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まあ、オレみたいな野郎は結婚なんてできないんだろうなとなんとなく高を括っていたけれど、もし仮に彼女が出来るなら、奥さんがもらえるなら、その子はおしとやかで落ち着いた子がいいなぁと思っていた。あんまりにも漠然とした理想だ。じゃあ理想の反対は何かというと、そっちは逆にはっきりしている。怖い女と腐女子。こればっかりは絶対に嫌だったし論外だと思っていた。へこへこと母さんに頭を下げてご機嫌を取ろうとする親父とか、いつまでもしわくちゃのばあちゃんに頭が上がらずにいるじいちゃんとか、そういうのを見ていると思わざるを得ないところがある。お前らどうしてそんな女を選んだ、と。
だって普通におっかない。夫婦喧嘩が夫婦喧嘩じゃないのだ、リンチなのだ。言葉のナイフでめった刺しにされている親父の苦笑いを何度目撃したか分からない。ばあちゃんもたまに親父とじいちゃんを並べて正座させて説教させていることもあったし、時にしてオレもそういう目に遭ったし(敗因:宿題をしなかった)、まあとにかく半端なくうちの家の女は強いし怖い。いや、言ってることは最もだし別にヒステリーに苛まれているとかではない。金を稼いできている野郎だけじゃ生活できないのは確かだ。母さんたちが台所だの家計を守っているから成り立っているところもある。逆も然りだということを多分向こうも分かっている。にしても、さ、怖い。マジで何処に惚れて付き合って結婚まで至ったのか教えてほしい。いや、やっぱ知りたくない。あんまり親のそういうなれそめとか深い話を聞いて変な目で親を見たくない。まあ疑問ではあるけど。…もう、いいや、うん。
とにかく、オレは普通の女の子が良いっていうか、女の子のままの女の子がよかった。まあキモい男のキモい夢だという自覚はある。でも小学生時代、身近にそういうまさに女の子なお嬢さんがいたせいで余計にそういう幻想を抱いてしまった節もなくはない。残念ながらその初恋は、あれやこれやが重なって終わってしまったけれど。まあ、そういう子だったらいいなぁくらいの軽い気持ちがあった。
あったから、だから、「絶対この子はないな」って思ってた。
何かあれば黒い目を鋭くさせてこっちに獲物を見つけた鬼みたいな形相で近寄ってきたかと思いきや、正論のナイフとマジの暴力でめった刺しにしてくるとんでもない後輩。まあかわいい子だなとは思うよ。元の根もきっといい子なんだと思う。悪い子ではないんだきっと。でも怖い。暴力反対。こんな年下の女の子に土下座させられなきゃいけない意味が分かんない。まあオレが悪いのはわかっているけど。にしてもオレがそこまで標的にされる意味が分かんない。なんなの?オレのこと好きなの?って感じだよね、そう言ったらキミは冗談だっていうのに顔を真っ赤にしてオレの顔面を地面にめり込ませたけど。あー思い出すだけで怖い。あんなのもうまったくタイプじゃないし好みじゃないしむしろ地雷案件だ。
ずるいよなぁ、キミは。
ああいう女ってみんなしてそうなんだろうか。じいちゃんが死んだときのばあちゃんもそう。親父と喧嘩した後の母さんもそう。そしてオレが「ああ」なってしまった時のぼやけた輪郭もそう。強いです、弱みなんてないです人類最強ですって感じの百戦錬磨の女王みたいなツラで普段生活してるのに、不意にがたりと何か見せてくるんだ。きっとじいちゃんも親父もそういうところにつられてあの女たちと結婚したんだと思う。ちょろいな、うちの野郎共。みんなそうなんだろうか。みんなそうなんだろう、例外なく。わざとやってたりしないだろうか女たち。ひっかけるためにわざとそんなことをしてやいないか。いや、多分、オレがあの子のそういうものに気が付いたのは、きっとオレがそういうのに敏感だったからだと思うんだけど。分かっているんだけど文句を言いたくなる。
本当にオレは、キミなんて好きになるつもりはなかったよ。
線香の煙が漂う空間の中、呆然としながら友達の死を悲しんでいるような顔で、どこか違う何かを見つめているような城ヶ崎柘榴の横顔が、あれから何日も経つのに頭から離れそうもない。キミは誰を見ているんだろうか。キミは何を見ているんだろうか。キミはちゃんと此処にいるんだろうか。ぐるぐると漠然とした不安が頭に浮かんでは消えた。けれど、繋ぎ止めるようにその右手に触れてしまってもいいのか、オレはどうしても分かりかねてただ隣でずっと迷っていた。あの日、瑞崎女史が目の前からいなくなったなんともよくわからない事件以来、オレは委員長ちゃんと話せていない。
「やっぱり、ここは文学少女を図書室でじわじわと快楽に落としていくシチュエーションで行くべきだ」
衣替えとか予定されていた宿泊研修の延期についてどうとか、いろんな話が先週もあった気がしなくはないけれど、先週はそれどころじゃなかったせいで週末の記憶がないまま次の週まで来てしまった。月曜日。ちょっと前に聞いた覚えのあるその眼鏡の先輩の妄言は、今日はこれみよがしにまるで誰かに聞かせるようにやたらと大きくアトリエに響いた。なお織葉さんは斎藤先輩が追い払っている。安藤先輩は苦笑いでその人、久条凪先輩を見ていた。恥ずかしくないんだろうか、いや恥ずかしいだろうきっと。多分いつもは無意識で独り言を吐いているんだろうけど、今日は相当意識して独り言を言っているはずだ。だって明らかに言葉を選んでいるし、スケッチブックに走るはずの手が止まってるし。なんかちょっと耳赤いし。多分わざとだ。聞かせたいんだ。まあ誰にっていうのは言わずもがななわけで。それを知っているから僕ら、もっというと斎藤先輩ですら今日は無言だ。
「うん、図書室の本棚と本棚の間の狭い通路で陰になるように身を寄せ合った――…あー、うん、そう、一年一組の新聞部部長と一年一組の図書副委員長の縺れ合うようなその、ね」
「…凪、もっとはっきりと何をどうしたいのかいつもみたいに具体的に垂れ流さないと来ないんじゃないかな?そんな暗喩を使わないでさ」
「やめてやれ慶、久条にもそういうことを言える時と言えない時があるだろう」
「…それってアイデンティティの崩壊につながらないかい?妄言を吐かない久条君など久条君ではないだろう」
「…お前ら絶ッ対この状況楽しんでるでしょ!?ふざけんなよ!?」
安藤先輩、武智先輩、果てはスケッチブックで鯨らしきものを描いている斎藤先輩にまではやし立てられてとうとう我慢の限界を迎えたらしい、久条先輩がスケッチブックを床にたたきつけて立ち上がった。すごく顔が真っ赤だ。やっぱり恥ずかしかったんだ。僕はそれより正直言って、テスト前のあのアンニュイな久条先輩のほうがずっと見ていて恥ずかしかった気がするけども。いや、まあなんでもいい。正直僕も、こうして独り言をわざと聞こえるように大きな声で吐き続ける人を、隣で見るのはつらかった。多分羞恥心が移ったんだと思う。なんか巻き添えにされているようで。たたきつけられたスケッチブックが床を滑ったのをぼんやりと眺めていると、武智先輩が「落ち着け」と久条先輩を座らせる。だけどまあやっぱり限界だったらしい、久条先輩が「だってさぁ!人がめっちゃ真剣にね!?頑張って妄言を言ってるのにお前ら煽ってくるのホントさぁ!!」と語彙をなくして叫ぶ叫ぶ。いやでも、多分ああいう揶揄がなかったらそれはそれで辛かったのではないだろうか。僕は普段広香ほど独り言を吐かないから少しよく分からない。「あーもう」と大きく息を吐きながら久条先輩がスケッチブックを拾い上げる。肩から上までしかない女の子の落書きしかそのページにはなかった。いつも何描いてるのか全然知らないから何の比較にもならないけど。
「…分からないな、アトリエを脅かす一因がたかが数日姿を見せなくなったからって何を久条君はそんなに必死なのか」
少し静かになったところでため息を吐きながら斎藤先輩がそう呟く。とたん、ぱちぱちと空色の眼を瞬かせて安藤先輩が「え、分からないの?」と驚き混じりの声を上げた。うん僕もびっくりだ。どう考えても答えなんて一つしかないのに。そして当の本人はちゃんと理解しているらしい。顔を太ももの上に立てかけたスケッチブックで隠しながら「察しろよ」と小さい声で反抗した。けれども斎藤先輩は不思議そうな顔をし続けているから、そっちの方が正直言って僕は不思議だ。この人もしかして、下手をすると自分が織葉さんに多少なりとも思われていることすら知らないかもしれない。なんとなく左隣の教室に向かって合掌したくなった。
「…なんで、来なくなったかな」
スケッチブックに顔をうずめたまま久条先輩が長らくの疑問を口にする。そんなの久条先輩が分からないんだったら僕らだってわかるわけがなかった。広香から聞いた話、学校にはちゃんと葬儀の日も来ていたらしい。今日も多分来ているはずだった。それは安藤先輩がそれとなく見たという。多分久条先輩だって見た。けれど、城ヶ崎さんは久条先輩の前にはなぜか絶対に姿を現さなくなったそうだ。いつもなら三年の教室でちょっと水着姿を書いただけで、もっというとそういうことを口にしただけで開いている窓から、天井から、普通に教室の扉から殴り込みに来るのだという(それはどうなんだと突っ込みたくなったがもう口にするのが面倒だったのでスルーした)けれど、あの五月末から城ヶ崎さんはぱったり来なくなったそうだ。
そして今日のこれである。題して「わざと妄言を吐き続ける作戦」。小学生か。十八禁指定の同人誌を描いている高校生というだけですでに突っ込みどころが満載なのに生身の女の子を引き付ける発想があまりにも幼稚だ。いや、だからといって僕にいいアイディアがあるかと言えばないんだけど。多分僕もそんなに人のことは言えない。
「…あっちがその気ならオレも考えがある」
「と、いうと?」
エアー城ヶ崎さんと脳内で相談でもしたらしい、ふっと久条先輩がやたらと真剣な表情で顔を上げた。隣にいた武智先輩がそのあまりに真摯すぎる表情に少したじろく。でもどうせろくなことを言わないんだ。なんとなくそんな気がしてならない。先日の勉強会の時の安藤先輩たちのさまを見て確信したのだ。真面目な顔をしているときに真面目なことを口にするとは決して限らない、特にこの人たちに関しては。
「天岩戸作戦だ。風紀を乱しまくって出ていかざるを得ない状況を作ってやる」
「それむしろ北風じゃないですか」
「委員長ちゃんはそういうのほっとけるタイプじゃないから北風だろうと騒げば出てくるよ。間違いない」
「須佐之男命より質の悪いことをする男だね」
「いや、質の悪いことをするのはオレだけじゃなくてお前らもだよ」
「は?」
満場一致でこの場にいた人間のその一音が重なった。見事なまでのどや顔を浮かべた久条先輩が「だから、お前らも」と繰り返す。安藤先輩が「いやいやいやいや」と苦笑いしながら首を振った。武智先輩が「お前まさか」と額に汗を滲ませている。僕もなんとなく察しがついてしまって、でも何も言えそうもなかった。
「お前らだって、口に出してないだけで卑猥な妄言の一つや二つあるだろ?」
「いやいやいやいやちょっと待って僕は凪とは違ってそういうキャラで売ってないから。やめてひろくんの中にある僕の王子様イメージが崩れたらどうするの!?」
「そんなイメージは先月エロ同人を連呼された時点で崩れてますが」
「…下らない。そんな話に時間を割く価値なんてないね」
「……」
「あーあ、武智が言葉すら失ってるよなんてことを言うんだ」
本当になんてことを言うんだ。なのに目の前の男はやたらと冷静ににやりと笑っている。何か話題をぶちかますつもりでいるらしい。どんなことを言われてもおそらく僕は乗らない。乗らないんだそんな話なんて。そりゃあ興味がないといったら嘘になるけどでもおおっぴらにあけすけにそんな話をしてしまうような低俗な人間じゃないんだ僕は絶対に、
「…ねぇ麻生君斎藤君、安藤がすでに非童貞って話から手始めに聞く?」
「聞きます」
「やめて!!!やめてまってなんでそんなこと覚えてんのふざけんなよ!?」
至上もっとも大きな声量の安藤先輩の静止の声が聞こえたけれど、そんなものは右から左に素通りさせた。斎藤先輩も手を止めて彼の背後にいる久条先輩のほうに身体を向けてしまっている。僕も居住まいを正して久条先輩のほうを見ると、久条先輩は「後輩は素直でよろしい」と満足げに頷いた。なんだか負けた気がしなくもない。けれどそれよりも大事な欲望が目の前にはあった。僕の隣にいる安藤先輩が「ひろくんは聞かないで!」と耳をふさごうとしてきたけれど僕は全力でその両手を払い除けた。
「そもそもオレがこの話を知ってしまったのは高校二年の冬。まあ相変わらずのようにオレも言いたいことを言い続けていたわけだけど、その時にこの安藤慶はあきれ顔で言った。童貞の妄想も大概にしたら?と。なるほど確かにオレは童貞だ。女の子とキスなんてしたことがないしましてや手も繋いだことがない。せいぜい小学校時代に可愛い女の子と隣の席になって教科書を見せ合ったくらいのそんな甘酸っぱい恋愛しかなんだかんだリアルでは体験していないわけだ」
「サラッとそんな自虐がよく出来るな」
「そう、そんな自虐をしてしまう程度にオレもリアルではそんなもんなわけだ。そしてオレみたいな甘酸っぱい体験しかしたことのない野郎共がこの世界には数多蔓延っている。そんなオレたち童貞どもをあざ笑うようにあの日この男はそんな風にオレの妄想を切り捨てたわけだ。――確信したね、ああこいつはオレたち童貞どもの敵だ、と」
スッと久条先輩のスクエアタイプの眼鏡越しの冷たい視線が安藤先輩のほうに向いたので、なんとなく僕もそっちの方を見てしまうと安藤先輩がいたたまれなさそうにステンドグラスのほうを見た。つまり僕に背中を向けた。なんか僕がそっちを見て明後日の方向に視線を逸らされたのは初めてな気がしなくもない。まあなんでもいい、その背中が真実を物語っているということだけは確かだ。
「だけどまあ、オレも同胞に濡れ衣を着せるつもりはなかったからあの時こう言ってやったんだ。じゃあお前は非童貞だっていうのかと。その時の安藤慶のしまった、とでもいいたげな表情をオレは生涯忘れない」
「…まあ、なんとなく予想はついていたよ。昨年入学時に聞いた安藤君の黒い噂は中々に酷かったしね。告白を断るのが面倒くさいからっていちいち付き合っては捨てるとかなんとか」
「いやちょっと斎藤君!?」
「…うわ、」
ガチじゃん、という声が勝手に口の端から洩れた。まあなんとなくそういうタイプに見えなくはなかったしむしろ童貞と言われた方が信じられなかったかもしれない。予想はしていた。予想はしていたけれど、クラスメイトの女子がたまに上ずった声で語る『学園の王子様』の実像を知って女子たちに合掌を送りたい気分だ。合掌。礼拝。
「……して、肝心の筆下しはいつだったかというとも聞かされたわけだが、どうする安藤慶。オレの偏見に満ちた解釈と考察に基づいた脚色の入った童貞卒業エピソードを麻生君に語られるか。それとも自ら端折って語るか」
「…お前マジで後で覚えてなよ?」
凄みのある声が右横から響いた。しまった、どんな顔でそんな地を這うような声を出したのか見ておけばよかった。僕が見た時にはすでに目を伏せているわりと普段通りの先輩しかそこにはいなかったので、瞬時の判断を悔やんだ。先輩が溜め息混じりに「13の時にね」と呟く。早すぎる、と武智先輩がぼそりと驚愕の声を上げた。
「大学生の家庭教師が着いてたんだけど、まあ五教科だけじゃなくて副教科もちゃんと出来なきゃだめよとかなんかもっともなことを言われあれよあれよと、……もういいでしょ、分かるでしょこれだけで十分でしょ?やめようこの話」
「…エロ同人じゃないですか」
「そう、だからオレも聞いた時マジでこいつエロ同人の主人公すぎて滅多刺しにしてやりたかった」
「……」
武智先輩、会話の流れから察してはいたんだけどやっぱり彼も知らなかった話だったんだろう。言葉を失ってしまっている。あまりにもひどい会話の流れを切るように「大丈夫ですか」と石のように固まった武智先輩に視線を送ると、壊れたロボットのような挙動で武智先輩が静かに頷いた。なんで武智先輩って久条先輩とそんな仲良くしているんだろう、明らかにこういう話が苦手そうな人なのにどうして。いやわからない、実は平気だけど身近な人間のそういう話が駄目とかかもしれない。僕はそんなに彼を知らない。
久条先輩が「そういうわけでした」と話を区切る。しん、とアトリエ全体が静かになった。何の気配も外にはない。こんな赤裸々な話をしたにもかかわらず久条先輩の標的は訪れることがなかった。ちっと小さく久条先輩が舌打ちする。どうやら安藤先輩の心の傷を抉っただけの結果となってしまったらしい。気を取り直したように「よし」と久条先輩がさらに話を切り出した。もうやめてあげてくれ。
「…今後の参考に聞きたいんだけど、お前らの地雷シチュって何?オレは妊娠ハラボテの上にさらに」
「凪君がわたしを呼んでるって言われてきたんだけど、」
がらっと美術室と直通の扉が開いて久条先輩が固まる。この場唯一の突如現れた女子、もっというと織葉さんが不思議そうな顔で入ってきた瞬間、久条先輩から表情という表情が抜け落ちた。どこから聞いていた、そんな疑問がこの場の全員に湧いたけれど、それを聞ける勇者はこの場にはいない。安藤先輩が静かに、久条先輩をいたわるように「誰から聞いたの?」と織葉さんに問いかける。きょとんとした顔をしたまま優しい笑みを浮かべている織葉さんは、「城ヶ崎さんだったよ、珍しいよね。それで何かな?」とその名前を告げる。なるほど考えたなあの人。おかげさまでしっかりとこの場の風紀は正された。「わざと妄言を吐き続ける作戦」一日目はこうして失敗に終わった。
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