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別れ際に「今日はお互い部屋に戻ろうな」と武智と誓い合ってからおおよそ二十分後、オレはなぜだか一人でアトリエにいた。どう考えても選択肢をミスった気がする。いや予想では麻生君とか緑疾も来るはずだったし委員長ちゃんも来襲する予定だった。こんなのは聞いていない。でも開けた瞬間逃げられないことを悟った。誰が斎藤君不在のアトリエをけなげに織葉ちゃんが拭き掃除しているところと出くわすと予測するだろうか。それ予測できる奴はこの世に恐らくいない気がする。暗黙の了解で誰か来るだろうと思ってただけにこの動揺はデカい。どうしてオレは麻生君とメールアドレスやら電話番号を交換しなかったんだろうか。だってほぼ毎日会ってるし必要ないと思ってたんだよ、それだけ予測していなかった。ほら織葉ちゃんもオレの心境を察したかちょっと苦笑いだよ。「ごめんね、遥いないの」って、ここでフルコンボされてても困る。まだ幸いだ。まあ口が裂けても言えないけど。
「そうなんだ、彼委員会とか入ってたっけ?ここだけじゃなかったっけ」
「美術部は予算とかちょっと多めに組んでもらってるから行かないとダメなんだって。有難いけどこういうのはちょっと面倒だよね。文化委員会はもう終わった?」
「あー…ウチはほら、当日にならないと分からないものがあるから。先に謝っておくよごめんね」
「あ、ん、んー…うん、ごめんねわたしこそ。分かってたのに」
笑っていいのかなんといっていいのか、みたいな顔で織葉ちゃんが首を振る。素直に呆れてくれていいのにそういうところは相変わらず優しいというか中立的というか、控えめに言って織葉ちゃんのそういうところは嫌いじゃない。まあおそらく今期の生徒総会最大の目玉だからなどと安藤からは冗談を言われているが見世物になってしまうんだろうかオレ達は。ただ先輩方からの脈々と連なる伝統を受け継いでいるだけというのに。いや、同人サークル会に改名すればいいだけの話なんだろうけど。なんかそれは負けな気がする。文化の敗北な気がしてならない。まあその話は今週末に壇上で語るとして。
なんとなくオレは床に四つん這いになって雑巾をかけていた織葉ちゃんの手元に目線を移す。目線だけでぱっと気が付いたらしい織葉ちゃんは「遥いっつもここにいるのに掃除雑なの」とちょっと怒った真似を(いや怒っていたのかもしれない。分かりにくい)しながらごしごしと手元の絵の具跡を拭きとろうとする。…なんていうか、斎藤君マジで考えたほうがいい気がする。いや、多くは言わないけれど。あと四つん這いの織葉ちゃんがちゃんとジャージの短パンを履いているところにやたらと安堵感を覚える。うっかりスパッツとかペチコートとかを見てしまっていたら多分いたたまれなくうなっている。ジャージでよかった。何がって具体性を問われても詳しくは答えられないものがあるけど。などなど、あらゆる煩悩が一瞬で沸いたがオレはそれを振り払うように織葉ちゃんのそばに置かれているバケツにかかったきれいめの雑巾を取った。
「暇だし手伝うよ。どこまでやった?」
「え、本当に?いいんだよ凪君座ってて。お話出来るだけでうれしいから」
「いや気まずいよ普通に話ながら掃除しようって。オレもいつもここ入り浸ってるしさ」
「…じゃ、じゃあそっちの窓際の方お願いしてもいい?そっちあまり使ってなくて」
「あー了解」
まあいつもオレたちがすし詰めになったときに使っているスペースだ。今は織葉ちゃんが掃除していたから丸椅子が三段ずつ二列に積み重なっている。今にして思えばクズみてぇなことしてるな、と思いつつオレはこびりついた埃に目を凝らした。何にも考えずに無心でいつも当番でやっている時と同様に普通に掃除をしはじめる。すごい真面目だな自分、と内心で感心していると織葉ちゃんが不意に「懐かしいね」と感慨をこめて呟いた。
「昔も一緒に掃除したよね。ちょっと足りないけど懐かしいかも。なんでかな」
「あー…そうだね、まあ織葉ちゃんと二人になるとかそういうこと自体が小学生以来だし、うん、懐かしいね」
すごい地雷を自ら踏んでしまったことに気がついて誤魔化すように彼女に倣って「懐かしい」を付け足す。床を見ているせいで織葉ちゃんがどんな顔をしているかはわからなかった。これはどういう空気なんだろうか。オレはもしかして神に試されてでもいるのか。本当に、斎藤君までいなくてよかった。けれど安堵の息を吐くほどの余裕はない。
「…あの、さ」
左角の床を拭き終えたところでなんとなくオレは声をかけると、ドア側を拭いていた織葉ちゃんが「なあに?」といつも通り誰かに話しかける時と同じ調子で返事をした。見ていた先の織葉ちゃんはちゃんとオレのことを見ていた。けれど、オレはその丸い目がどうしてもどこか怖くてまた床に目を向けた。
「…小学校の頃、ごめん。オレはあの時織葉ちゃんにひどいことをした。ごめん、本当にごめん」
はっきり描けないとわかったその時からオレは月見家ひいては斎藤君を避けるようになった。絵画教室はなぜか親がすぐ手続きを取らなかったからずっと生徒のままになっていて、それもあって織葉ちゃんはオレを励ましにわざわざ上級生のクラスにまで来ていた。昔も今も織葉ちゃんはそういう子だった。下手くそな学校の先生みたいに下手くそな励ましを優しい声でかけてくる。それが癪に触る瞬間というのがないわけではなかった。けど、オレは織葉ちゃんが素でそういう優しさを持っているんだということは三年弱の付き合いで知っていたから、のらりくらりとはじめは交わし続けていた。けどオレも小学生のガキでしかなかったし、その時はオレもそこそこに気が立っていて言ってしまえば「限界」の節があった。それでも人目があったからオレもまだ笑っていられたんだと思う。家にまで来られた時がオレと織葉ちゃん、ひいては斎藤君との付き合いの終焉だった。感情を吐ききったあとの織葉ちゃんは、笑っていたけれどきっと泣いていた。オレはあの瞬間からもうこの子のことを好きだなんて言えないと悟った。
「いいの。わたし、今も昔もきっと凪君にひどいことしてるから」
数秒の沈黙の後にせせらぎみたいな優しい声が聞こえた。そんなことはない、とは言えなかった。結局再会したのちも確かに彼女がやっていることは昔の焼き直しに等しい。オレは「そんなことないよ」とかぶりを振った。織葉ちゃんの手は止まっていた。
「確かに織葉ちゃん不登校児に下手くそな説得する先生みたいなところあるけどさ」
「うぅ、」
「けど嬉しかったよ。生きてるだけで描けるって言い切ってくれて。お陰様で最近駄目でも描きたくなってきた。まあまだ何描きたいとかそういうの一切浮かばないんだけどね!ほら、やっぱ二年もエロ同人ばっかやってたしその前に至っては絵なんてガチで避けてたからさーマジで避けるんじゃなかったよ。あはは」
なぜか知らないが泣きだしそうな顔をし始めた織葉ちゃんが目の前にいたので焦りながらオレは馬鹿げた言葉を付け足す。この学園の名のある女子名もなき女子、ほぼ全てネタにできる自信があるし実際やってきてはいるが、オレの中での例外が何人かいる。風紀委員会と目の前の子はガチで描けない。前者は命の危険からと約一名に関してはプラスアルファ。後者はなんか激しく申し訳ないから。ちなみに屋敷仄火は微妙なラインだ。あの子は一度陵辱したことがあるのだが、当の本人から「ほのかちゃん折角なら妊娠悪堕ちしたかったですねぇ〜次作に期待します!」と前向きな感想を貰ってしまってから逆に恐ろしくなったっていうか、なんか身近すぎて裸を考えていることが気まずい。そしてオレは妊娠モノは好きじゃないから却下した。いや、そんな話はどうでもいい。織葉ちゃんは「もう」と怒ったような声を出しつつ笑っていた。拭き掃除が無事終わったらしく立ち上がって雑巾をバケツに放り込んでいる。
「でも凪君が今描いたらどんなものを描くんだろう。デッサンは遥より上手だもんね?もしかして入部した瞬間部長になっちゃって。そしたら遥が大変だね」
「いや気が早いでしょ、てかなってもあと二ヶ月で引退じゃんないない、オレを留年させるのやめて」
「えへへ、冗談だよ。ちょっと寂しいけどね?でも何が描きたいとかちょっとは思いついてたりしないかな?」
「んー、そうだね。……」
「あ、分かった!もしかして城ヶ崎さんのことだったりしない!?」
「ファッ」
拭き掃除をしていた手が止まった上に変な声が出た。怖い。なんでちょっとふわっとあの子の顔が浮かんだ瞬間それを見透かしたんだ。そんなに分かりやすい顔をしていたかオレは。さっきエロいこと考えてたけどそれも実は見透かされてやしなかったか。怖い。すげー怖い。当のエスパーは「やっぱり?」と悪戯っぽく笑っている。恐ろしい。
「だって好きな人って描いてみたいでしょ?わたしも描きたいし、描いてほしいもん。乙女の夢だよね」
「え、そうかな…?百歩譲っても委員長ちゃんはそんなことない気がするけど。どっからその夢湧いてきたの?」
「そ、そんなにおかしい…?」
「ああいやごめんおかしくないおかしくない。ただ気になっただけ」
「うーん…わたしのママがパパに『きみを描いてみたい』ってプロポーズされたって聞いてそれってすごくロマンチック!って思ってたんだけど…」
「あ、それは確かにロマンだ。斎藤君とかやりそうだしそういうの好きそう。ていうかそれしか出来なさそう」
あの人そもそも口で織葉ちゃんにそういうこと絶対言えないだろうし、激しすぎるツンだし。という言葉を飲み込むと織葉ちゃんも「そうだよね。遥も聞いてたしきっと誰かにそういうことするんだろうな」と寂しげな言葉を呟いた。いや、キミ以外に誰にするんだあの男が。オレはあの嫉妬魔に小学校時代殴りかかられたことを忘れちゃいない。とうとう床掃除が終わってオレも雑巾をバケツに放り投げる。椅子を戻しながらオレは「ていうか二人は慢性的に描きあってなかったっけ?」と何気なく問いかけたが、それは地雷だった。
「…遥、高校に入ってからわたしのことを描かなくなったの。部長になってこのアトリエを貰ってから、余計にそういうのなくなっちゃった。…多分なんだけど、遥はわたしのこと嫌いなんだと思う」
「いや、天地がひっくりかえってもそれはないと思うけど」
「でも最近夜中まで寮に帰ってこないし、部活終わってからどこかに行ってるみたいで…どこ行ってるのかも答えてくれないし、」
「う、うーん。それはオレも初耳だったな。いや、もう高校生なんだししょうがないんじゃない?それは。非行でもしてない限りは斎藤君だって高校生なんだし、高校生なんだし」
高校生だからって夜中まで帰らないのは問題だって気がするけど、という条例を思い出しつつ高校生を強調すると、斎藤君より誕生日がちょうど一ヶ月遅いはずの織葉ちゃんが「そうだよね、いつまでも弟じゃないんだしね…彼女でもないしね」と本当に寂しそうに自分に言い聞かせた。いや、そこまで気にするのならいっそ告白でもすればいいのに。いやでもあれか、やっぱり女の子からして告白されるのがロマンだし、そもそも万に一つでも斎藤君にフラれたら長く片思いをしている織葉ちゃんは立ち直れないか。思い込みで済んでることが事実になることほど恐ろしいものはないだろうし。
「…まあ、斎藤君は口は悪いけど別にそこまで悪いヤツじゃなくて素直になれないだけだろうし、逆に放っておいたら織葉ちゃんのこと気にし出すんじゃないかな。そういう人でしょあの人」
「なんでそんな分かるの?」
「そういう気の引きかたしかできないところどっかの誰かに似てるからかな。用事思い出したからじゃあ行くね。また話聞くから」
「あ、う、うん。ありがとう?うん」
オレの地雷を踏まれる前に強引に話を切ってドアを開けると、困惑しながらも織葉ちゃんが手を振った。足早に水飲み場まで足を進めながら、「誰の話だよ」と独り言が漏れる。踏まれる前に自分で踏んでいたことに気がついて呻き声でもあげたくなった。後ろからどこからかやってきた仄火ちゃんに「なんの話でしょうねぇ」と驚かされるまであと五秒。
今週の木曜日は生徒総会らしい。時間割変更があるとショートホームルームで言われてはじめて気がついた。きっと先輩たちは既に知っていた話だったのだろうけど、それにしても先輩たちの挙動があまりにいつも通りだったせいで全く気が付かなかった。安藤先輩から送られてきた「そういうわけだから寂しがらないでね」というメールに一言、「何故」と返して携帯電話を閉じる。いつも通りなのも当然のことだ。何せ今週から一気に準備するつもりなのだから。計画性って言葉を知らないんだろうか。まあ何はともあれ、試験前よりも穏やかな日々が僕には訪れようとしていた。
けど、元々昼休みもほとんど孤独に過ごしてきたこの僕だ。放課後も何も予定がないとなるとさすがに胸に堪えるものがある。中学時代はそういう状況に陥っても隣のクラスや同じ廊下のどこかに広香がいるんだと思うと耐えられるものがあった。けど今は建物まで離れているせいで一緒にいる気がまるでしない。いや、ていうかもっというと僕が孤独と離れすぎていた。だいたいやはりあの先輩のせいだ。おかげで僕には夕食当番以外の放課後の用事というものが出来てしまった。こういう時はさっさと家に帰ってご飯でも作ればいいのかもしれないけれど、でもなんだかそれだけだと気が滅入るものがある。姉のいない家ほど憂鬱なものはない。
そういうわけで、向かうことにしたのが図書室だ。思えば四月末以降、僕は一度たりとも図書室に行っていない。四月以前はむしろ図書室とはおそらく最もな友人関係を築けていただろう。なんてことを言うと本がどちらかと言うと嫌いな姉は「ひろくん友達作ろうよ」と苦笑いを浮かべていたけど。まあ僕も別に好きで読んでいるわけではない。本当に暇だしでも家には帰りたくないからそうしているだけだ。
久しぶりに一組棟の二階を通り過ぎて図書室に向かう。ここに向かう度に思う。調理室やら音楽室は確かに僕のいる棟にもあるけど、なんで図書室だけはわざわざこっちまで行かなければないのだろうか、と。僕らの方には自習室が備わっているけど一組の人はここで勉強するしかないんだ、なんて広香が今後一生利用する気もないくせに言っていたけど図書室が遠いって結構問題な気がする。その気は無いけど学園は僕らに下克上をさせる気があるのだろうか。蔵書を揃えるためとはいえ少し、いやかなり面倒くさい。…という向かう度に出てくる同じ文句を今日も脳内で繰り返しながら僕は長い廊下の真ん中まで差し掛かる。図書室の扉に手をかけるその時だ。十数メートル離れた先の扉が開く音を聞いたのは。そしてあろうことか僕はそっちを見てしまった。それがまずかった。
「え、」
視力は、多分悪くない方だ。おそらく一生眼鏡の世話にならないで済むであろう程度には。だからこそわりとしっかりと僕はこっちに向かって歩き始めようとしていたその人と目を合わせてしまった。なんで、と普通に言葉が声に出てしまった。それだけに目の前にいたその人は、知人であるがゆえにあまりに異常な状態だった。
青みがかったエメラルドの髪はいつもよりも伸びていた。前髪があの人は確か右分けで片目を隠すように伸ばしていたような気がするけど、その人は前髪を垂れ下げていた。でも晒けだしているそのどこか気だるげな翠の目は間違いなくあの人のものだった。いや、ていうかどこぞから持ってきたのがまるで分からない黒セーラーのスカートから伸びる足がまさに男の筋肉のあるそれだし、いや、違う待って。なんでそんな格好をしているんだ。この人は生徒総会の準備をしていたんじゃなかったのか。え、分からない。何をしているんだ。心臓がばくばくして落ち着かない。とりあえず、お互い立ち尽くしたまま僕は恐る恐る、目の前のその人に問いかけた。無視をするべきだった気がするけど、その配慮をできる余裕がなかった。
「…斎藤先輩、ですよね…?」
斎藤先輩にしては随分と目つきの良さそうな顔をしたその人は少しさっきよりも距離の縮まった数メートル先で小さく小首を傾げた。だいぶ姿かたちが違っていたけれどそれでもぞっとするものを覚える。まさかそんな女性の格好をしてさらにしらばっくれようとしているのだろうか。僕は合わせるべきなのか?いや合わせるにしてもまともな言葉が出てこない。何を言うか考えあぐねていると、目の前の斎藤先輩(暫定)が何事かを思い至ったように「あ、」と声を上げた。いつものそれにしては調子の高い声だったけれど、やっぱり広香みたいに可愛いものではなかった。どうしよう、寒気が止まらない。
「もしかして、入部希望者だったりしますか?」
「…は?え、美術部ですか?」
「違いますよ。黒魔術部です。興味がおありなんですよね?」
「……」
「あ、失礼いたしました。わたくし、あちらの黒魔術部の部長を務めております、二年一組の」
ニコニコと絶句する僕の表情も見ずに話を進め、今更ながら他人のフリでもしようとしていたのか自己紹介をしようとしていた斎藤先輩(女装)が突然笑顔のまま時間を止めたように停止した。三秒くらい固まった斎藤先輩(もしかして変態だったのかもしれない)が不意に誰もいない背後を振り返って「何ですか」「邪魔しないでください」「いや」と一人で誰かと会話をし始める。ちょっと待って欲しい。僕を置き去りに何をしているんだこの人は。逃げ帰りたい衝動が沸き起こってくる。見なかったことにした方が良かった、と今更ながらに後悔した。でもさすがに目の前で頭を抑えて踞られるとさすがに近寄らざるを得ない。
「ちょ、斎藤先輩?大丈夫ですか?斎藤先輩ですよね?色々大丈夫ですか?」
「……、…やっぱりそうか」
廊下のど真ん中でしゃがみこんで頭を抱えているその人が、不意にいつもと同じ中性的ながらも低い声を小さく吐き出した。僕の知っている声にやっぱり間違いではなかったということを確信した。けど、その変貌があまりに凄まじくて僕は背筋がさっきとは違う意味で冷えた。斎藤先輩は「…麻生君」と僕を呼ぶ。はい、となんとか絞り出した声は多分ほとんど音になっていなかった。
「妙なところを見せた。僕のことは気にしなくていい。この事は他言無用。今日のところは、何処かに行ってくれないか」
「……」
「頼むから、」
「…は、い」
いつものそれとはやたらと違う掠れた声に、僕はようやく背を押された気がした。なんとか立ち上がって何も見ずに僕は階段に向かうために来た道をもどることにした。多分、斎藤先輩はプライドが高い人間だということを僕は何となく知っている。これはさすがにプライドもズタズタになっただろう。どんな理由があるとはいえ僕はおそらくとんでもないものを見てしまった。忘れよう、忘れるべきなのだ、きっと。なんとかそう頭の中で自分に言い聞かせながら僕は階段を駆け下りた。さっきまで暇だ暇だと思っていたんだ、別に急ぐ必要なんてない。なかったけど、でも、なぜだかなるべく早くあの人から離れてあげなきゃいけないと思った。
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