新訳:Reflection


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 放課後にはアトリエに行く。それが何故か最近の習慣と化していた。あれだけ避けていた場所に自分から足を運ぶようになってしまったのはいったいどうしてなんだろうか。いや、いったいもなにも思うことがあったからなんだけども、その「思うこと」については結局なんの解決もしていない。それでも、オレは放課後にはアトリエに行く。たとえ美術に関係の無いことをしに行くのだとしても、それが笑われることだと分かっていても。
 しかし今日のオレはこの昼休みという時間にアトリエにいた。本来、その時間にアトリエに行くことは暗黙の了解で避けあっているらしい。ていうか、安藤が「行かないでおく」と微笑んでいた。麻生君に会いたいのは山々だけど麻生君の友達を作る機会を奪う訳にもいかないし、自分たちが行くことで斎藤君の集中力が削がれているだろうから昼くらいそっとしておきたいとかなんとか。まったく変なところで変な配慮を働かせるクソ野郎だ。まあ、オレはその配慮を今破ってしまっているわけだが。
 無言でやってきたオレに斎藤遥はなんの文句も言わなかった。デカい鯨の背を描く斎藤遥は、決してオレに振り返りはしない。そういう男だった。昔から、そういう野郎だった。黙々と自分のやりたいことを信じて突き進んでいける。自分の世界を表現することに事欠かない男で、常にそこには芸術を愛する信念があった。難しい言葉を使ってごちゃごちゃとした言い回しをしてくるが、結局のところ斎藤遥は芸術が好きなのだ。それはきっと、オレもそうだった。いや、そうなのだ。…いったい何処で、オレだけ外れてしまったのだろう。

 「…主体的じゃん、随分。微妙にラッセンから外したところが斎藤君らしいね」
 「鯨は生態系に大きく影響を及ぼすと聞くからね。だが、君なら違うものを描くんだろう。『君だったら』」
 「ああ、まあ、ね。…『オレだったら』奥の沈没船を主体に描いてたかもしんない。なんとなく」
 「…メメント・モリでも主張したいのかい?」
 「いやそこまで考えてはなかったけど」
 「いつもそうだ。君は軽薄そうな顔で薄暗いものを描く」
 「そんなこと言ったら斎藤君だって陰キャの顔で陽キャの絵じゃん。ギャップだって」

 くっと背中が震えたのが微かに見て取れた。まあオレも笑っちゃったせいで、あまりちゃんとその笑い声は聞き取れなかった。少しの笑いが尽きたあと、アトリエは再び静まり返る。鯨の背に点描を施す斎藤君は、しんと静まったアトリエで、「仮に、」と次に声を発したのは斎藤君だった。安藤が居なくてよかった。あいつ、ここにいたら「斎藤君が喋った!」と無駄に驚いていただろう。オレは「うん」と頷いた。

 「もし僕が腕をなくしたら、僕はおそらく足で描こうとする。片腕が残っているなら、片腕だけでも描く」
 「…うん」
 「視力を失えば塑像を作る。声しか残らないというのなら、口述して小説を書こう。心臓が止まるまで、僕は芸術をする。人間は、芸術が出来る唯一の生命体だ。僕は死ぬまで、芸術をする」
 「……うん」
 「だけど、きっと、…もし僕が本当にこの手も目も失ってしまったら、その時は恐らく、僕だって、」

 息を飲んだ音が微かに響いた。オレは瞑目して「もういいよ」と首を振った。わざわざ聞きに来てしまったことを少し後悔した。でも、それがずっと聞きたかったのだ。ずっとずっと、オレは多分この男とこの話がしたかったのだ。オレは認められたかったのだ。キミと同じく芸術をあの時から愛していたのだということを、誰よりも認めて欲しかった。実際の会話はあまりに重々しく、これ以上ないほどに続けられないものだったけれど。
 斎藤遥はその先は言わなかった。オレも言われなくたってもうわかっていたから最早何も言いはしなかった。オレは鯨に点描を打つ背中をチャイムが鳴るまでずっと眺めた。



 何か気持ちが決まったかといえば、そんなことはない。描けるかといったらそんなのは分からないし、向き合えるかと言えば、それも分からない。そんなのはキャンバスの前に立ってみないと分からない話だし、喋ってみないと分からない話だ。わりと人生適当にやってきている自覚はある。でもそんなに考えていると多分オレは動けなくなるタチだというのは最早自分でも自覚できている話だ。こういうときのオレは、行き当たりばったりでいくのがちょうどいい。
 思えばこんなことをするのは人生ではじめて、というかこの学園生活ではじめてのことだった。なんだかんだいって学校の外を出るといかに寮の部屋が上下で隣同士とはいえ、生活リズムも階も違うしそもそもプライベートであることからオレは寮生活においては委員長ちゃんとは滅多に話すことがなかった。向こうがどう思っているかは知らないけど、少なくともオレは私生活でもオレなんかが構ってしまうと彼女の周りに悪い噂が経つような気がして申し訳なかったのだ。そもそもオレと委員長ちゃんは友達ではなかった。面倒くさい関係の先輩と後輩、でしかないのだ。お互いにきっとそうだろう。そんなオレが、食堂で一人でテレビを見ている委員長ちゃんに話しかけに行くなんて、してよかったことなのかは分からない。

 「委員長ちゃん」

 アニマル番組に釘付けだった視線がこちらに向く。和装でも制服姿でもなく、普通のVネックの長袖に長いスカートを着ている委員長ちゃんは珍しくも髪を下ろしている。けして見慣れていない訳でもない。たまにそういう姿をしている所を寮内で見かけることはある。けど間近にするとその破壊力はだいぶ違った。そんな思春期男子の心情など知らないであろう委員長ちゃんは「凪か」と普段と変わらない鋭い視線をこちらに送ってくる。オレは「少しいいかな」と食堂の窓――即ち、外を指した。委員長ちゃんは訝しげな視線で俺の指さした方向と、オレの顔を見る。やがて何かを悟ったらしい顔で、「分かった」と一言呟いた後に椅子にかけてあった薄手のニットカーディガンを羽織った。いや、夏にそれはどう考えても暑いと思う。実際、外に連れ立って出たのちに彼女はすぐにそれを脱いだ。ほら見たことか。思わず口に出すと、委員長ちゃんは「うるさい。まだ肌寒いと思っていたんだ」と薄闇の中でむきになったように怒った声をあげる。はいはい、と言いながらオレはやっぱりちょっとドキドキしていた。何せいつもの喧騒が遠い。公園まで来て、こんな蝉の鳴く声しかしないような場所で一体何をするっていうんだか。あまりの青春恋愛アニメのような名場面環境にさすがに心が浮つく。けど、オレがしたいのはそんな浮ついた話ではなかった。寮から少し離れたところで立ち止まって、オレは「ごめん」と一言呟いた。委員長ちゃんも察していたらしい。向かい合った先の委員長ちゃんは、ばつが悪そうに目を伏せて、やがて「いや」と呟いた。こちらこそ紫苑がすまない、と言う彼女の声はどこか上ずっていた。

 「あいつは昔から少しお節介なんだ。あいつのほうがずっと抜けてるくせに変なところで人の心配をしてくる。まったく困った奴だ。迷惑をかけたな」
 「…いや、大した迷惑は掛けられてないよ。ていうか、オレこそごめん」
 「やめてくれ。貴様が謝ることなど何もない」
 「……」

 いざ、こういう時が来てしまうとどういう言葉をかけたらいいのかが分かりそうもなかった。強い語調でオレの言葉の先を封じた柘榴ちゃんの表情は闇夜と前髪に隠れてよく見えない。…ダメだ。このまま何も言えずにいたら、きっとこの子は帰ってしまうだろう。違うんだ、オレは別に知ってしまったことを謝りたくて呼び出したんじゃない。詰まりそうな声をなんとか絞り出して「違う」となんとかようやくの言葉を発する。目の前にいる柘榴ちゃんは、「…は?」と伏した目をこっちに向けた。いや、確かにまあそうだ。何が違うんだ。何も違う話じゃない。キミにとってはそうではないのかもしれない、けど。

 「オレ、キミのそんな顔が見たくてこんな話をしてるんじゃないよ」

 タイミングよく温い風が通り抜けていくのを肌で感じた。蝉の声がやたらと遠くなる。暑い。熱いのは本当に、この季節のせいなのだろうか。それはどうにもわからない。ただ、一度出た言葉はもう取り戻せないし、止めることも出来ないということだけは確かだった。

 「そんな泣きそうな顔で笑わないでくれよ」

 そもそもがいつも仏頂面か怒った顔かしか見せないキミの作り笑いはあまりに下手くそだった。その下手くそな引きつった笑みがふっと消えていく。唇を真一文字に結んだ委員長ちゃんは、「べつに」と芸能人よりもそっけない態度で背を向けようとする。逃げかけたその腕をオレは咄嗟に掴んだ。夜の公園で女子と二人きり、身長差のある男が女の子の腕を捕まえる。やべぇ絵面の自覚はあった。でもなりふりは構っていられない。絵面と実際の思惑が違うんだから尚更。

 「泣きたいんなら泣いていいんだよ。無理に土足で荒らしたオレのことだって責めればいい。いつもみたいに怒鳴っていいよ。なんで逃げるの、向かってきてくれよ。それが、委員長ちゃんでしょ」
 「…離せ、やめろ」
 「いや、違うなキミは本当はそんなに強くない。分かってるよ。分かってる。分かってたよ、四月から気づいてた。キミは強い子なんかじゃない。普通の女の子だ。分かってるよ、だから隠さなくていい、それだって委員長ちゃんだ。ねぇそうでしょ?」
 「…っやめてくれ!」
 「やめない。オレ、キミのこと好きだよ」

 もがくように左腕から暴れていた動きがぴたりと止まった。信じられないとでもいうような黒い目がオレを見上げてくる。見ないで欲しい、と思ったけれど隠す訳にもそらすわけにもいかなかった。だってこれだけが真実だったのだ。キミに対する感情の中で、唯一まっとうに明かせるものなんてこれくらいしかない。

 「確かに委員長ちゃんはすごく怖いし乱暴だし正直風紀を乱してるのはどっちだよって思わせてくるくらい乱暴だけど」
 「…おい」
 「でも覚えてる?ずっと前に、なんでそんなに風紀とか規律にこだわるのってオレが聞いたでしょ。オレ、あの時思ったんだ。なんか、すごく全然、うまい言葉になんてできないけど、あの時、委員長ちゃんのこと好きになったんだ。あの時からちょっと鬱陶しいって思ってた風紀委員長が、オレの中で委員長ちゃんになったんだ」
 「……なんだそれ、…なん、なんだ。貴様は、」

 貶されたと思って睨みあげていたはずの委員長ちゃんの目元から力が抜ける。すごいこと言ってるな自分、と内心どこかで冷静に恥ずかしくなりながら、それでもオレは追撃するように「ただ好きなだけ」とありふれた言葉を口にした。でも、やっぱりそれだけだとあまりにも綺麗すぎて、まるで嘘を吐いているような気分になった。いや、実際そうなのだろう。オレは嘘を吐いている。それを自覚して、今度は羞恥が引いて暗い思いが肺を満たしていった。

 「…でも、ただ好きなだけじゃなかった。すっげぇ変なこと言っていい?」
 「…じゅうぶん、変なことを言ってるだろう」
 「はは、だよね。でも多分もっとふざけたこと言うと思うよ」

 薄闇の中で少しだけ頬を赤くしながらそれでもなんとかオレのことを見ようとしてくれる黒い目が、次の瞬間にいよいよ猜疑を帯びた目に変わった。オレはどんな顔をして、今委員長ちゃんに向けて喋っているんだろう。見えなくてよかった。見えていたら、きっとあまりの惨めで話すことをやめていたに違いない。

 「柘榴ちゃんのこと、もう一人のオレだと思ってた。勝手に。いや、思ってる。キミは、もう一人のオレだ」
 「おまえ、」
 「聞いてくれるかな。こんな話でオレが委員長ちゃんの傷に土足で踏み入ったことと釣り合うとは到底思えないけど」
 「…貴様が勝手に話すなら、そうだろう。貴様が話したいだけだ、それは」
 「正直オレもそう思う。どう考えても釣り合わない。でも別に、不幸のマウントを取りたいつもりもない」
 「じゃあどうしたいんだ」
 「…どうしたいんだろう。わかんないや」

 星の見えない闇夜をなんとなく見上げる。確かにそうだ。傷でも舐めあいたいのか。実はマウントがとりたいのか。分からない。ただ喋りたいだけだ。本当に、聞いてほしいだけ。多分その先のことは喋ってみないと分からない話なんだろう。すごく難しく言うと、どうしてこんな告白をしたのか、その理論武装がしたいだけかもしれない。
 しばらく、黙って本当はこの空にあるのかもしれない星座を探した。柄にもないことしているなー、そういえば武智がたまに部屋でアンニュイに空を見ているのはなんなんだろうなー、なんて少しだけ現実逃避をする程度の時間もあった。それくらいの無言が続いた。言葉を切り出したのは委員長ちゃんだった。わたしは、という低くて冷静そうで、でもどこか女の子らしい愛らしさのある声が耳に届いた。

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