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翌日になったところで僕と羽原結衣の関係に何か変化があったかといえば、さしてそんなことがあるわけではなかった。ただ授業の合間に何度が視線があったのはけっして偶然ではなかっただろう。ちょっと僕も意識して視線をやりすぎてしまったかもしれない。いつもはむしろなるべく見ないようにしていた方向を見ると、一瞬だけ視線がかちあうなんてことがさすがに四度も続いたところで僕は見るのを止めた。そもそも意識して合わせようとしていたわけでもない。何度も何度も見ていたせいでそんなことが起きてしまったのだ。それが単なる偶然なのかそれとも向こうも僕を見ていたからなのか、それを考える余裕は僕にはない。当然視線が合うからといってどこかの先輩のように運命なんて言葉は口に出来ない。というか、そんな意識で見ていたわけではない、はずだ。とにかくなんだか今日はひたすら居心地が悪かった。
そして放課後に天罰が下った。水飲み場の掃除当番に向かおうとしていた僕の肩を叩く男と視線がかち合ったかと思ったら、ぱっとそいつは視線を逸らす。「あ、あのね」と甘ったるい女性のような口調で、それでもはっきりとしたテノールで彼――有栖川馨が怯えた調子で僕に声をかけてきたのだ。そいつに興味がなかったわけではなかったけれど、実際に話をしたのはたぶん初めてだ。大分怪訝には感じたけれど、それでもある程度好意的に「何?」と返事が出来たと思う。赤縁の丸眼鏡の向こう側で、じっと僕を見ている男は「おねえさん、」とそっと僕を仄めかした。…あれ、姉さん、まだこいつのことを諦めていなかったのだろうか。なんだか諦めたみたいな感じだったはずだったけど。いや、それでも交流を持っていたのだろう。僕は姉が好きになりそして失恋したという件の男に視線を合わせながら「広香が?」と聞き返した。
「…あの、麻生さん、体調崩して…五時間目で」
「えっ、嘘」
「ごめん、本当。…その、一組の僕の友達から。…あの、家に誰もいないっていうから…それで、僕ここ…」
「あ、あー……」
連絡が来てないか確認しようと携帯を探す手が止まる。どうしよう、いや、それより早く行くべきなんだろう。だからこそ来てくれたんだろう。どうしよう、話しかけたこともない男にめちゃくちゃ助けられている。いいんだろうか、恐ろしく申し訳がないのに。ああいやでも。…あれやこれや思考を巡らせて僕は「有栖川次のトイレ当番いつ?」と尋ねる。明日、と言われたところで僕は教室に鞄を取りに行くことにした。有無を言わせず「明日替わるから」とだけ言い残して僕は廊下からすぐに教室に引き返した。
教室の後ろに投げている鞄を手に取って歩きながら携帯を開く。やっぱりメールも電話もひとつもなかったまっさらな待ち受けがそこにはあって、僕は少しだけ愕然とした気分になった。ちょっと前まで体調が悪い時はちゃんと、予定が食い違っていようと連絡があったのだ。というか、放課後に何をするかもちゃんと連絡しあっていたくらいだ。家でうっかり単身で親と鉢合わせたくないから。というか、それが当たり前だと思っていたから。いつもそうしていたのに。…なのに、広香は僕に早退したことを言わなかった。有栖川が伝言に来なかったら、僕は今日、どうしていただろう。そんな答えも分かり切っていて。
肝が冷える思いを抱えながら玄関まで小走りで急ぐと、僕の靴箱の前で誰かが待ち構えていた。僕らのそれよりも明るいサーモンピンクの瞳と視線がかち合う。「待ってたよ」とにんまり微笑んでくる彼女は気さくだけど僕はまったく知らない人だった。それでも白い制服がはっきりと彼女が一組であるということを証明する。つまり広香の友達だ。向かいながら会釈すると、彼女は僕が名前を知らないことも分かっていたらしい、「氷衣あかり」と名前らしきものを教えてくれた。ああ、聞いたことがある。やっぱり広香のクラスメイトだ。それなりに仲がいいとは聞いている。
「キミのお姉ちゃん随分自立したよ!連絡したら?ってみんなでせっついたのにしなかったんだから。一人で帰ってったんだよ、弟だってやることがあるんだからって」
「…一人で」
「あかりたちは弟君そんなに冷たくはないと思うって言ったんだけどねぇ〜ハイ、これ六時間目の授業のノート。次までに返してって言っといて!お大事にね!」
「…あ、ありがとう、ございます。有栖川といい…何と言ったらいいか」
あれ、そういえばこの人と有栖川ってどんな繋がりなんだろう。待ち構えていたあたり有栖川を伝言に出したのってこの人だと思うんだけど。でも気になったところでそんなことを悠長に聞いている余裕はなかった。僕は一刻も早く姉の無事を確認しなければいけないのだ。氷衣さんもそのつもりらしく、「いいってことよ」とひらひらと手を振る。もうよそう。なんでもいい、多分部活か委員会か、それか狭い街だし同じ中学とかなんだろう。そう結論付けて僕は玄関を飛び出した。
広人君は広人君だよ。
その言葉の意味を理解してしまった時から、僕だって何度も考えた。
小さいころからずっと、身を寄せ合って生きてきた。両親という絶対的な存在を「敵」とみなしたその時から、僕にとって家族と呼べる存在は広香しかいなかった。いつからそうなったのかなんて知らない。ただ気が付けば溶け合うように僕は自分と広香はどこまでも同じ存在で、一つなのだと思っていた。僕は広香に幸せになってほしかった。広香が笑ってくれていたらそれでよかった。世界でたった一人、姉さんを愛することができていたらそれでよかった。それで、自分を犠牲にしているつもりなんて毛頭ないはずだった。僕はこれでいいって、思えたはずだった。けれど多分、僕はやっぱりそれでよくはなかったんだろう。僕は僕で、広香は広香だ。分かっている。分かっているけれど、でも「これ」はきっと違う。
「…広人は、広人だから」
かすれた声で姉が微笑んだ。37度と38度を行ったり来たりしている朦朧とした様子で、姉が僕をぼんやりと見て笑っている。…病人をうっかり責めてしまった。やってはいけないことだと分かっていたのに、僕はどうしても聞いてしまったのだ。どうして僕を頼らなかった、と。そうしたら広香は僕を尊重するように笑うのだ。多分それは間違ってはいないんだろう。これが本来あるべき姉弟の、双子の形で、僕らが互いに依存しすぎていた分このくらいはするべきだってことは、わからなくもない。「だからって」、分からなくもないけど、こんな風に尊重はされたくなかった。
「何かあったら頼ってほしいよ。僕の予定なんて別に大したものじゃない、姉さん以上に重要なことなんてあるもんか」
「…分かんないよ、断言しなくていいよ。…断言されちゃう方が、こわいよ」
「どうしたの、…なんで泣いてるの…」
「しらない。しらないよ」
布団に頭を隠した広香がぐすりと鼻を啜った。僕は布団から少しだけ覗き出た姉の頭を撫でつける。熱で魘されていて寂しいのだろうか。姉はもともと寂しがり屋であるということを僕は知っている。心細くなっているらしい姉の頭をただ慰めるように撫でていると、姉はさらにすすり泣きながら「おぼえてる?」と僕に問いかけた。何か嫌な予感がした。
「ひろくんは私のものなんかじゃずっとずっとなかったのに、私はひろくんの大事な予定を台無しにしたんだよ」
「……」
「私が広人の人生をどうにかできるわけじゃないのに、広人は広人なのにわたしは嘘を吐いて広人のせっかくの初恋ぜんぶ壊したの。さいていなんだよ、こんなわたしがひろくんにこんなに、あいされていいわけがないの」
「……」
「…ごめんね、ひろと、ごめん」
頭を撫でていた手から力がふっと抜けた。分かっていた。あの時だって。布団に籠っていた姉は咳もしていなかったし僕の前で熱は決して測りはしなかった。そもそも何年も一緒にいた姉の本気の体調不良と仮病の違いが分からない僕ではなかったのだ。それでも、その嘘を信じるふりをしたのは僕だった。
「…僕は、広香に信頼されたかっただけだよ。誰よりも好かれたかったって、だけで」
「でも、」
「…そうだね、…あんなのは、違ったよね」
「…そう、私だって、分からないわけがなかったよ…」
許されたくはない声色には後悔が滲んでいた。僕はそんな弱弱しくも過去を振り返って、僕におおよそ半年越しのあやまちの謝罪をする姉を眺める。チェック柄の布団の中に埋もれている姉と目を合わせられる自信はなかった。僕は多分、人生で初めて誰よりも大事にしていたはずの姉を個人として責めている。
「…多分、ずっと許せない。でも、その許せない道を選んだのは僕もだ。だからね、許せないとは思ってるけど、それほど姉さんのことをどうとは思ってない」
「……」
「…ありがとう、尊重してくれて。でもそんなに頑張って線を引かれたら、僕は少し困る。だって広香のことが好きなのはずっと変わらないし、多分僕はこの先も頼まれなくたって広香が弱ってたら、誰よりも広香を優先すると思うから」
「……」
「優先したいんだよ、たとえ僕は僕で、広香は広香だとしても」
「…わたし、一生広人を離せなくなるからやめて」
「離せるよ、広香も僕も。離されても分かるだろうから……なんか恥ずかしくなってきた、言わせないで」
「…ふふ、」
「笑わないで…」
すっかり上機嫌になった姉の隣で僕は崩れ落ちるようにベッドのそばに蹲る。ぼんやりとした声で笑いながら、姉は僕の名前を呼んだ。ひろくん、と甘えた声色で姉が僕と視線を合わせる。同じ緑色の眼でも、僕のそれよりも姉の色は明るく澄んでいる。僕の瞳が夏の深まった深碧色なら、姉のそれは夏の始まりの若葉色だと例えたのは、誰だっただろうか。姉は赤らんだ頬を深めて、やがてすっと瞳を閉じた。
「ありがとう。私の双子の弟が、あなたでよかった」
壁一枚隔てた部屋の向こうで、僕は先輩にメールを打った。『放課後はすみません』なんて、別にもう約束という約束もしていないしやっぱり付き合ってもいないのにどうして僕はこんな律儀にメールを送ってしまっただろう。いつぞやの先輩よりは堅くはなく、けれど柔らかくもない文面を眺める。夜の八時なら先輩ももうさすがに家に帰ってやることをやっているはずだろう。そう踏んで送ったメールの返事は案の定数分も経たずに返ってきた。顔文字も絵文字もない、けれど固くもないまるで先輩の普段の柔らかい口調そのものの文体は、『大丈夫?』から始まっていた。僕はメールでそのまま書いていいのかが分からなかった。大丈夫かって、正直大丈夫ではなかった。でも素直に僕は文面に「大丈夫じゃない」とは書けなかった。
悩んで僕は『姉が大丈夫じゃなさそうなんです』と暗に僕は大丈夫と伝えるそぶりをした。我ながら随分とまどろっこしいメールを送ってしまった。ていうか、どうしてメールなんてしてしまっただろう。先輩になんて会おうと思えば明日にでも普通に顔を合わせられた。今までも別にアトリエに行かない日だってあった。けどいちいちこんな風に謝ってなんていない。謝るようなことでもなかった。分かっていて謝ったのは、まあ、そうだ。
『ひろくん、土曜日暇かい?ちょっとデートしようか』
僕はこの先輩に頼りたかったのだ。
弱さを見透かしてきたくせに冗談を続けるその下りには満面の笑みの顔文字が付いていた。僕はなんだか気持ちが軽くなって、『中年のオッサンのメールみたいですよ』と毒づく。一分ほどして返ってきたメールには泣き顔が大量に送られてきた。ははは、気持ち悪い。でも多分向こうもそう思いながらやっていることだろう。隣に笑い声が漏れないように声を抑えながら腹を抑えて、僕は約束の予定を固めるメールを送り続けた。
ふっと目を覚ました先で男の濃藍の瞳と視線がかち合った。花の匂いが染みついた紫煙が鼻に付く。大方さっきまで煙草でも吸っていて、その匂い消しに香を焚いたのだろう。吐き気がしそうなほど強烈な匂いが入り混じった教室の中心で、自分が全裸だということにふと気が付く。毛布替わりといわんばかりに掛けられた紗幕の中を思うと嫌悪が胃の腑から喉奥へとせりあがってくるのを感じた。肛門が気持ち悪い。顔をしかめたまま黙り込み続けている僕を前に、男は無言だったがそれでも愉しげだった。男色の趣味はない、と断言していたがその言葉も些か疑わしくなるほどの愉快げな笑みに息を吐く。碌な会話もせず僕は起き上がると、リノリウムの床に似つかわしくない紫紺のカーペットの上に散らばる布類から自分の制服を探した。セーラー服や男性用に作られた女物めいた下着を摘まんでは放り投げてシャツとスラックスを漁る。尻も背中も首筋も、何もかもが隣にいる男に丸出しになっている自覚はあった。恥じらいはしなかったのはこの状況も、僕が知る前にあった一切も理解するより前からすべてが恥だったからだ。腕も膝も擦り切れたような痛みが滲んでいる。心なしか油や石灰よりも不快なものが髪の毛に付いているような気さえした。早くシャワールームでも水飲み場でも、何処でもいいから洗い流さなければいけない。痕跡の一切を消して帰る必要があった。
急いた手つきでボタンを掛け違えて、外して再び留め直す。夏場ということも厭わず学ランを羽織ったところで、ようやく少し思考が現実に戻ってきたような気がした。そうだ。考えてはいけない。思い出してはいけない。僕は断じて隣にいるその男に甘く媚びて話しかけはしない。描いていた絵の構図、明日作業すること、日課のデッサンのモチーフは何にするつもりだったか。あらゆる自分に関する情報を脳内で反芻させながら、僕は今度こそ自我を取り戻す。貴重な外つ国の輸入品である人体標本を祀りごとのオブジェとして飾る悪趣味な部屋の出口に目を向ける。壁同様に黒い布を貼りつけた引き戸の取っ手に手をかけたところで、「お前さ」とテノールが僕?を呼び止めたその時、未だ汚れている尻孔の奥が窄まった。振り返ってしまった先の男は壁を見ている。黒板に貼り付けられた奇書と称される手稿のコピーを眺めるそぶりをして、私?に視線を合わせはしない。
「やっぱいいや。話すことじゃなかった。あの子が待ってるんでしょ?早く帰れば」
「…また勝手なことを」
「何、俺と話したかった?」
「…馬鹿を言うな、僕は君なんて嫌いだよ」
「へぇ、その嫌いな男とセックス出来るんだ。好き者だね、いや、やっぱり性に関心のある普通の男なんだね、って称するべきかな?」
違う、僕じゃない。
その言葉を飲み込んで僕は引き戸を開けずに立ち止まった。開けたら外に聞こえてしまう。誰に聞かれるか分かったものではない会話をこの部屋に留めるために僕は黙り込んだ。後ろで男が「ああ、でもお前じゃないんだっけ」と飲み込んだ言葉を代弁した。完全に見透かした口調で男が背後でライターを鳴らして、やめた、と呟く。部屋の気持ち悪さを思い出したためだろう。そうして男は僕を嬲ることに気を集中させたらしく、「ねぇ」と媚びたように背後で笑った。もう心臓は高鳴りはしない。心は凪いでいた。此処にはこの男に惚れている私は存在しない。ただ目の前の男に嫌悪を抱き続けている僕だけがいた。真っ当な嫌悪ではない、八つ当たりのような嫌悪だった。
「自分が自分だと思えない、ってつまりはさ」
衣擦れの音が響いたと思った時には遅かった。嫌がらせのためならばその気がなくとも他の女を好きだろうと抱き潰せる。そんな気色の悪いことを自慢げに語っていた男の息が耳に掛かった。気持ちが悪いはずなのに身体が色を覚えて跳ねる。嗚呼気持ちが悪い。この男も私も、そして僕も何もかもが。
「お前は自分の人生も行動の一切も何もかもをお前という誰かに転嫁しないと生きられない。お前は何処までも無責任で、孤独に生き続けることしかできない。それだけでしかシアワセを掴めない。そんな甘ったれの結晶がお前。そういうことでしょ?」
「確かにヒトを殺した自分と、男に抱かれて喜ぶ女の自分なんて誰が受け入れられるかって話だよな。わかるよ。かわいそうにな」
かわいそうに、ああかわいそうにとふざけた調子で男が僕を抱きしめて頭を撫でてくる。まるで慈しむようなその手には一切の愛着もなかった。濃藍の目を細めて男が善意で舗装された笑みを向ける。そうしてまた「可哀想に」と僕を称した。何も言えそうになかった。すべてがその通りだったからだ。僕はとうとう笑ってしまった。頭の奥で子供の泣き喚く声が聞こえたような気がした。
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