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「わたし余計なことをしたかな」
「本当ですよ。すごい誤解を受けましたよ。僕と織葉さんが付き合ってるだの僕の片思いだの」
「だってわたしがひろくんを呼んだ途端にすごい目で睨んでくる女の子がいるんだもん、あっ!この子ひろくんのこと絶対好き!って分かっちゃって」
「いやいやいや…」
ちょっと困ったような顔で笑いながら謝る織葉さんに苦笑いをしつつ「まあメールできたんで」と少しフォローをする。別に迷惑ってほどでもなかったし、まあいいだろうと思って。織葉さんは「ならよかった」とぎこちなく笑って頷く。集合場所である正門前には既に葉しか残っていない桜の木が大きくそびえ立っている。ぞろぞろと通り過ぎていく生徒の影を眺めながら、「誰が来るんですか」と分かりきったことを尋ねる。まあ、さっきから会話の輪に入らずに桜の木を眺めている斎藤先輩がいる限りもうお察しだ。というか、アトリエにいない斎藤先輩を初めて見た。おおかた絵を描くために観察でもしているのだろう斎藤先輩をよそに織葉さんは「えっとね、凪君と」と指折りをする。そんなことをしているうちに「ひろくん!」と校舎の方から大声が響いた。ああ、数えらえる必要もなかったようだ。僕は横を見て「お疲れ様です」と返す。
「ごめんごめん、今日は武智が掃除当番だったものだから」
「ああ…お疲れ様です、同じ班なんですか?」
「早く麻生君に会いたいって理由で手伝わされたんだよ。元の当番の人間の迷惑ってものを考えろよって感じ」
「…まあ、お陰で早く終わった」
確かに放課後になって多分十分も経っていない。相当の人数でやったんだろう。久条先輩と安藤先輩、武智先輩と身長の高いメンバーが三人とも少し汗だくだ。「そんなに急がなくても良かったのに」と織葉さんも苦笑いしている。まあ、確かにそうだろう。現にまだ来そうな人達が来ていない。いや、ていうか本当にあと何人来るんだ。この時点で結構大人数な気がしなくもない。
「あの、マジであと誰が来るんですか」
「ああ、蒼空はコンクール前だからって桐島さんに引きずられてったから三年はここまでじゃないかな」
「オレは委員長ちゃんに声掛けてるけど委員長ちゃんは日直が終わったら来るってさ。多分そろそろじゃないかな」
「あれ、屋敷さんは誘わなかったんだね」
「…屋敷ちゃんは空気を読むんだってさ。ていうか、あの子が来たらいよいよこの大人数が制御しきれなくなるでしょ。前の勉強会を思い出せって」
「あの勉強会の記憶はもうお前と斎藤君のジリ貧腕相撲しか思い出せないからなぁ」
「そんな余計な記憶は忘れて計算式でも頭に入れたらどうだろうか」
話に入っていなかったはずの斎藤先輩の鋭い声が横から飛んできたせいでああ、と僕まで思い出してしまった。あれは酷かった。斎藤先輩も久条先輩も筋力の差がないのかとにかくジリ貧で、でもお互い負けず嫌いなのか倒れなくてしまいに罵倒が始まったのだ。お互いのことを知りすぎている細すぎる罵倒に織葉さんは泣きながら笑ったほどだ。最終的に安藤先輩が仲裁に入って止めなかったら多分、それこそもっと黒い歴史の話に片足を突っ込んでいたことだっただろう。いや、楽しそうでよかったけれど。「変態メガネ」に「お前はムッツリだけどな!」などと切り返した瞬間は僕も笑い転げた。
「すまん、待たせた」
なんて思い返していると校舎の方から城ヶ崎さんが走りよってくる。そんな城ヶ崎さんにまっさきに反応したのが久条先輩だ。「おー、お疲れ」と声をかける久条先輩のそばに「すまない、蒼井先生と話し込んでしまって」と自然と城ヶ崎さんが並び立つ。その自然さについ僕は視線を向けてしまった。多分、他の面々もそうだっただろう。その状況にまっさきに反応したのが城ヶ崎さんだ。自分のやったことを思い出したのかはっと顔を耳まで赤くし、それから怒ったような顔でとりあえずこの場にいる唯一の女性である織葉さんのそばに寄り立った。いや、その人は恋バナが好きだぞ、という言葉を僕は飲み込む。織葉さんはニマニマとした笑顔を隠さず、「じゃあ行こっか」と僕らを誘導する。そこで僕は行き先を聞かされていないことに初めて気がついた。多分安藤先輩たちも同じだったのだろう。どこに、という声が自然と漏れた。
「…女性は自由だな」
「うん、ぶっちゃけ屋敷ちゃんがいなくなっても代わりは現れるんだと思った。女子校に入ると女子の中で野郎が生まれる法則だよねこれ」
「なるほど、これが…」
カラオケか。そんな漠然とした感嘆が勝手に口の端から漏れた。武智が歌うまいんだよ、とちゃっかり隣に座っている安藤先輩に耳打ちされる。いい声だしそりゃあ上手いだろう。正直憧れるほど武智先輩は低く落ち着いた声だ。それで音痴だったらむしろ困る。というか武智先輩、歌うのか。正直いってそっちのほうが驚きだ。
「お前はすぐに洋楽でマウント取ってくるけどな」と言いながら久条先輩がフードメニューを眺める。それに乗っかる安藤先輩を横目に、僕はデンモクを操作する向かいの席の織葉さんに視線を動かした。城ヶ崎さんにアイドルソングを勧めながら楽しそうに笑っている姿を見ていると、この前泣いていたのがまるで嘘のように思えてくる。顔を真っ赤にしながら「私はカラオケは初めてなんだ」と首を振る城ヶ崎さんも同じく。…まあ、元気なら何よりかもしれない。
こんな大人数で行けるところはフードコートかカラオケだ、というのが織葉さんの結論だった。というか、事前に予約を取っていたらしい。会員証を持って機種を選んで、時間やらコースを指定する織葉さんは素人目ではよくわからないけれどかなり手馴れて見えた。やっぱり広香もそうだけど、女子はカラオケが好きらしい。お陰様で飲み物の注文も織葉さんに任せてしまった。何から何まで今日は頭が上がらない。
「ねぇ一曲目慶先輩が武智先輩にお願いしてもいいですか?」
「あ、それなら武智じゃない?やっぱりここは武智でしょ」
「…いや、所詮俺は副会長だ。ここは生徒会長に譲ろう」
「ハイハイ、お前らはジャンケンな」
やいのやいのとすぐ騒ぎ立てる三年生を横目にぼんやり腕を組んでいる斎藤先輩に声をかける。隣に座っている斎藤先輩は、ふっと顔を上げてこっちへ視線だけ動かして「何」とそっけなく返した。なんだかこういう時どうしたらいいかわからない、と言いたげな顔の先輩に歌わないんですか、と声をかける。心なしか眉間に皺が寄っている。よくここまで来たな、と内心少し感心した。この人は嫌ならどこまでも断りそうだったから余計に。
「…僕が歌うと思ったか」
「下手なんですか」
「あまり聴かないんだ。気が散るからね」
「へぇ…」
でも来るんだ。それって織葉さんが喜ぶからかな。
そんなことを口に出したら帰られそうな気がして僕は言葉を飲み込む。そこでちょうどジャンケンに負けたらしい武智先輩が入れたらしき有名なJPOPが流れ出す。僕が小学生の時にとっても流行ったアニメとのタイアップソングだ。まさか武智先輩がこんなアップテンポな曲を入れるとは思わず、ーーしかも本当に上手いせいで目を剥いてしまう。さすが一組は歌も上手かった。これ怖いな、と思いながら僕は隣の斎藤先輩を突っつく。やたら構われることがおそらく鬱陶しいのであろう斎藤先輩は眉をしかめながら「歌わないよ」とそっぽを向いた。いや、歌ってもらう。僕だけ恥晒しになるのは嫌だ。
武智先輩の隣にいる久条先輩が「リア充の流れに乗るかー」と言いながらまたもおなじアーティストの恋愛ソングを入れ始める。どうやら時計回りで回ってくるらしい。これ本当にどうしよう、と僕はひっそり頭を抱えた。
「しかしこの人数だとどうしても一人二曲くらいになってくるね」
「まあ仕方がない、また機会はあるだろう」
「ねー、今度は柘榴ちゃんも会員証作ろうね」
おそらく今日一番目を輝かせていたであろう城ヶ崎さんの頭を撫でる久条先輩の腕を城ヶ崎さんが跳ね除ける。柘榴ちゃん。へぇ、…へぇ、と感心しながら眺めていると武智先輩が隣でぼそりと「いつもはそうなんだな…」と感慨深く呟いた。本当に。どうせ付き合ってることなんて筒抜けなのだから普段から言えばいいのに。いや、城ヶ崎さんの性格的に厳しいか。さっきまで織葉さんと二人でアイドルソングを歌っていたその頬はやたらと紅潮している。僕は風紀委員会にしばかれている第三者の姿しか見た事がないけど、こうして眺めてると怖いというかやっぱりただのツンデレだ。
ぞろぞろと駅前の通りを歩きながら、家はどこだあっちだと別れ始める。寮生である城ヶ崎さんと久条先輩は学園のある方へ引き返さないといけない。「こうなると出歩くのがめんどくなるんだよな」と少し億劫そうに久条先輩がため息を吐いていた。まあ確かに、引きこもりのイメージがなくはない。…ちょっと失礼だったか。
「あれ、武智は?今日は帰らないのかい」
「ああ…少し」
カラオケの途中から定期的に携帯電話を見ていた武智先輩が安藤先輩の答えを曖昧に濁す。なんだかやたら携帯電話が光っていたけど何かあったのだろうか。武智先輩は携帯が光る度に表情を少し曇らせていた。安藤先輩は「あまり無理をしないようにね」と武智先輩の肩を叩く。僕にはなんのことだかわからない。聞かなかったことにして、僕は駅へのエスカレーターへ向かっていく武智先輩の背を見送った。「僕らも帰ろうか」と安藤先輩が切り出す。六月の十八時台はまだ昼間みたいに明るいけれど、でも実際はもう夜だった。
「先輩は市電ですか?」
「うん、だから名残惜しいけどキミたちとは僕もここで。気をつけてね」
「はは、まあ僕はこれでも屈強な男なんでご心配なく。じゃあ」
「お疲れ」
「お疲れ様です」
手をヒラヒラと振る安藤先輩に手を振ったところで、武智先輩同様寮に帰らなかった織葉さんと斎藤先輩のほうへ寄る。待っていてくれたらしい織葉さんが、「今日はありがとう」と僕を見て微笑んだ。こちらこそ、と僕は返して織葉さんの隣に並んで歩く。せっかくここまで来ているからと今日は家に帰ると言ってたのは会計の時にした話だ。住んでいるところが百合が原らしく、それなら僕と同じ町内会だった。多分、家もそこそこに近い。後ろに斎藤先輩がいる気配を感じながら、僕は普通に会話を続ける。
「カラオケなんて初めてだったんで楽しかったです」
「本当に?ひろくん無理無理なんて言いつつ上手だったのに」
「そうですかね…?皆と比べたら全然。あ、でも城ヶ崎さんには仲間意識を感じました。あの人意外とボカロとか歌うんですね」
「きっと友達が知ってるんだろうね」
和風のボーカロイド楽曲を歌っていた様に久条先輩が目を剥いていた姿を思い出す。あの人てっきりそういう娯楽文化に興味もないと思っていたけれど意外にも知っていたらしい。多分、広香や瑞崎さんの影響だろう。僕はあまりボカロは聴かないけど、姉は結構なオタクだ。あんなのと友達だったら影響をがっつり受けているに違いない。
あと意外だったのはそれこそ隣にいる織葉さんだ。意外にもカッコイイ感じの女性アーティストの曲を歌うのだ。織葉さんこそアイドルソングとかそっちだと思ってた、と呟くと織葉さんが「そっちも歌うけどちょっとかっこつけたくて」と照れ笑いをした。まあ、確かに今日の流れはみんなカッコイイ感じだった。安藤先輩は洋楽だし武智先輩も久条先輩も普通にアップテンポな男性アーティストの曲を歌うし、でもまあ多分もっと時間があったらそれぞれの路線がごちゃごちゃになっていたことだろう。僕ももしかしたら多少なりともの知識で知っているボカロを歌っていたかもしれない。
「次は採点とかも入れたいね」
「勘弁してください…」
「何言ってるの〜ひろくんみたいに先天的に上手いひとが怯えるようなものじゃないよ!それに、採点を入れたら今度は遥も歌うかもしれないでしょ」
「…歌わないよ」
後ろから聞いていたらしい斎藤先輩がぽそりと呟く。織葉さんは器用にも歩きながら少しだけ後ろを見て「遥だって歌が上手いのに」と切り返した。…へぇ、下手だから歌わないという訳ではないらしい。「歌えるんじゃないですか」という僕の茶々に返事をしたのは織葉さんだ。なぜか本人よりも得意げに「うん」と肯定してくるところが彼女らしい。
「わたしがカラオケに行く時にたまに着いてきてくれるんだけどね、たまに歌ってくれるのよ。すっごい上手なの!勿体ないよね」
「へー…」
どこの誰だっただろうか、歌わないとか聴かないなんて言っていたのは。なんだ、織葉さんもやっぱり斎藤先輩と普通に話せているんじゃないか。そのカラオケに行ったとやらがいつのことだったかについては触れず僕は「いいですね」とただ斎藤先輩の行いを肯定する。うん、とだけ返事をした隣の声は優しく聞こえた。
「じゃあ、わたしはここで。遥も帰るよね?」
「…ああ、うん」
「あ、じゃあお疲れ様です」
「うん、またね!おつかれさま。…遥?」
「…お疲れ」
「?…はい、お疲れ様です。また」
交差点で立ち止まる織葉さんに並んでいる斎藤先輩が、やたらと僕を見ていることに気がついて僕は少し困惑する。ただ、気のせいだったのかただ見送ってくれていただけなのか、斎藤先輩が僕に何かを言うことはなかった。僕はさっき他の人にそうしたように手を振って背を向ける。
ああ、楽しかった。集団で遊んでこんなに楽しいことなんてあっただろうか。広香も一緒にいたらもっと楽しかったかもしれない。なんて、普通に楽しかったことを思い返して、足取り軽く僕は帰路を歩いた。
そうして家に帰る頃には、僕はもはや斎藤先輩のことなどもう忘れていたのである。
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