゃないの。いい人だし、優しいんだけどね。でもお姉ちゃんが楽しそうだから」
「ふーん」
「ねぇ、お兄ちゃんは」
「お前そんなに知らない男にあまりぺらぺらと自分のことを話していいの?」
「だってお兄ちゃん、お名前教えてくれないんだもの。それにもう分かってるよ、お兄ちゃんは優しい人でしょう?」
「…優しくなんてない、退屈だっただけさ。お前、たまたま俺が優しく見えたからって、他の大人にも同じようにするんじゃないよ」
「はぁい」

わかってるのかわかってないのかなんとも言い難い笑顔で少女が俺を見上げる。けど、まあ、冬月雪の妹だ。どっかの誰かの妹をするより余程しっかりしているはずだろう。というかこれ以上、「他人」でしかない俺が「他人」に対してそんなに世話を焼く義理だってない。見慣れたファストフード店の店構えが見えてきたところで、「ほら」と俺は少女の背を後ろから押した。

「俺はここまで。あとはお姉ちゃん達と帰んな」
「お兄ちゃん、来ないの?退屈なんでしょう?」
「…退屈でも、他に行くところくらい俺にだってあるさ」
「そうなんだ…じゃあ、しょうがないね」

存外諦めが早かった。するりと握りしめられていた袖から手を離して、少女が「じゃあ」と店のガラス扉に駆けていく。俺は見送ることもなく背を向けた。「またね」と呼びかけられたけれど、俺は返事なんて出来るわけがなかった。「また」なんてあってたまるか。もうないのだ。それに、そもそも関係がないはずだったのだ。


月見織葉は先日の新聞記事に載っていたトラック強盗に巻き込まれて死んだ。
客観的な死因の事実を述べるときっとそういうことになるんだろう。だけど現実は違う。彼女はどう考えても斎藤遥と俺の関係性に、嫉妬に狂って死んだのだ。ああいうことがなかったらきっと彼女はあんな雨の中に校外に飛び出して不注意のまま轢かれるなんてことはなかった。
罪悪感が無いわけじゃないけど、なんとなくこうなる予想はしていた。ああいう拗らせた恋愛をしている人間は、きっと何処までも何処までも縺れて壊れていくんだと。俺は自分がその一因になると分かっていた。多分、当事者である斎藤遥より、ずっと。まあ、死んだのは正直にいってあまりに不運すぎる。俺は斎藤遥をずっと羨んではいたけど、こうなるといよいよ、本当に哀れなことになったなって、さすがに見ていてこっちだって参った。

死んだその日は眠れなかった。結果として俺は人を死なせたんだ。そこに何かしらを思う感情くらいは俺だってまだ人並みに持ち合わせていた。なんとなく居間で音量を落として見ないくせにテレビを流してソファーに座っていた。どう眠ればいいのか分からなくて、かといって下手な感傷には浸りたくなかった。俺だって斎藤遥みたいに忘れられるものなら忘れられたら良かったし、逃げられるなら逃げたかった。でもそんなに人間ってやつは単純じゃないし、俺はそんなに弱くもなれない。
そこにやってきたのが父親だった。それでも教師のはずなのに「ここにいるのはただの父親だよ」なんて適当を抜かして男は日本酒を持ってきて隣に座ってきた。まだ酒なんて飲み出して半年も経ってないってのに、ハードルの高いものを持ってくる。度数の高い辛口の酒を注ぎながら、男はなんでも知っているというあの教壇で社会科を教えているツラで笑っていた。実際、知っていたのだろう。爛れている、を連呼されたときはさすがに少し死にたかった。でも、この男がしたいのはそんな俺を慰めるだけの話ではなかった。

「ここはね、ただの夢なんだ。俺の幸せな夢だよ。でも目を開けたら何もかもが消えてなくなるんだ」

男は全てをわかっている顔で、悪い夢みたいな話をまるで絵本でも読み聞かせるような優しい声で語った。テレビのバラエティ番組からひびく笑い声がひどく愉快に聞こえて、まるで今のすべてを嘲笑っているようにさえ思えた。

俺の母さんは、天野美沙は二十年前に殺されている。
路地裏で、目を開けたまま血塗れになって倒れていた。それだけじゃない。何回も、何回も殺されているらしい。意味がわからなかった。男の言い分を信じるならば、この世界はループしてるってことになってしまう。そうやって俺は否定したって言うのに男はあっけらかんと「そうだよ」なんて真面目に言うんだ。もうね、笑うしかない。誰が男が溺愛してやまない自分のカミさんが惨たらしく死んでいる姿を、そう朗々と語られて狂気を感じずにいられただろう。誰が聞きたくて、自分の母親の死に様なんてものを聞かされなきゃいけないのか。
この世界は夢。現実、目を覚ました世界に俺の母さんはいない。だから、その母さんの子供である俺は居ない。でも、「佐藤太郎」という親父の血を引いた息子は存在する。幼なじみは遊楽円歌で、円歌との出会い方は俺と同じで、でも、それが正史なのは向こうで、俺の母親は夢というIFがない限りは大人になるより先に死ぬから、間違っているのは、俺で。でも、親父からしたらその正史こそがまちがっていて。なんて、整理すればするほど頭がおかしくなりそうな話だった。けれど、言われてみればなんとなく分からなくもなかった。半分は同じ血を引いているからかもしれない。名前を同じくした「佐藤太郎」であることに変わりがなかったからかもしれない。

親父は自分の愛した女を殺した女と復讐のために結婚した。
愛せるわけがない。そんな相手との子供なんて。いや、そもそも愛する気さえなかったんだろう。俺は「佐藤太郎」の人生を話を聞きながら思い出した。家に帰ってこない父親。自分の罪を表情に出さずに親父を敵に回す母親。そんな母親をどうしようもなく愛している「佐藤太郎」の人生は、第三者の目線から見てひどく歪んでいた。「佐藤太郎」は母親の正体も知らなければ、父親の真意さえひとつも知らない。当然背後に渦巻く陰謀だって知らない。
そして何も知らずに死んだのだ。冬月雪の妹がなぜか自分の妹としてそこにいた理由も、冬月雪が自分を殺した理由も、本当に「しあわせ」なまま死んだのだ。なんて愚かな男だろう。けれど、その愚かで可哀想な男は、ただひとつ俺が愛していたかったものにどうしようもなく望まれている。

運河跡地まで続く地元までの道のりを、線路に沿って歩いていく。ファストフード店からまるで逃げるように、俺は行く宛もないまま帰り道を急いだ。あの別世界の俺の妹にももう顔を合わせたくなかったし、何より、嫌われている理由を知った後にまたのうのうとあの遊楽円歌の顔を見には行けない。

「…いや、嫌われてはいないか」

気持ち悪い。大嫌い。あんたなんて知らない。あんたはちがう。あんたはまるのたろちゃんじゃない。何度となく言われた言葉はいつだって俺を傷つける言葉で、けれどその表情は決して俺を傷つけるような悪意のあるそれではなかったことを思い出す。そのせいで、煙草を吸った時のように口内がやたらと苦くなった。やるせない。どうしようもない。でも、どうかしなくてももし父親の言うそれが虚言ではないのだとしたら、きっとこんな話は俺という存在ごとなかったことになる。親の言うことなんていちいち真に受けてはいられないけど、もし本当にそうだとするなら、近々、何もかもが終わるのだ。

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