▼ Prism
下界がやけに騒々しい。この学園で一番空に近いこの屋上からでも、下界の喧騒が嫌でも耳に入ってくる。
多分相当に下界では此処で起きたことでもちきりになっているのでしょう。うるさく人の声が何十にも折り重なっていて、おかげさまでどうしても何を話しているのか、具体的なことまでは聞き取ることが出来ません。けれどもわたしよりもずっと、目の前にいるこのひとはなんにも、なんにも聞こえずにいるのでしょう。聞かないように、しているのでしょう。わたしはよく知っています。この世界にいまだ聞こえてくる音も声も何もかも、もうあなたはわるい夢にしたくてしょうがないのです。わたしは分かっていました。分かっていたので、わたしはうっかりこの屋上の鍵を閉めました。
あなたは屋上の真ん中に落ちていたカッターをずっと右手に握りこんで、フェンスに寄りかかって身体を丸め込んで動かずにいます。わたしはそれをぼんやりと見つめながら、そんなにも握りこんでいたらいつか手をけがしてしまうのではないでしょうか、とひそかに心配をしていました。そんな心配をする次元の話ではないことは分かっていたのですが、今は少しおばかになりたかったのです。わたしだって、こんなことは夢だと思いたくて仕方がありませんでした。あなたは握りこんだカッターに時折視線を向けて、血のついていない刃先に顔をゆがめます。それからまた焦点をなくした瞳で呆然とするのです。けっしてわたしのことなんて見やしません。わたしもわたしをみて、とは言いません。もう何もかもは終わったのです。あなたは間違えた。そしてわたしも間違えました。きっと彼女も間違えました。それだけが、今ここにあるすべてでした。
でもね、わたしはあなたが本当に間違えていたかといえば、きっとそんなことはないと思うのです。これはきっと贔屓目で見てしまっているところがあるから湧く考えなのでしょうが、あなただってあなたなりに一生懸命だったのでしょう。よく知っています。あなたは戦おうとした。わたしが思うほど、あなたは責められることをきっとしてはいません。でも強いていうなら、あなたは責められるほど知っていることが少なかったのかもしれません。分かりません。あなたは、何を言えば自分を許せたでしょう。わたしにはもう言葉を見つけられませんでした。というより、わたしはそんな役ではないのです。いつだってそうでした。わたしはわかっています。わたしは、あなたのヒロインになる役ではない。これは物語の決まりごとです。
何度目か分からないチャイムの音が聞こえました。何回目でしょう。十回までは数えていましたが、十二回目を過ぎたところですっかり回数が分からなくなってしまいました。あなたは動きません。泣いてもいません。あなたはずっと、此処から飛び降りていなくなった彼女のために謝るだけなのです。あなたにはもはやそれしかない。わたしはそれがかなしくてしかたがありませんでした。わたしとあなたがどうなるか、なんてわたしにとっては些末なのです。わたしはただ、あなたに幸せになってほしかっただけなのでした。それさえ叶わないのなら、この世界はどれだけ残酷だというのでしょうか。
「せんぱい、行かないんですか?」
「ごめんね…柘榴ちゃん、本当にごめん…」
「せんぱい」
「オレがちゃんともっと見てたら…」
「せんぱい」
「……」
ずっとどこにも行けず、帰ることもできずただ体育座りをし続ける男をわたしは眺めていました。どれくらいそうしていたでしょう。わたしはいつしかぺたりと座り込んで男を眺めていました。かなしいです。非常に悲しい。誰も救われないなんて、こんなことがどうして許されましょう。ここは、天国ではなかったのでしょうか。ねぇ、神様。
「…ほのかちゃんごと、嘘にしてしまってもいいですから」
「ちゃんと、行くべきところに連れていってください」
「このひとをしあわせにしてください」
「たすけてください」
「おにいちゃんを、たすけてください」
どこかで見ているかみさまを見上げます。
目が合ったような気がしましたが、そこにはやっぱり晴天しかありませんでした。それでもわたしは願うのです。願うのです。願うのです。
願うのです。
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