新訳:Reflection


▼ *

 「大丈夫か」

 瞼の裏が急に明るくなったと同時に上から男の声がして薄目を開けた。ぼやけたセピア色の視界の中心にデカい人間の影を見つける。オレは手探りで枕元に投げていたはずの眼鏡を探し当ててツルの部分を掴んだ。いつもそうしているように眼鏡をかけると声の通りの人物と目が合う。いや、おそらくはもっと前から合っていただろう。オレは二段ベッドの天井に頭をぶつけないように起き上がりながら一言「微妙」と吐いた。武智が思うよりは大丈夫だろうが、違う意味ではまったく大丈夫ではない。ちらりと卓上に置いているデジタル時計を見やると、ふて寝を決め込みだしてからすでに四時間程度は経っているということを悟った。武智が横並びになっている学習机の左側に腰を下ろしたと同時にガサ、とビニールが擦れる音がした。そこオレの机、と思ったがわざとだろう。こっちをちらちら見ながら武智がビニール袋の塊をオレの左側に放り込む。昆布のおにぎりとハムサンドとほうじ茶。なるほど確かに食堂はもう閉まっている。でも食欲が絶望的になかった。しかし、目の前の男の圧も半端ではない。

 「食べておけ。少しはマシになるだろ」
 「…ありがと」
 
 ベッドの上とか気にせず膝の上でサンドイッチを開封する。三組あるうちの卵が入っていないほうを適当に噛みながらぼんやり目の前を眺めると、武智が携帯で文章を打っていた。多分またあの子だ。早朝だろうとオレでさえもが寝ている時間だろうと見境なく着信を鳴らしてくる武智の彼女。本人は「彼女じゃない」と首を振っていたけれど、俺は彼女じゃないならそんな女は着拒をして然るべきだと思う。四月の真ん中を過ぎたころから武智につきまとうようになった隣の高校の女子は、オレは会ったことはないけれど会わずとも分かる。俗に言うメンヘラ。別に武智でなくてもよかったんだろうに。武智も別に構う義理だってない。なのに武智は関係を絶たない。
 
 「…武智さぁ」
 「なんだ」
 「例の子…春日井ちゃん、だっけ。あの子のどこが好きなの?」
 「…藪から棒にどうした」
 「いや、なんとなく気になって」

 はあ、と深いため息を武智が吐きながら携帯を閉じる。考え込むように下を向いた武智を最後にオレはサンドイッチに再び視線を落とす。武智隆博は真面目な会話をしている時、時折三分くらい黙り込むことがある。中学の頃は会話を切ったのだと思って緑疾と二人で違う話題に切り替えてしまうことがあった。気付いたのは高校に入ってからだろうか。黙り込んでいるときの武智は考えているだけで、こいつの中では会話が終わっていない。分かるようになったから待てるようになった。そして今日もオレは待ったのだ。サンドイッチが手元からなくなるころ、武智はようやく口を開いた。

 「…春日井は別に、好き嫌いで考えたこともない」
 「メンヘラなのに嫌いじゃないんだ」
 「いや、その点は流石に」
 「なんだ、武智もメンヘラの癖はないんだ」
 「…その次元じゃない、と言えばいいか、……ハァ」

 ため息を最後に武智が頭を抱え込む。苦悶した横顔で呟くように「その次元じゃない」を繰り返した。ずいぶんと難しいことを聞いてしまったらしい。葛藤をし始めた武智にオレは自分を見た気がして、思わず質問を重ねた。あの子はお前の何なの、と。武智は「わからない」と苦しそうに首を振った。その姿はおおかた、オレのそれとよく似ている。

 オレは、あの子の何だろう。

 今月ずっと何百回となく考えた問いだ。下手をすると今日だけで五十回は考えたかもしれない。いや、ちょっと盛ったな。二十回は考えた。でもまったく答えは出そうにないのだ。どんなにきれいな言葉を持ち出したところで「所詮」という前置きが全部を台無しにする。だってあるとしても所詮は同族意識だ。全部そっからはじまったものでしかない。オレにとってあの子はもう一人のオレみたいなものだ。オレは自分を救いたいだけだ。現状はそうでしかないんだ。でもそれってそんなに悪いか。同じ陰を背負うものに引かれる。それってそんなに罪深い恋の落ち方か。

 「…ごめん、ちょっと、家帰る。これ道で食うわ」
 「…そうか」
 「悪いな、変な質問して武智まで道連れにして」
 「いや。こっちも少し」
 「…そっか」
 
 オレが立ち上がったと同時に武智が自分の席に移動する。なんかマジで申し訳ないことをしたな、と思ったけど、お互い向き合って心情を吐露しあうようなキャラではないということは数年の付き合いで十分にわかっていた。依然重い足取りで寮を出ていくまで、オレは廊下にあの子がいないかを視線で追った。ちゃんと帰ってきているだろうか。時宮ちゃんのことに気が付いただろうか。今頃泣いてはいないだろうか。…オレはこんなことをしていていいのだろうか。いや、こんなことをしていていい以前に、オレに何が出来るっていうんだ。ああ、いや、けど。

 「…あー…」

 夜風に当たったところで変な声が出る。溜め息というか泣きたいというかモヤモヤするというかどうにも色々と悄然としない。少し、いやかなり冷静になりたい。けど駄目だ、どうしても頭が冷静じゃない。別に一度眠って考えればいいだけの話だ。そんなことはよくわかっている。でもそれをしたら何かまずいことが起こるような気がする。それは本当に気のせいか?

 なんだろう、どうしてか、すごいこのままだとまずいことが起きる気がする。

 虫の知らせというか勝手な直感だ。でもそれがまずいことをしたからなのか、それとも本当に状況がよくないのか頭が働かなくてうまく判断が出来ない。ただなんか、ヤバいことが起こりそうな気がしてならない。オレは本当に家に帰っていいのか。家に帰ってうだうだとあの墓場で頭を抱える。本当にそれでいいのか?それで、明日には何かけじめをつけられるのか?この数年、同じ問題に一人で悩み続けて結局まともな回答を見つけられなかったオレに。
 寮から離れ公園まで来たところでさすがに足が止まる。街頭に照らされるベンチに引き寄せられるように座り込んだところで、オレは太ももに手を着きながらスマホのロックをスライド解除した。電話帳のアイコンをタップしてすぐさま表示される一行目の名前を指で押す。正直負けな気はした。負けのような気はしたけど、でも間違っていない行動のような気がした。電話番号をダイヤルする音が四回くらい響いたところで『…はい?』と眠そうな声が耳に届いた。何故か知らないけれど、ちゃんとその男が出てくれたことに一瞬ものすごく安堵した。「安藤?」と確認を取ると、電話の奥から『僕以外が出たら怖くない?』と茶化すような笑い声が静かに響いた。確かにそうだ、と少しつられる。笑い声が収まったところで、向こうは用件を分かっていたらしい。勝手に『今日だったね』と分かったように話題を出した。

 「これは考えを整理したいだけの通話なんだけどさ」
 『うん』
 「オレフラれたよ。時宮ちゃん以外要らないんだって。いついなくなるかもわかったもんじゃない信頼できない人間はそばに置けないって」
 『うん』
 「…時宮ちゃん、退学届け出されたって」
 『……』
 「でも流石に自信なくてさ、オレこれ以上何言えば正解になるのか真面目に分かんなくて。正直こっちだって傷つきたくないし。諦めないって啖呵切ったまではいいんだけど、でも心はとうに折れてるっていうか」
 『…うん』
 「分かっていたことでも口に出されて曝け出されると案外キツかったっていうか、なんにも知らないんだなオレって思うと馬鹿げてくるっていうか」
 『……』
 「…オレこれ以上、あの子に期待かけていいのかな」
 『凪』

 慈しんでくるような声が耳に届いた。やめろよ気持ち悪いな、と平時なら背筋を粟立たせていたところだろう。けども今のオレの心は大分弱っているところがあった。普通にうん、と返事をする。安藤はまるで年上の教師かカウンセラーのような諭してくる口調で、それでも友達の言葉で『変わったね』と笑った。

 『昔さ、お前のこと見ないふりをしている奴って言ったの覚えてる?』
 「ああ、お前の大好きなオレへの罵倒文句だろ、一言一句覚えてるよ」
 『凪は見えないんじゃなくて』
 「見ないふりをしてるだけ、知ってるよそんなこと。オレだってそんなことしたくてしてるわけじゃない。お前に言われなくたって分かってるよ」
 『でも今年は何とか見ようとしてるなって思ってたよ。僕の背中の押し方があまりに下手で申し訳なかったけど。ていうか、僕が背中なんて押さずとも凪は一人で何とか出来ただろうね』
 「…それは買い被りすぎだろ」
 『そうかな?キミほど欲求に忠実な男を僕は知らないけど』
 「……」

 足を組む姿勢に変えながらスマホを持つ手を持ち替える。向こうも無言になったオレが面白いのかベッドのスプリングをきしませながら笑っていた。お互い姿勢を変えたところで「分かってはいる」と会話を続けた。

 「まだどうにもなってないんだ。向こうは別に、本当にオレが嫌でオレをフッたんじゃない。そもそもフラれたかっていうとそれはわりと語弊がある」
 『そうなんだ』
 「描きたくても描けないのと一緒なんだよ。やっぱりどこまでも一緒なんだ。柘榴ちゃんは怖いだけで。…お前これ絶対本人に言うなよ?」
 『言わないって言ったら殺されるよ。真面目な話を人に漏えいする趣味はないから。それで、凪はそんなどこまでも一緒の城ヶ崎さんにどうしたいの?』
 「…オレは、」

 なんとなく脳裏に今年の春の景色がよぎった。掠れたような声で初めてオレの目の前で笑ったあの子を見た時のこと。オレがいよいよ城ヶ崎柘榴という女の子を好きになってしまったあの鮮やかさを思い出して、息が詰まりそうになった。――「助けたい」、と声に出した願望は女々しくも涙声になりかけた。それでも、安藤慶はもうオレを笑いはしなかった。

 「何もできないよ、オレなんて。所詮四月からの知人で先輩後輩だよ」
 『うん』
 「時宮ちゃんが言うほどの未来なんて想像できない。結婚とかそんなん話飛びすぎだし、そもそもそんなに柘榴ちゃんのこと知らないし向こうだってオレのことなんて知らないと思う。一緒にいたいって言ったって、来年にはどうなってるかわかったもんじゃない。何の保証もできない」
 『うん』
 「でも今思ってることを不確定要素ごときでナシとか無理。そんなん逆に後ろ向きじゃん、もうそういうの流石に、それこそ悲劇ぶってて気色悪い、だから」
 『凪』
 「オレ、足掻くよ。最後まで」

 突然の決意表明に電話越しの声はまるで自分のことのように嬉しそうな声を出した。「凪なら大丈夫」とこれまた過度な期待をかけられる。それでも、決意の固まった今は不思議と本当に大丈夫なような気がした。頑張れる。とりあえず寮に戻って、部屋に引きこもっているようだったら明日から。まだ墓地にいるなら今度こそ連れ戻そう。そう決め込んだところで安藤に流石に礼を言う。「まだ早いよ」と笑ったのを最後に通話は終わった。オレは深く息をしてレンズ越しの景色を改めて睨む。

 直感通り事態がすでに動いていると知ったのは、墓地にも彼女がいないと知った時だった。

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