新訳:Reflection


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 人の声や車の音、生活音という喧騒で掻き消されていた虫の声や風の音がやたらと鮮明に聞こえてくる。葉の擦れあう音と砂利道を歩く音がやたらと反響するそこは、人の生活とあまりに離れていた。
こんなところに来るのは盆と彼岸の時と、じいちゃんの命日くらいだ。きっとオレ以外の人間もそれはほとんど例外ではないだろう。時季外れに踏み込んだ墓地はあまりに寒々しい。その寒々しい墓石の並ぶ灰色の世界に、鳴り響くのはオレの足音とキミの小さな嗚咽だった。多分、人が来たことにも気付いていただろうに。そもそも泣きたくなんてなかっただろうに。それでも涙の止まらないといった様子で、キミは墓石の前に蹲っていた。じっと動けず、何の言葉も発せられずにいる震えた背中は先日見た時よりもずっと小さい。吹けば飛んでいってしまいそうなか弱さにオレはただじっと黙り込んだ。こんな時だ。もう少しせめて日が出ていればよかったのに今日は少し太陽は遠くて、風も場所が場所だからかいつもよりは少し冷たい。キミはいつから此処にいたのだろうか。わからないけど、ただ、このまま呆然と突っ立っててもなにも変わりそうにないということだけは確かだ。オレはようやく足を前に出す。砂利を踏んだ音が響いた途端、キミの肩がぴくりと動いた。

 「…風邪引くよ」
 「……」
 「…手を合わせていいかな」

 無言で石碑の中心から少しずれた委員長ちゃんに甘んじて、オレは石畳の上に進む。立派な墓だ。多分先祖代々ここに葬られてきたのだろう。戒名が記された石の板には六人ほどの名前が刻まれていた。そこには同年に揃って祀られている二人の名前も刻まれている。長すぎて覚えられない戒名よりも、その男女の年齢がまだ三十代前半程度だということに意識が行った。供物台の花束は新しく、石碑もよく磨かれている。でも線香はとうに燃え尽きていた。オレはそれを見止めたところで目を閉じる。何を祈るということもなくただ目を閉じた。語りかけられる言葉もない。儀式的に数秒の黙祷を捧げたところで、柘榴ちゃんが立ち上がったような衣擦れの音が背後から響いたために目を開けた。オレは彼女のほうを見ずに「帰ろう」と促す。返事はなかった。少し振り向いた先で、彼女はじっと戒名の板を眺めている。その眼はあの夜と同様に、あの時よりも伸びきった前髪で隠れていてよく見えない。

 「…何の前触れもなかった」

 諦念に満ちた小さく低い声だった。

 「朝早く起きて、隣の道場で父と瞑想をする。澄んだ朝の空気と薄日を身体に浴びながら、今日もいい日になるぞと父に頭を撫でられる。…あの時、私はどうしても牛乳が嫌いだった。給食を完食出来ないことが悔しくて、そのことを打ち明けると母が、朝に牛乳を私に飲ませるようになった。毎日一口ずつからはじめて、あの日はコップ一杯をようやく飲めた日だった」
 「……」
 「お母さんは、私の頬を両手で包んで『頑張ったね』と私の名前を呼んで笑った。それだけで、あの日は私にとって良い一日だった。そうなるはずだった」
 「…もういい」
 「授業では先生に褒められたんだ。私は理科が得意じゃなかった。でもあの時は自信がなくても私は授業で手を挙げたんだ。そうして褒められた。嬉しかった。夕食の時に話すことがまた増えたと思った」 
 「もういい、」
 「良い一日に、なったんだ。なのに」
 「柘榴ちゃん!」

 虚ろな表情でどこでもない場所を見つめる彼女の背中を引き留めるようにオレはとっさに抱きしめた。平生だったら殴られていてもおかしくない、裏拳を受けているはずの行為だ。それでも離したくなかった。掴まないと、このままこの場所に彼女が浚われていくような気がした。空気を含んだ苦しそうな声で、腕の中でキミが「夢だと思った」とぼんやりとした言葉を震わせた。
 
 「今も分からない。分かりそうにないんだ。何故二人だったのか。何故私ではなかったのか。何一つ分からないままだ。ただ一つだけ分かったのは、この世界は理不尽だということだけだった」
 「やめてくれ、」
 「わたしだって死にたかった。何故私だけが生きているのかがまるで理解が出来なかった。二人のために、死者のために生きなければいけない。理解は出来ても納得は出来ないままだ。…それでも強くなりたかった。強くならなきゃいけなかった。…生きなきゃ、いけなかったから」

 オレはその強い語気を前にようやく気が付いた。泣いていない。これだけ泣きそうな声色で、震えた体で、それでもキミは泣いていなかった。一度震えを止めたキミが、次の瞬間にオレの拘束を振り払う。そうして石畳の上でオレと対峙したキミは、「要らない」と赤い目でオレを睨んだ。一瞬、それがどういうことか理解が追い付かなかった。柘榴ちゃんが見せたことのない下手くそな笑みを向けてくる。嘲笑ってくるような、というよりは自嘲をこめた悲しい笑みだった。キミはそれで自分は泣いていないと、本気でそう思っているのだろうか。

 「どれだけ大切にしても、どれだけ守りたいものがあったのだとしても、私は所詮あの時と変わらない弱い子供のままだ。貴様が言った通り、私は強くなんてない。いくら強くなりたいと望んだところで、手に出来るのは物理的な力だけで、精神的なところは一向に幼子と変わらない。…それでも幼子なりに出来ることはある。――本当に守りたいものは何か、その本質を見極めることだ」
 「…何言ってるの」
 「私にとっては紫苑がそうなんだよ。あの子がいたから私は生きることが出来た。帰れずにいた家に、あの子となら一緒に帰ることが出来た。絶望の中で、紫苑だけが今も私の、…だから、私には紫苑さえ居れば、それでいい」
 「待って、そんなの身勝手だ。ていうかそんなんじゃ、ずっとどうにも」
 「これ以上何が変われば私が救われると言うんだ?貴様がいるから、だから何だと言うんだよ!」
 「…いや、」
 「やめてくれ、聞きたくない」
 「聞いて」
 「私はこれ以上失いたくない!!」
 「オレだってキミを失いたくない!!」

 もう一度オレは彼女の腕を掴む。いつもは甘んじて受けてきた払い除けも力を込めて押さえつけると、キミは一瞬はっと目を見開いた。そりゃあそうだ。いつもはオレが一方的に暴力を振るわれていただけだったけど、なんだかんだいってキミとオレは女と男だ。いつもは許していたけれどオレは今日は絶対に許さない。腹の奥が煮えくり返っていた。自分が我が儘だってことは自覚している。でもキミだって我が儘だ。我が儘だし、下手すればそれはオレ以上に身勝手だ。失いたくないからたった一つだけに絞り込む?そんなことが、人間に出来ていいわけがない。キミの本音はそこじゃない。もう十分に分かったよ。キミはオレが好きなんだ。

 「いい加減にしろよ、逃げないでよ。なんでオレが突然いなくなるって決めつけるわけ?居なくなったりなんてしないよ。キミが一番恐れていることをオレは絶対にしない」
 「…離せ、やめろ」
 「やめないって言ったじゃん。せめて納得してくれよ、オレはキミの両親じゃないんだ」
 「…やめて、…おねがい、やめて…」
 「……」

 まるで殺人鬼でも前にした少女のような顔で柘榴ちゃんが泣きだす。そこにオレが見ていた委員長ちゃんの影はどこにもなかった。ああ、これがキミの本当の姿か。オレが奥底に見ていた薄暗いものの正体。見たいとは思っていたけれど、やっぱり見たくはなかった。オレは諦めたように掴んでいた手を緩めて、彼女から離れる。ご両親と先祖の前で相当なことをしたな、とここで気が付いたけれど生憎オレは見えないものは信じない主義だった。分かった、と呟くように返事をしたオレの声は、自分でもびっくりするほどに名前の通りのそれだった。

 「でも柘榴ちゃん、オレは諦めないから」
 「……」
 「キミがしつこくオレに付き纏ってきたことの逆をこれからも続けるから。キミが納得するまで。それかキミがオレを嫌いになれるまで」

 依然として無言を貫く柘榴ちゃんに背を向ける。帰る、と声をかけたところでキミの返事はなかった。砂利を踏みしめながら重い足取りで彼女と一緒に帰るつもりだった道を一人で歩く。予想よりも重いこの状況に心臓が潰れそうだった。さわさわと揺れる風の音だとか、固く歪な砂利の感触が次第に心の熱を冷やしていく。墓地を出て住宅街に戻ってきたころには冷静さを完全に取り戻していた。まだ日が暮れるには早い時間だったことがまだ救いだったかもしれない。ここで夕暮れ時だったら完全に心がやられていただろう。いや、すでに遅いか。あの子を前にしたときの激情はもう何処にもない。肺を満たすのはただただ、失意しかなかった。

 多分、三十分にも満たない邂逅だった。そのたったの三十分程度に打ちひしがられていた。やっちまった。とうとう言われてしまった。突き放されてしまった。有り体に言うとオレはあの子に「お前なんていらない」と言われたのだ。冷えた頭がぐるぐるとネガティブに突っ走りはじめる。駄目だ、と思ったけど止めるすべはなかった。コントロールできたならもっとうまく生きれてる。出来ないのは、それだけ自分が本気だったからだ。本気で、ぶつかってしまった。ぶつかったけれど、でも、彼女には届かなかった。あの時と同じだ。あの時も、オレはどこまでも本気だったのに、でも。…あ、ヤバイ。泣けてきたかもしれない。気が付いたら何処を歩いているのかももう覚束なかった。そもそもどこに帰ろうとしているのかすら分かっていない。ただ歩いていた。それだけだった。

 「…貴様、何しているんだ」

 不意に後ろから声をかけられた。子犬のような高い声をぐっと押さえつけたような冷徹な少女の声に振り向く気力はなかった。貴様。そうやって呼んでくる女子をオレはこの世に二人しか知らない。やめてくれ。一人にしてほしい。今は何も喋る気力もない。冷静だけど、冷静じゃないから。突っぱねたかったけれど、その気力すら湧かなかった。当然オレのそんな心情など知ったこっちゃない彼女、時宮紫苑は「柘榴のところに行ったのか」と背中に追い打ちをかけてくる。正直なところ、オレは多分この子のことはそれほど得意になれなかった。あの子とおんなじ強気で、当人の力は弱いから物を使って暴力を奮って掴みかかってくるから。やたらと人の事情に絡んでくるから。どうしてだろう。この子と、あの子に何の違いがあったんだろう。分かっているけど、今は少し考えたくない。無言のオレの背中を見て何を解釈したのか、時宮ちゃんはただ「そうか」と嘆息した。

 「なぁ、久条凪。私は貴様のことが嫌いだよ。野郎全般嫌いだ。全員跡形もなく塵となってしまえばいい」
 「…そう」
 「でも私は、あの子のことが好きだ。世界で一番、あの子が好きだ」
 「…だから何?オレなんていなくたって自分がいるからいいだろって、オレに喧嘩でも売りたいわけ?」
 「いいから聞け」
 「…聞いてるよ」
 「私は柘榴とはずっと一緒にいられない」

 諦めの入った、時宮紫苑にしてはやけに静かな物言いに振り返った。そうしてここがはじめて墓地のすぐそばの森林地帯だと気が付いた。思った以上にあそこから離れてられていなかったらしい。そうはいっても遊歩道の真ん中に立ちすくむこの会話は、多分墓地から依然離れられずにいるだろう柘榴ちゃんには聞こえていないに違いない。

 「ずっと家族ごっこをしてきた。私は自分の家族から逃げ、柘榴は新しい家族を求めた。何もかもがちょうどよかったんだ。私と柘榴は、姉妹でも友達でもなんでもなく、ただ私と柘榴でしかなかった。でもそれはいつまでも続かない。柘榴は気が付かないようにしていた、でも私は気付いてた。私たちは、本当の家族にはなれない」
 「…時宮ちゃん?」
 「…今日、時宮の家に退学届を提出されていたことを知った。夕刻には、追手が来る。時宮の家からの。…私は本来貴様らや柘榴たちとのうのうと学生なんて出来る身分じゃない。分かっていた、でも何も、今日でなくたってよかった」
 「…いや、でも、柘榴ちゃんとは、会えるでしょ」

 色々飛んだ話をされていることに気が付いて頭が少しこんがらかった。いや、でも言われてみれば納得のいくところがある話だった。うちもそこそこ昔からある家だったからだ。白崎の歴史なんてものにはあんまり興味はなかったけど、親世代の中ではよく知られている話だ。時宮家。白崎の北地域に存在する陰陽道を司る特殊な一族。どういうことをその針葉樹林に囲まれた屋敷の中で行っているのかなんて定かじゃないけど、その旧家が二十年前に【解放令】のために尽力した組織に関わっていたということだけは確かだ。正直、何をどうしたのかなんていうのまではさすがに知らないけど。…デカい家だってことくらいは分かっている。この街の古い家と言えば、安藤家と白鳥家と、それから時宮家の三つだ。苗字からなんとなく察してはいた。…察してはいたけど、一番デカい家の男が普通に馬鹿な高校生をしている姿を横目で見ていたせいでまさか家出少女とはまるで思わなかった。いや、でもそんな、「会えない」と首を横に振ってるけど。

 「冷静に考えて時宮ちゃんが家出少女だろうと何だろうとバックがいないとさすがに奨学制度使っても入学できなかったよね…?そいつは頼れないの?あまりに急でしょ」
 「いや、その人のことは頼れない」
 「なんで」
 「…分家の人間だ。本家の命令に逆らえるわけがない」
 「……」
 「私が投降しないとあの人たちも解放されない」
 「…いや、じゃあ、こんなことしてる場合じゃ」
 「だから最善策を取りに来たつもりだった。その最善策もどうやら無に帰したようだがな」

 じろりと時宮ちゃんがオレを睨んだ。一体オレはどんな顔をしていただろう。急に見られたその視線の意図が分かってしまったせいでオレは咄嗟に視線を逸らしてしまった。柘榴ちゃんは時宮ちゃんしか欲しくない、と言った。でもなんかよくわからないけどその時宮ちゃんは今すぐ柘榴ちゃんの前からいなくなる。あんまりすぐ飲み込めるような問題じゃない。これじゃあまるで瑞崎女史の二の舞みたいだ。いや、実際そうなんだろう。背景はどうであれ、あの子の前からまた突然に人がいなくなる。…でも、だからってオレは。……。

 「…オレじゃ、ダメなんだよ」
 「……」
 「オレは所詮、三か月程度しか知らない関係だよ。自分でもバカだとは思ったって。釣り合うわけがなかった。釣り合うわけがない、釣り合ったらおかしいんだよ」
 
 もっともなコンプレックスが言葉になった時、何故か不思議と笑えてしまった。おかしい、どう考えても笑える状況じゃないというのに。そしてその認識だけは正しかったようで、オレは気付けば頬に乾いた痛みを受けていた。詰め寄ってきた時宮ちゃんがオレの頬を平手打ちした。それに気付いたのは、男性恐怖症で男を半径一メートル内に決して入れたがらなかった彼女が、オレにつかみかかって鬼のような形相で叫んでいるところを見た時だった。がくがくと時宮ちゃんがオレの胸倉から揺さぶりかけてくる。痛い。痛いって。どこがって。心が。

 「私は貴様なんて嫌いだ。男の中でも特に貴様のことがいっそ殺してやりたいほど嫌いだよ!!それでも柘榴が貴様を選んでいる。信じるしかないんだよ、貴様を。お前ならいいって、思いたいんだよ…」

 分からない。
 柘榴ちゃんに選ばれているとか、そんなの恋人でもなんでもないただの先輩後輩同士でしかないオレがどうして確信できるだろう。選ぶ選ばないって、信じるしかないって。オレはまだあの子と始まってもいない。ただの高校生だ。それも来年の春にはオレはもう学園どころか街にすらいない。進路希望は一年の頃から本州にしている。それを彼女がどうとかそんな事情で変える気はない。そもそも彼女なんてものを作る予定もなければ、好きな子とどうにかなることも予想してなかった。そんなオレに、いったいなにを期待してんの。期待だけさせて、持ち上げて、それでその先は、どうなるの。ああほら、だからさっきのオレは考えなしだったんだよ。期待しないで。フラれたならフラれたで、諦めきれたらよかったのに。でもそれじゃあダメだと思ったんだ。分からない。オレはどこまでをあの子に求めていて、どこまでを求められているんだろう。

 「今更失望させないでくれよ」

 オレだって自分に失望してる。もっと言うとあの子にさえも失望してる。
 それは果たして言葉に出来ただろうか。もはや記憶はおぼろげだった。いよいよ泣き出した時宮ちゃんを前に、オレは最後に何を言って別れただろう。その先のことは少し、精神が追い付かなかったせいでやけに遠くて覚えていない。


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