新訳:Reflection


▼ *

 夢を見た。夢だと何故かはっきりとわかってしまうようなそんな夢だった。 
 僕は何故か屋上に立ち尽くしていた。どこの屋上なのかはなんとなく想定がつく。昇降口の屋根のほうを見上げると誰が作ったのかまるでわからないが女性の像が飾られていた。誰かが天使像と言っていた覚えがある。それがあるということは、ここは白崎学園の一組棟の屋上であることが分かった。けれど僕は現実でこの屋上に足を踏み入れたことは一度しかない。そしてあの時は景色なんてまともに見る余裕がなかったせいで、フェンスが頑張れば乗り越えられそうな高さの鉄柵だということはともかく、ベンチがあったことが事実かどうかは僕は知らない。なのにやたらと鮮明にその屋上はリアルに映った。そのくせに空には色がなかった。夜というわけではないし曇り空というわけでもない。違う、世界に色がない。この色をどう表現したらいいのかが皆目わからなかった。

 「**」

 誰がの声が昇降口の上から聞こえた。名前を呼ばれたような気がしたけれど、なぜだか僕は聞き取れなかった。見上げた先に天使像はなかった。薄暗い空を雲が流れていくのを背に、天使像の代わりと言わんばかりに天使像に似た女性が昇降口の屋根に腰をかけて笑っていた。すべてが色あせている世界の中で、彼女の長い長い黒髪がなぜか妙に七色に見えた。宇宙を映す瞳で僕を見ている紅い唇を三日月形にしている彼女は、多分この夢の主だ。

 「この夢は、貴方の眼にどう映るのかしら」
 
 どう、って。そんなのわからない。

 「でも駄目よ。あまりいつまでも深く眠っていては。もうすぐ朝が来る。貴方が望まない朝が。そう、時間は貴方を待ってはくれない」
 「…ぼ、くは」

 口が勝手に動いた。自分の喉が震えて聞こえてきた声に僕はぞっとした。それは僕の声ではなかった。

 「僕は、それでも朝を嫌いにはなりたくないよ」

 なんの話をしているんだ、この口は。なぜだか僕の心臓が泣いている気がした。あまりに胸が痛くて、それでも僕はなぜだかその痛みがひどく愛おしかった。こんな感情を僕は知らない。目の前の彼女は、そんな僕を上から見下ろしながら愛おしげに猫のような眼を細める。長いスカートが波打ち際のように揺らめいた。

 「そう、だから私は貴方を嫌いにはなれない」


 「イチ」

 
 そして初めて僕は僕ではなかったことに気がついた。




 目が覚めた時にはどんな夢を見ていたのかをもう思い出せそうもなかった。六時にしてはやけに薄暗い部屋に僕は妙な時間に目を覚ましてしまったことに気がつく。ベッドサイドのデジタル時計を掴んで目を凝らすと、薄闇の中で「04:23」という中途半端な四桁が見えた。なるほどとんだ時間に目を覚ましてしまったらしい。喉がやたらとへばりついているような奇妙な乾きを感じて僕はとりあえず起き上がった。パジャマの下の胴体がやたらと湿っているような気がする。魘されていたのかもしれない。ベッドから這い出て部屋のドアを静かに開けた。薄いドアや壁の向こうではおそらく広香が熟睡しているのであろう微かな寝息が聞こえる。起こさないように慎重に僕は廊下の階段を降りた。
 台所で水道水をコップに注いで水分を補給して、部屋に戻ろうとした時まではわりと思考回路は朧気だった。半分まだ寝ていたせいだ。こういう時の記憶というのはだいたい正しい時間に起きた時には忘れているものであるというのが大抵のことだろう。けれど、部屋に戻ろうと廊下を出たその時に僕の脳は覚醒した。僕がそうしているように静かに部屋の扉を開ける音を立てて、父が、母の部屋から出てきた。僕は思わず動揺して音を立てて立ち止まった。床板が軋む音に父もこちらを見る。夜勤明けだったのか父は寝巻きではなかった。

 「…起きてたのか」
 「あ、うん。…おか、えり」
 「ああ」

 下側で結んでいる父親の長い髪が頷くと同時に揺れた。僕は聞くべきなのか悩んだ。どうして父親は母親の部屋から出てきたのだろう。この二人は部屋を分けて眠っている。なにか用事があって、なんてそんなことは母親にはあっても父親にはきっと滅多なことがない限りはないだろう。この両親の不仲のおおまかな原因は父親の態度からだ、ということは長年の様子から察している。だからこそ余計に。母を避けているはずの父が、どうして寝ている母の部屋から出てきたのだろう。純粋に気になったけれど、僕はなぜだかその答えがわかる気がした。部屋から出てきた父の一瞬の横顔が全てを物語っている。けれど、だったらどうして仲良くできないのか僕にはまるで分からない。なぜだかそれは聞いてはいけない真相がある気がした。父が背を向けたせいで、その機会はとうとう葬られた。

 「まだ早い。お前ももう少し寝ろよ」
 「うん。……おやすみ」
 
 すれ違った先で父が小さく「ああ」と返事をした。どことなく寂しげな優しい声になぜだかひどく胸が痛くなった。どうしてそんな声をするのか、どうしてそんな声に心が痛くなるのか、わかりそうでわかりたくはなかった。僕には、真相を聞くことが恐ろしい。
 縺れる足で部屋に戻って布団の中で丸まった。眠れない気がする、と思ったけれど気がついたら布団の中に日差しが漏れていた。その頃にはもう気持ちは切り替わっていて、深夜の感傷も忘れていた。



 『それでは、平成二十三年度第一回私立白崎学園生徒総会を行います。進行は私、白崎学園生徒会副会長武智隆博が行います』

 なんか普段かたい喋り方をしている人が、敬語になるとどことなくぎこちない喋りになっているのが思った以上に面白くて、退屈だろうと予想していたけれど存外面白いような気がした。体育座りをしながらぼんやりと壇上を眺めると、見た事のある人達が壇上のパイプ椅子に腰をかけているのが見えた。ああしてみるとやっぱりなんだか一組、一組なんだなという感慨が湧かないでもない。壇上で生徒会長からの挨拶を述べているあの男も、きっとやはりすごい人だったのだ。きっと。

 『今日は予算や活動の常々学園生活を送っているだけでは少しばかりか実感の湧きにくい話をすることにはなってしまいますが、それでもこの学園の生徒全員にまつわる大切な話です。なので僕達から望むことはただ一つ。どうか他人事だと思わず、どんな意見でも結構です。何か気になることがあれば是非壇上まで来て意見を述べてください。この学園の運営は僕達だけでは纏まりません。この学園は僕達だけでは成り立つものではありません。それでは、よろしくお願い致します』

 …本当にすごい気がしてきた。入学式の時には熟睡してしまった僕だったが知っている人が喋っているという理由だけで妙に真面目に聞いてしまった気がする。そして向こうもやはりなのだけどちゃんと真面目な話をしてしまっているからそれがまた奇妙だ。放課後にちょっと感想でも伝えていいかもしれない。でも調子には乗られたくない。 
 けどまあやはり学園の運営費だとか予算だとか、そういう数字だけの話だとなんだかちょっと眠たいものがある。何がどう使われた変な天引きは断じてない云々が配られたプリントに書かれているが、目の前に机があったら下手をすると久条先輩じゃなくても落書きをしてしまいそうなくらいその話は退屈だった。支出収入の話が他の部活や委員会にも話が及ぶ。隣で誰かが小さく欠伸をする声が聞こえて、なんとなく僕はそっちを見てしまった。何も意図していなかったのに目が合う。そういえば出席番号が隣同士だったから四月も席が近かったな、ぼんやりとそれを思い出した。有栖川馨が眼鏡のフレーム越しに男のくせに顔を真っ赤にしていた。うん、僕は何も聞いていない。聞いていないよ、大丈夫だから。いや、聞いていたけど。男にそんな女子みたいな顔をされるのはなんだか申し訳なくて、僕は小さく「ごめん」と呟いて壇上に目を向けた。金色の髪のポニーテールの二年生が図書委員会の活動について報告をしている。蔵書のジャンルが専門書に偏っていて現代作家の書く小説が少ないということについて意見が出ている云々、真面目な話が続いている。普通棟にも図書室を作りたいという意向は一応学園側にもあるらしい。ただ僕がいるうちはおそらく実現はされないだろう。頑張って欲しい。
 そのあと美化委員だとかなんとか色々話が出たところでいよいよをもって久条先輩が壇上のマイクの前に立った。いかにもやる気がなさそうなあの人も人前では変わるだろうかと期待したが、わりと口調以外に大した差はなくやるきのなさそうな喋りだった。それはそれでほっとするものがある。予算だとか活動予定だとかそういうことをあれこれと喋った彼は、その他の人よりもかなりの間を開けて『…何か、質問は御座いますか』と僕らに問いかけて聞いた。まあ大体誰も質問なんてないはずなのが常であった。けれどもそこに牙を剥く人がいるということを僕らは知っている。案の定、そうであった。進行の武智先輩が心做しかどこかすごく言いたくなさそうな声で『…文化委員会より風紀委員会から質問が一件届いております。風紀委員長、城ヶ崎柘榴。風紀委員会を代表して質問をお願い致します』と言いながらマイクを彼女に持たせた。本編としかいいようがない。はい、とマイクを握る彼女に全員の視線が向いた気がした。

 『風紀委員会委員長、一年一組城ヶ崎柘榴です。そちらの文化委員会は以前より学園の文化活動の発展と称し、合唱コンクールや演劇発表、学園祭の活動に尽力していることに関しましては我々も肯定的に見ております。ですが、些か我々の年齢にそぐわない公序良俗に反した活動を裏で行うことでこの学園の風紀を乱しているような活動が伝統化しているように思われます。その悪しき伝統について今後改善されることはないのでしょうか。以上です』
 『…ありがとうございます。それでは文化委員会委員長、久条凪より回答をお願い致します』
 『はい。その伝統が悪しきものであるというように捉えられがちであるということに関しては、我々文化委員会も重々承知しております。しかし現状で、我々が率先して自ら創作物を制作し学園内外問わずに頒布していくという活動を廃止することは考えてはおりません。何故なら』

 部屋の室温が二度ほど下がった気がした。おかしい、つい最近まで猛暑について愚痴っていたというのに今はこんなにもなぜだか背中が冷たい。久条先輩は壇上に腰掛けて睨んできている城ヶ崎さんからなるべく視線を逸らすように右側に頭を傾けて話を続けていた。

 『寛政の改革からはじまる出版統制の歴史がある以上、文化の発信を行えることということは当たり前にできることではないということを我々は代々先輩方から教えられてきました。しかしそれはあってはならないことであると我々は強く認識しております。人が人の個人の思想も感情も口に出来ない人生になんの価値がありましょうか。だからこそ我々はたとえ安政の大獄や治安維持法などの暴政が再び起きようとも、己の思想を言語や絵で語り続けることで生徒達にも「文化の発信」という行為の重要性を体を張って証明し続けようという強い意志を以て活動しております。しかし我々も別段、頒布活動は確かに集団で行っておりますが個人の書く頒布物の内容については互いに干渉しあっておりませんので。…まあ、その頒布物の中に風紀を害するものがあるという可能性は無きにしも非ずでしょうね』
 「貴様よくもそこまでしらばっくれたことを言えるな!?」
 『そこの一年一組女子、発言は登壇してお願い致します。風紀委員長、回答について異議があれば再度の質問をお願いします』
 『はい。文化委員会が我々が思っていた以上に崇高な信念に基づいてその伝統を受け継いでいるということだけは認めます。認めますが年齢制限が掛かりうる頒布物を学園で書く・頒布するということについては、思想の統制以前の問題があるかと思われますのでそこの規制は出来ないのでしょうか』
 『はい。出来ません、というか考えておりません。何故なら我々の活動を規制したいならば、図書室に谷崎潤一郎や渡辺淳一が蔵書されていることと裸婦の絵が美術室や図書室で鑑賞できることについても規制するべきだと考えているからです。我々の頒布物と美術部が描くもの・先人が販売しているものに一体なんの区別が御座いましょうか。我々のやっていることは、文化の発信という芸術活動です』

 すごい、全ていい話のように流暢に語っていたけれど大体風紀を乱しているのってまさにその委員長な気がしなくもないから、すごい。よくまあそんなしらを切れるな。きっと考えてきていたんだろう。何故か格好いいと思ってしまった。殴り掛かりたいだろう城ヶ崎さんが椅子の足を掴んで震えているところを、進行の武智先輩が見て咳払いをする。

 『この件に関しましては学園の女生徒からも何件か女性蔑視、セクシャルハラスメント、人権侵害などの被害報告が上がっており、現状この総会だけの話し合いでは不可能と事前に生徒会内で話し合っていたため、後々に両委員会の副委員長同士の面会を設けております。後日協議結果をプリント配布致しますので、そちらで確認をよろしくお願いします。文化委員会委員長、ありがとうございました。それではーー』

 ああ、よかった。ステージ下が安堵の息に包まれた。まあああは言っているけど絶対に解決しないんだろう。久条先輩には是非とも頑張って欲しいものがある。この前鳩尾を殴ったのちにデータごと買い占めた広香の本、すごく良かった。広香はあんなに淫らではないし胸ももっと平らだし僕もそんなことを姉とはする気は無いけれど、広香から僕にスキンシップを求めてくるところは非常に解釈が合った。強く生きて欲しい。
 生徒総会はその後はなあなあと過ぎていき、表彰台に経つ斎藤先輩の愛想笑い混じりのコメントが別人すぎてちょっと笑ったくらいしかインパクトのある場面はなかった。そして、家に帰ったあと僕は晩御飯に天ぷらをあげていたら、「なんか悪口言われてた気がする!」と心を読んだらしい姉さんに鳩尾を殴られるのであった。



 放課後にスキップをしながら仄火ちゃんは風紀委員会との協議の場に向かっていった。どうして委員長同士じゃないのか、面倒だったから別に良かったんだけど理由はちゃんとあるらしく、安藤の「絶対凪相手じゃ収集つけられないでしょ、あっち」という理由が恐ろしく腑に落ちた。オレが矢面に立ったところで行われるのは協議ではなくリンチであることをさすが我が友人は理解している。
 さて、その仄火ちゃんはどんな屁理屈を言ってきたのかはたまた妄言でも吐いたか、やけに頬が艶やかな(ように見える)いい笑顔でさっさと文化委員室に戻ってきた。「ただいまかえりましたよぉ」と扉を開けた仄火ちゃんの手にはなぜか購買の袋が握られている。何それ、と呟くと「おかしです!甘いのもしょっぱいのもありますよ」とドヤ顔された。ああ、きっと向こうもこの態度に脱力したからこんな十五分程度で戻ってきたんだろう。さすがに時宮ちゃんに同情した。この二年、そこそこに彼女とは関わってきたがオレは未だに屋敷仄火が正しく頭の中で何を考えているのかを掴めていない。

 「…向こうはなんて?」
 「大体あのエロ下衆半盲目男は柘榴のことをなんにも分かっていないくせにやたら柘榴と距離が近くて腹が立つ!!と言ってました」
 「何今の、時宮ちゃんの真似?って、なんの話ししてきたの。馬鹿じゃん」
 「どうやら向こうはほのかちゃんの霊圧に恐れ戦いたようでその話はされなかったんですよねぇ〜卍解どころか始解を使うまでもありませんでしたよ」
 「いや妖精なのか死神なのかはっきりしてくれよ設定崩壊じゃん」
 「あれ、本気にされました?嘘ですよ〜そんなけっして、ほのかちゃんが凪せんぱいの妖精さんをやめて死神代行になったりなんてしませんから」
 「いやその妖精さんっていうのも…もういい」

 うん、まあ実りのない会話をしたんだろうな、きっと。ふわふわした口調で袋から飴玉を出してきた仄火ちゃんからサイダーの飴を貰いながら確信する。どうでもいいけどでかい飴って食べると上顎が痛くなるからあまり好きじゃないんだよな。まあ貰ったから食うけど。飴を口の中に放り込みながらやりかけてた原稿のネームの続きを切り始めると、不意に仄火ちゃんが「凪せんぱいは知りたいとは思わないんですか?」といきなりキューピッド発言をしだした。なんでそんなこと目の前の後輩に赤裸々に語らなきゃならないんだろうか。思ったけれど何故かオレは「知りたいとは思うけど」と正直に目の前の女の子に語ってしまう。オレの妖精だなんだと法螺を吹くその子に乗っているだけだ、きっと。

 「分かられたくないことだってあるでしょ。悟られたくなくて隠すことだってある。それを無理に知ろうとするのはただのエゴでしょ」
 「凪せんぱいってどうしてそうも心の壁を作ってしまうんでしょう」
 「壁じゃないよ、線引き。あとオレはされたくないことをしたくないってだけ」
 「そうでしょうか」

 しんとした正気のある声がしてなんとなく顔を上げた。いつもはにこにこと上機嫌に笑っている彼女がじっと真顔でオレを見ている。赤い目はオレの何かをまるで昔から知っていますとでも語るかのようにオレを射抜いていた。なんの表情もない目付きだった。

 「せんぱいだって、知られたくないって顔をして隠していたけど、本当は知って欲しいことがありましたよね」

 何の話だろうか。当然図星だったから分かっていたはずなのになぜだかオレはすぐに的確な答えを見つけられなかった。次の瞬間にはぱっといつもの上機嫌な顔で仄火ちゃんは笑っていた。飴玉を思わず丸呑みしたオレにさらに今度は棒状のチョコレートを差し出す。喉が詰まる組み合わせできたな、と思いつつオレは受け取った。言葉が出ないのは飴を通り抜けた異物感のせいだ。

 「きっと凪せんぱい、今度は上手くいきますよ。きっと」

 何せそんな思わせぶりなことを朗々と語った彼女は5秒後には「ところで武智せんぱいと安藤せんぱいのカップリングに今日目覚めそうでした」と妄言を吐き出したのだから。きっと何もかもが気のせいだし、そうやってちょっと真剣に考えてしまっていたオレのことも彼女は「凪せんぱいほのかちゃんのことちょっと信じたでしょ?」と馬鹿にしたんだから。本当に思わせぶりなことを言われただけだ。けれど、その思わせぶりな発言は、忘れてはいけないもののような気がした。


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