▼ 「六月某日」
「先輩のことを思うともう止められないんです」
埃っぽい狭い部屋で、雪のような色をした眼が、同じく雪のような色の髪をだらりと俺の前に下げた。狭い部屋のくせに古びた本が背後に積まれたそこは、テーブルひとつと椅子が二つ、真ん中にぽつりと置かれている。ただ「俺」は、その椅子には座りはしなかった。出来なかった、というのが正しい。扉を塞ぐように目の前に立つ後輩が、じりじりと俺ににじり寄ってくる。胸を押してくる手のせいで、体がテーブルに乗り上げた。荒い息が狭い部屋に響く。「落ち着け」という自分の声?が後輩を押しとどめた。俺にしては随分と、理性のある言い分だった。
「お前と俺は、そんなんじゃない」
「そんなんじゃない、ってなんですか?もしかして、私のことをまだ死んだ妹さんだと思ってる?なんて名前でしたっけ、ああ、そう、優子。でもいいですよ、貴方の趣味にならなんにでも付き合って差し上げましょう」
「違う」
「貴方が好きなんです、 No Name先輩」
「俺はお前のことは可愛い後輩だと思ってる…!」
おいおい随分歪な呼ばれ方をされている。なんだよ、その呼ばれ方。まるでこの名前を嫌う自分みたいだ。いや、「俺」なんだろうけど。でもなんだろう、同じようできっと違うんだ。だって俺は、こんな絞り出すように冷静を取り繕う俺を知らないし、あの後輩がこんな風に俺に詰めかけてくる理由も知らない。あの後輩は、もっと俺のことが嫌いなはずだ。こんな風に俺と二人きりになんて死んでもなろうとはしないだろう。そもそもこの後輩にこんな風に−−嫌われてはいれど殺意を向けられた経験は、無い。
「はじめに妹と見間違えたことは悪かったと思ってる。本当に、似てたんだ。あいつも成長したらきっと雪みたいな背格好になるんだろうって、思い描いてたのとよく似てたから。…でも、お前は違うんだ。お前は冬月雪だよ。一個上の俺のことを少しも敬わない生意気な」
「ちょっと、いきなり貶さないでください」
「うるせぇよ。でも、それでもお前のことは良い後輩だなって思ってる。だけどそれだけなんだ」
「……」
「俺はお前には応えられない。俺は誰かと、恋愛をする気は一つもない」
「そうですか」
「って、だから」
女がよりこちらに詰めかけて俺、いや、男の逃げ場を自分で封じながら、ブラウスを脱ぎ捨ててキャミソール一枚になる。鎖骨がくっきりと見える薄い身体は、本来ならなんの興奮もしないんだろうけれど密室空間においてはやたらと色っぽく見えてしょうがない。男は「やめろって」と言いながらも蹴飛ばすことが出来ないのだろう。そうして視界がやがて真っ暗になった。眼を瞑ったのだ。そして、それがすべての失態だった。
「ねぇ、No Name先輩。貴方の言う通り、私は冬月雪にしかなれませんでした」
「がっ…」
急な鈍い熱に低い呻き声が口から漏れる。なんだ。何が起きた。慌てて目を開けた時には、目の前が赤く染まっていた。女の白いキャミソールも手も、握っているナイフ?…ナイフも赤い。誰の血かなんて言うまでもなかった。殺される。殺されるのだ。なんで、と勝手に口から疑問の声が血と一緒に溢れる。「なんでって、あはは、本当に分からないんですか」と愉快そうに女が声を上げて笑った。はじめて見た心底からの笑みだったくせに、ちっとも楽しそうには見えなかった。
「なんにも知らないまま死んだ方が幸せですよ。けれど、そうですね。貴方の幼なじみには少しばかり同情しますが」
杭を打つように刺してくる女に男は動くことが出来なかった。体温と共に抜けていく力のせいで、本格的に死を悟る。けれど目を閉じることだけはしなかった。それをしたら、本当に終わりのような気がした。まるか。男がぽつりと声にならない声で呟く。恋愛はしない。けれど、最期に男が呟いたのは、俺もよく知っている、分かっている、愛しい女の名前だった。
「……」
遠くから雀の声が聞こえる。身体が熱い。つうっと額から汗が垂れていく。ゆっくりと起き上がり、荒れていた呼吸を整える。それからしっかりと目が開いていることを確認し、あたりを見渡した。
壁にかかったギター。黒塗りの本棚と箪笥。参考書やら教科書が詰まっているであろうどこかから適当に拾ってきた引越し業者の名前がでかでかと書かれたダンボール。何も置いていない机。そして、俺。――ああ、どうやらあれは夢だったらしい。また俺は同じ夢を見ていたようだ。
ベッドから這い出てとりあえず長い前髪をいつもどおり上側に縛る。蜜柑色の珠がついた髪留めは三年位前に母親からもらったものだ。「あなたの前髪はちょっと縛っちゃったほうがいいかもね」なんて笑いながら、長く垂れ流していた俺の髪をこうして縛ってみせた。冗談めかしてやられたスタイルだったのだけどなんとなく気に入ってしまって以来、このヘアスタイルを維持している。
とりあえず壁にかかった時計を確認。――六時半。そろそろ朝飯の時間だ。これ以上うだうだしていたらおそらく父親が俺のところに起こしにくるだろう。以前母親がやってきて俺の布団をめくったとき、ちょっと母親には見られたくなかった男の現象を見られてしまって以来、起こしに来るときは親父が俺のところに来るようになった(あのときはどう考えても年相応の男の布団を捲った母親が悪いというのに、なぜか俺が親父に右ストレートを喰らうことになった。解せぬ)。まあそうなる前に俺も寝坊は控えようと心がけることにしたわけだけど。
そんなわけでリビングに向かう。といってもすぐそば、ドアを開けたら其処はもう居間だ。玄関に入って俺の部屋に向かうには必ずリビングを通らないといけないように家はなっている。中学校二年くらいのときに、「そろそろ思春期なんだし部屋を二階に移したいか?」と聞かれたこともあったけど、…面倒だったからそれはいいと断った。すぐ冷蔵庫からお茶とか取れるし。
足を踏み入れるとソファーで親父が新聞を読んでいた。もうとっくにスーツに着替えている。台所では母親がフライパンを使って何かを作っていた。食卓テーブルにはすでにサラダや取り分けの皿が並んでいる。俺がリビングに入ってきたことに気づいたらしい母親がぱっと振り返って、「おはよう、太郎」とにこりと笑う。赤いエプロンの紐がゆらりと軽やかに揺れた。どうやら今日はよく眠れたらしい。元気そうな母親の姿に内心胸をなでおろした。
「…おはよう、母さん」
台所にある洗面所に向かう途中で、真剣そうに新聞に目を通す父親の肩を叩く。何かを集中して読んでいる時、父親は周りの音が聞こえなくなっているらしい。父親が「ん?」と小さく声を上げる。それから俺を見て、「ああ、おはよう」と眼鏡のフレーム越しに微かに笑んだ。俺も「おはよう」と返し、父親の読んでいる新聞の中身をちらりと見る。
「…うわ、隣の市で運送トラックを強奪。物騒な世の中になったものだね」
「本当にね。しかも犯人は逃走中だって。多分白崎に来るんじゃないかな。せいぜい背後から刺されないように」
「…実の息子に対して軽いなあんた」
「そりゃあね。お前は刺しても死なないと思ってるから」
まあ息子には軽くても多分母さんに対しては同じことを言えないんだろうな、と思いつつ新聞に目を通す。犯人は身元不明の四十歳無職。未だ逃走中。そんな三面記事をさらっと見てから、俺は洗面所に向かった。
「行ってきます。今日は特に部活とかもないから、定時には帰るよ」
「わかりました。…その、物騒なことが起こっているみたいですし、気をつけてくださいね?」
「うん。美沙ちゃんこそ、買い物に行くときは気をつけて」
玄関のある廊下のほうから聞こえてくるなんだか甘い雰囲気を帯びた会話に耳を傾けながら、なにもすることのないままぼんやりと新聞の中身と同じことを流すニュースに目を向ける。あー今頃抱き合っているんだろうなとか、行ってきますのキスでもしてるんだろうななんて思いつつ、中学のころから使っている黒のガラケーに入った未読のメールをあける。…『今日は七時になる』という簡潔なメール。最近知り合ったあの男からだ。『了解』と一言だけ返して携帯電話を閉じる。今頃学生たちがわらわらとあの森林公園を通ってあの学園に向かって歩いていることだろう。ちらっと壁にかかったカレンダーを見る。…もう半年になるのか。半年経ったというのにまだ、俺はこの登校時間にあたる時間帯の使い方を知らないでいる。
遠くで洗濯機の止まる音が聞こえる。何もすることがないし洗面所に向かって洗濯物を取り出し、籠に適当に詰めて窓際に運ぶ。すると、玄関から薄らと赤い顔で戻ってきた母さんが「あら〜優しい子ね」と馬鹿にするように俺を笑った。うるせぇよババァ、と一言吐きつつハンガーに適当に掴んだ母親の服を干していく。母親はそんな俺の隣に並んでハンガーにかかったままの親父の服を外し、顔をそこに埋めてくすくすと笑った。
「照れ隠し」
「…うるせぇ馬鹿ップル。リア充なんて死んじまえ」
「大丈夫だよ、きっと円歌ちゃんもいつか元に戻るって」
あんなに仲がよかったんだから、すぐにまた仲直りできるよと母さんが笑う。なんでそんなに簡単にものを言うんだ。戻るっていうのか、この状況が。
「もう無理だよ。あれから一年も経っちまった」
「どうかなぁ。私は戻ると思うよ。お父さんに聞いてごらん、同じように返ってくるから」
「そりゃああいつはアンタのことが好きだからな。同じ答えに決まってる」
「…違うよ。亮介さんは、ちゃんと亮介さんなりの言葉で返してくれる」
ふっと遠い目をした母さんが、親父のことを名前で呼ぶ。ふっと暗い眼をした母さんは、洗濯物を手に持ったままぼんやりと遠くの白く霞んだ空を見た。昔のことを思い出しているのだろう。俺の知らない昔の話だろう。つられるように俺も遠くの空を見ながら、円歌が変わってしまった一年前からの出来事を思い返した。
遊楽円歌とは幼いころから二人でずっと一緒にいた。何をするにも一緒だった。学校も一緒に行ったし、遊ぶときも一緒に遊んだ。家族ぐるみで旅行にも行った(なぜか親父組は不在だったが)。周りの奴らから「夫婦」なんてからかわれることもあったけれど、それでも俺たちは一緒にいた。
きっと俺たちはこうして変わることなくずっと一緒にいるんだろうと、そう信じてやまなかった。高校も同じ白崎学園の高等部にエスカレーター式で入学し、一緒に一組に入り、そして一緒に学校へ変わらず登校した。変わらない日常の中でずっと、きっと年を取ってもこうして二人で並んで歩いているんだろうと、そう密かに未来の展望を描いていた。
円歌が変わってしまったのは、その年の夏。俺が今日見た夢と同じものをはじめて見たその日の朝から、円歌は俺を避けるようになった。
『ごめん、しばらく一人で学校に行きたいの』
思いつめたような表情で待ち合わせ場所に現れた円歌に、俺はうまい言葉を返せなかった。あとで悩みがあるのかとメールしてみたけれど、円歌からの返事はどこかそっけなかった。俺には話せないような何かがある、いくら幼馴染でも踏み込んではいけない場所があるのだろう。そう判断した俺は、それ以上円歌に何も聞こうとはしなかった。
それでも誕生日だけは二人で一緒にいたかった。七月二十八日。俺と円歌が生まれた日。大事な日だった。円歌が生まれた日であり、円歌と出会った日でもあった。だから、毎年ずっと二人で一緒にいた。だからその日くらいは円歌と向き合って話をしたかった。いや、たいした話しなんてできなくてもいい。ただ、お互いに「誕生日おめでとう」と――それさえ言うことができたらよかった。
だから電話をした。夏休みに入ったばかりの蒸し暑い自分の部屋の中で、無機質な発信音をひたすらに聞いていた。九コールくらいした後につながる音がして、受話器の向こう側からは微かに蝉の声が聞こえた。
あのときの声色を忘れられない。冷たく凍った声が夏の蒸し暑い空気を突き刺した。「円歌」と俺が声をかけたときのあの瞬間、俺の中で信じていた何かが崩れてしまったような、そんな心地になった。
あなた、だれ?
俺は俺だよ、そうとしか答えられなかった。でも電話越しの声は「違う、あなたは違う」と淡々と言葉を返してきた。何を言われているのか、途中からもうわけが分からなくなった。だけど、電話越しに言われた円歌の知っている俺の話をされたとき、俺は母さんと父さんと話をしなければいけないと思った。
「…太郎」
不意に、現実の母親が過去から引き戻すように俺の名前を呼んだ。「何」と返事しながら内心では緊張していた。またあの時と同じ言葉を言われる。なんとなくそんな気がした。
「母さんは、いないほうが、よかった?」
やっぱり、と思いながら俺は「んなわけないだろ」と返す。休学の理由を人には話さなかった。それが円歌の耳に伝わって、円歌が自分を責めてしまうような事態になってしまうことが怖かった。最低限そこだけは守らなければならないと思っていた。
唯一無二だと思っていた女に意味もわからずに存在ごと拒絶された。あのときはひどく不安定で、人の気持ちなんてひとつも考えていなかった。ただ、自分の存在を確立させたいとひたすらに渇望していた。それかせめて真実を知りたかった。どうして円歌が変わったのか。あの子に違うと言われた俺は一体なんなのか。どうして「俺」が変わってしまったのか。それを知ること以外に目を向ける余裕なんてなかったし、まさか俺の言葉一つが、母さんを追い込むことになるとは思っていなかった。
『俺の本当の母さんはどこへいったんだ?なんでそこにいるのがお前なんだ』
母さんは目を見開いて震えた。泣きそうな顔をしている母さんに、泣きたいのは俺のほうだよと頭を抱えた。後ろで黙って本を読んでいた父親が、がたりと席を立って「美沙ちゃん!」と叫んでこっちに来た瞬間、母さんはふふっと小さく笑った。笑って、俺の肩に手を置いて、太郎、と俺のものであるはずの名前を呼んで、――その、呪いのような言葉を吐いた。
狂ったように笑いながら「ごめんね、ごめんね。母さんさえ死ねばみんな幸せになれたのにね」という言葉を繰り返す母さんを親父が取り押さえて「違うよ、そんなことないよ」とめったに出さない大声で母さんの言葉をかき消すように叫んでいた。俺はどうしたらいいのか分からず、まさかこんなことになるとは思っていなくて、ただ、ただ立ち尽くしたままその光景を眺めていた。
母さんが俺が生まれる前まで重度の鬱病に苦しめられていたと聞かされたのはその日の夜。昏々とした眠りにつく母さんの髪をさらさらと撫でながら、親父は俺に「お前は俺と美沙ちゃんの子だよ」と母子手帳を見せながら語った。聞きたいことはそれではなかった。そんなことはわかっていた。だけど、まさかそんな「うそみたいな話」をあの状況で言えるわけがなかったから、俺もそれ以上何か聞き返すことはしなかった。
それから母さんは何度も自殺を図った。薬を大量に飲んだり、包丁を自分の体に向けて「ごめんね」と何度も笑った。実際に怪我をされたこともあるし、病院に運ばれたことだって何度もある。少し目を離したら家からいなくなってほうぼう探したら海に腰まで浸かっているところを見たことだってあった。一時も目をそらせなかった。俺のせいで母さんが死んでしまうかもしれない、そう思うと怖くて母さんから離れられなかった。ただの「脅し」だったら良かった。だけど母さんはいつだって本気だった。病んでる女が気を引くための行動とかでは無いのだ。母さんは本気で死のうとしていた。それに気づいていたから、だから俺はそんな母さんを本当はそばにいてやりたいだろう親父の代わりに見守り続けた。そうすることが俺なりの償いになると思っていたし、何より死んでほしくはなかった。何が嘘で何が真実かなんて知らない。知らないけれど、俺にとっての母さんとは、紛れもなく目の前にいる佐藤美沙なのだから。
そうやって欠席を繰り返すうちに、一組を降格したという通達が来た。もういいだろう、と思ってそのまま俺は退学の届けを提出した。もう友人関係を気にすることも学校という柵にとらわれることがない。そう思うと何故か気持ちは楽になった。「ああ今日も学校に行けなかった」ということがなくなった分、母さんと落ち着いた気持ちで一緒にいることができるようになった。冬になるころには大分母さんも自我を取り戻し、俺はまた円歌に話を聞くために白崎学園に忍び込むようになった。
ここまで思い出したところで母さんにまた「ごめんね」と言われる。謝るべきは俺だよ、と返して俺は洗濯物を干す作業を再開させた。黙々と洗濯物を干しながら、母さんを落ち着けるための言葉を捜す。…上手い言葉って捜そうとすればするほど見当たらなくなってくるんだよね。的確な言葉が出てこなくて、あやふやで形のないものが代わりに出てくる。あー…これなら無言のほうがいいのかな。わからない。それが余計にもどかしい。
いつの間にか空になった洗濯籠を母さんが持ちながら明るく取り繕った声で「ありがとね」と俺に言う。別に、礼なんて要らないのに。いつだってそうだ。家族なんだから当たり前のこと。それでも母さんは「ごめんね」と申し訳なさそうに謝ったり、「ありがとう」と言いながらもやっぱりどこか申し訳なさそうに、時には気まずそうに笑うんだ。あの日…母さんが豹変したあの日から、それは顕著になった気がする。空気で明らかにわかるんだ。
母さんは、自分が存在することを罪だと思っている。
俺はどうしてかそんな母さんを見る度に、俺を非難するような目で見る遊楽円歌の顔を思い出すのだった。
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