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『大丈夫?どこか怪我してるの?痛い?』
不安げに問いかけてきたその言葉が、僕と彼女の始まりだった。
当時まだ幼かった僕には二人の両親がいた。父と、母。きょうだいはいないがそれでも一般的な家族構成だったが、蓋を開けた家族生活は、一般的な家庭生活と大幅にかけ離れていたらしい。思い出そうとすると意識が混濁するほど、思い出したくもない汚れた過去だ。酔うと暴力的になる父と、浮気を重ね真実の愛などという逃げ道を探す母。その二人に挟まれる僕はあまりに幼かった。酒が切れると中毒症状で暴れ、飲んでも酔えば手が付けられなくなるような父が、家の外ではどんな顔をしていたのかを僕は知らない。僕が知っているのは汚い体毛だらけの手足をだらしなくソファーに放り出してテレビを見ながら液晶画面に暴言を吐くその姿だけで、「社会」とやらに出ていた父の背中をまるで思い出すことは出来ない。そんな醜い父に不釣り合いにも美しい形をしていた母は、他の男のところに逃げるように会いに行く。よりにもよって父が帰宅する頃には家を出て行くのだ。若々しく肩を露出させて、「独身」を気取って僕を残していく。泣いて喚いたのはいつだっただろう、もう思い出せない。ふと気が付いたときには、僕はもう諦めていた。そのころには母も、もう家に帰ってくることがなかった。そうして、父の理不尽な怒りは僕に向いた。
最初は殴りつけられるところから始まった。頭を叩き、頬を打ち、腹を蹴り、腕を強く掴んでそのまま壁に叩きつけたり床に叩きつけたり、足を掴んで僕を逆さにして振り上げたり。さすがに悲鳴も出た。何しろ僕だって幼い子供でしかなかったのだ。おとうさん、やめて、どうしてと泣き叫んだ夜は数えきれない。けれども泣いたところで許されやしないのだ。僕は何度も地に這い蹲って、「ごめんなさい」と何が悪かったかを探して許しを乞うた。泣き止め、と言われても泣き止めなかったことを謝った。父に暴力をふるわせたことを謝った。僕はそんな無様な幼い僕を、いつも遠くから冷たく眺めていた。いつから僕が僕を遠くに置き始めたのかは、もう覚えていないが気が付いたらそうしていた。僕はそうして自分を他人事にしてやり過ごしていた。そうでもしないと、痛みに耐えられそうもなかった。
父の社会的な評価は少しずつ下がっていった。近隣住民の通報もあったのだろう。何度か役員が来て、僕はそのたびにアパートの床下倉庫に押し込められた。絶対に泣くな、声を出すなと言われて僕は耐えた。腐っても父は父だった。この人がいなければ、僕は生きていけない。僕は死にたくはなかった。だから僕は良い子に耐えた。耐えなければよかったということも知らずに僕は父の言う通りにふるまった。
しかしいつしか近隣から、職場へ少しずつ虐待の噂が伝播したらしい。いつしか父は昼にも家で酒を浴びるように飲み、煙草の煙を吐き出してラジオからの音源に文句を言う暮らしをはじめるようになった。時折、レンタルビデオ店で全裸の女性が何やらいじめられているビデオを借りて、それを見て父も妙な声を出す姿を見かける日が増えた。今に始まったことではない。昔は母とそうしているところを何度も目撃した。いや、見せつけられていたといっても過言ではない。ビデオ越しにその行為を見ながら何かに耽る父は、常に不満げだった。当然だろう。仕事のない男に女が寄ってくることがない以上、そんな行為は当然できない。そして相手をしていた母は帰ってこない。
そうして、向かった先にいたのが僕だった。何度も泣き叫んだ、気持ちが悪いと何度も吐いたし、失禁もした。けれどそこまで汚れても解放してくれるような父ではない。風呂場に連れ込まれ、風呂場でその行為が続けられた。身体が裂けるかと思った。死ぬ、と思った。いや、もうあそこまでされたならば、もういっそ、殺されたかった。なんでここまでひどいことをされているのに、まだ自分が生きているのかが疑わしかった。
行為は毎日のように続いた。いつしか父はビデオの中の女性と同じ挙動を幼い僕に強いた。気持ちよくなれるわけがない。誰が身の丈に合わない異物を胎内に挿入されて悦べる子供がいただろう。けれども気持ちいい、と言わないとその行為は終わらない。気持ちいい。たった一言を言うだけで、父は満足をしてくれるのだ。幼くも持っていた矜持が崩れた瞬間だった。僕は頬を赤らめて喘ぐ母や、ビデオの中の女性を思い出して、一生懸命それを真似た。真似ていくうちに、自分が言われる通り「女性」なのではないかと思えてきた。いや、そうだったら、良いのかもしれないと思った。
僕はいつしか、殴られていた僕のほかに、父と性行為をして素直に悦ぶ女の自分を遠くに見るようになっていた。
目の前が真っ赤に染まっていたのはいつのことだっただろう。
分からない。覚えていない。その前後に何があったのかすらも覚えていない。確かに覚えているのは、赤。深紅の液体がぬるりと床を這っていた光景。僕の手にはなぜか赤褐色に染まった包丁があって、目の前には薄汚れた物体が倒れていて、タバコで黄ばんでいたはずの壁にも赤い火花が散っていてで、手も、服も、何もかもが「赤」に染まっていた。
歩き出すとぐちゅりと音がした。ぬかるみを歩くような、水を吸ったスポンジを踏むような、形容しがたい感触だった。何かいけないことをしたのだとはすぐに気が付いた。僕は恐ろしかった。何十回も刺したはずだ。けれどもまだ、「逃げなければ報復される」と思った。もはや死んでいるそれに怯え、僕は家を飛び出した。背後からは何重にも連なる自分の声が聞こえた。「大丈夫」「もう怖くない」「ついに殺した」「これで自由だ」――自分と同じ声が、僕を責めたてるように追いかけてくる。それがまるで父の亡霊のようにも思えて、僕は何処までも逃げた。帰り道も、何処から来たのかも思い出せなくなるまで。冬の寒さに体が凍り付いて動くことが出来なくなるまで、僕は逃げた。
「大丈夫?どこか怪我してるの?痛い?」
気づけば僕は道端に座り込んでいて、僕と同じくらいの歳らしき小奇麗な格好をした少女に、手を差し伸べられていた。怪我をしているのかと聞かれて、確かにあちこちが痛かったからうなずいた。寒くて歯の根が合わないし、意識も覚束無いせいで本当に頷くことが出来たのかは分からなかった。感覚がない。ただ寒い。寒い。僕はどうしたらいいのわからないままずっと座り込んだまま動けなかった。それでも、少女は「一緒に来て」と、汚れきっていた僕の手を取った。金春色の髪が、冷たい雪景色に似合わずやたらと色鮮やかに見えた。
「遥君は、今日からアタシたちの子よ」
派手だけどあの母親のように人に媚びはしないその女性は、僕を自分の子供だと呼んでくれた。
「自分を表現するって大事だよ。どんな些細な感情でもね」
穏やかで、けれども内側は激しい。然れどその熱を他者にぶつけることのないその男性は、僕と芸術を結びつかせた。
「嬉しいことも悲しいことも、笑い方も泣き方も全部、遥のものだよ。わたしが教えてあげる」
そして君。君は僕に人としての心を与えようとしてくれた。君は僕を新しい人生までの手を引いてくれた。君がいなければ「斎藤遥」は間違いなくこの世には既に存在しなかっただろう。君がいなければ、この家族に出会わなければ、僕は現在に至るまでに生み出せた芸術の一切を築き上げることが出来なかっただろう。
恐らく僕は幸せだった。少しずつ「斎藤遥」という名前を背負うことへの苦痛も薄れていった。碌でもない親の姓だ。本格的に月見家に戸籍入れして捨ててしまえばよかったのに、それでも捨てなかったのはある種の僕の矜恃だった。あそこで生まれ、そして苦しんだからこそ今得られた幸福が一層に、
「違うだろ?汚い自分が、そこに交わるなんて許されないと思っているからだ」
背後で人を殺した僕の声が響いた。
振り返ったところで本当に存在する声の主ではない。そんなことは自覚した時から理解していたというのに、それでも僕は振り返ってしまった。背後には誰も、僕を傷つける人間なんてただの一人もいなかった。ただ、そこには君がいた。「どうしたの?遥」と小首を傾げて僕を見つめる幼い金春色だけがそこにあった。それだけで、僕はその幻聴を疑えなくなった。
僕は汚い。
自分という存在が統一感がなく、ひとつの個も持てずに解離していると理解した時から、或いは物心着いた時には既にその意識は根付いていた。当然月見家に知られていない話ではない。僕は何度も「両親」に児童相談所を通してカウンセリングを受けているし、その間に現れた「彼女」や「あの子」や「彼」の証言で、虐待の内容を全て暴露している。要観察対象とされていることも、人を殺したことが悪い事だとわかっていたからでもあった。罪の意識から逃れるために僕はなんとか、自己弁護を重ねた。それさえも汚かったし、そもそも受けた行為も汚いと思った。両親は断じてそんな僕を責めはしなかったし、汚いとも言わなかったけれど。僕はそれさえもが恐ろしかった。
別に「お前は汚い」と糾弾されたい訳ではなかった。けれど、「遥は綺麗だよ」と言われることも恐ろしかった。自分が到底、そうだとは思えないというのにどうして他者に言われた言葉を信じられようか。
「本当に、痛みや傷の一切を私たちに押し付けた、【僕】のどこがきれいなんでしょうか」
だから、僕は月見織葉という女のことが、恐ろしくて堪らなかった。嫌いだったといっても過言ではない。未だ両親からは漠然としか僕が何をされてきたかを知らないであろうその女は、汚い僕の生み出す絵を「綺麗」と褒め、そして僕自身さえも「遥は綺麗だよ」と真綿で包む。何処がだ。反吐が出る。穢れのひとつさえ知らない場所で生まれて育った君にはこの陰が見えないだけだ。僕は恐ろしかった。自分を騙すように重ねてきた色の奥の、下地を君に見透かされる瞬間が、いつか来るかもしれないことを。いつまでもそれが暴かれず、詭弁のような美の下に隠し続けなければならないことを。
「なぁ、俺もなんだよ。だからさ、お互い解消しようぜ。相手に万が一のことをしないようにさ」
僕には複数の人格がある。そのうちのあの女は、黒魔術というカルト的なものにあこがれていたらしい。どうしてもと五月蝿かったし、満足したら消えろという条件で部の設立を許可した。まさか女装して活動しているとは思わなかったが。それもかなり分かり易い。美術部部長はカルト好き女装好きなんていう噂が今まで良く流れなかったなと感服した覚えがある。
その女人格が引き入れてしまったのが楠木聖だった。『聖人君子みたいな名前だろ?』と笑っていたそいつは、この学校にいる遊楽円歌という幼馴染と和解するために学校に潜伏しているらしい。僕のことはそもそも前から知っていたらしく、「クラスメイトじゃん」とは言っていたが生憎と僕は自分のクラスの人間に興味はなかった。ただ、思い返すと確かにクラスの誰かが退学した、と言った話を聞いたことがなかったわけでもない。恐らく目の前の男がそうだったのだろう。
「いや、僕と君は何一つ同じではない」
聞けば警備員に追われているところをかくまった別人格が彼を引き留めて、疑似的な恋人関係になったという。男は別人格のその行為を主人格である僕の「現実逃避によるもの」と判断したらしい。自称元クラスメイトは「僕が織葉を好き」などと勝手な解釈をつけて僕を自分に重ねてきたが、僕はどうにも同じとは何一つとして思えなかった。僕はあの女とともにいて碌に安らげたことがないのだ。どうしてこれを恋と呼べよう。
ふうん、と男は僕の主張を煙草の煙で吹き消した。それまでは少年の目をしていた男が、冷たい目で僕を睨む。しかしそれも一瞬のことで、次に煙を吸って吐き出した時には再び笑みを浮かべていた。悪辣な笑みだった。
「実のところ、円歌がどうしてああなったのかを俺は知っているんだ。だから、まあ、ちょっと仕方ないなって思ってる。俺を嫌いって言わないとアイツは多分壊れるんだ。分かるよ、嫌われる理由も好かれる理由も知ってるから」
「…君の恋愛話に興味はないんだけど」
「いや?大事な話だよ。たとえ肉体がなんであれ俺を好きだって言ってくれる女の子には優しくしたいって思ってたけど、でもきみの意思も少しは慮ってやらないとなって思ってたからさ。でも今、その良心も死んだようだ」
「いいよ。俺がお前を肯定して(こわして)あげる」
明確に肉体関係を持っているという意識がこの日以降体に染みつくようになった。恐らく前までは多少触れる程度だったのだろう。意識が戻ってくると、身体に多少なりの変化が起きるようになっていた。明確に自分が汚れていく、いや汚れていたのだということを自覚できる瞬間だった。ただ、背後の女は満足そうに微笑んでいた。いっそ自分が僕ならば、とさえ思っているようだった。あちらの思考は、こちらにすべて筒抜けだ。けれど、時折女は自己嫌悪に泣いていた。その涙の理由だけは分からなかった。
「だって私はあなただもの」
幼いころから繰り返されてきた常套句を僕は未だ理解することが出来ない。女は僕のために泣いているらしいが、僕は何が悲しくて女が泣いているのかをまるで理解が出来なかった。そうして、報復のようにまた同じ行為が現実で繰り返される。まるで幼いころに戻ったような気分だった。月見家に拾われる前、彼女と出会う前。僕は望んでそこへ戻ったのだ。
ただ、自分が何を望んでそこに戻ったのか、その理由を僕は自分で理解が出来なかった。
僕は、生まれてこのかた自分というものが分からないのだ。
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