▼ Kadenz-2
おれは神を信じている。
その神は決しておれたちを救ってはくれず、死後楽園に導いてくれるようなこともしない。時折気まぐれに現れてはケラケラと笑っておれたちを傍観する。神というよりは悪魔に近い。それでもその神の姿は美しく、信仰せずにはいられないとおれはその神を一目見た時に思ったのだ。たった一度きりしかなかった幼いころの邂逅一つでおれは恋に堕ちたのである。
男は二階立ての一戸建ての住宅の屋根の上からあたしを見下ろしていた。逆光でうまくその姿を捉えることが出来ないが、男にはあたしの姿がはっきり目に映っているらしい。影だけで判断した感じ、中肉中背の男のようだ。髪が長く、下側で結っているのも確認する。時雨センパイに次いでまた一人髪を伸ばしている男が目の前に現れたというところだろうか。そして変人だということも共通点。いきなり話しかけてきて、その内容が格好についてだなんて碌な奴じゃない。でも返事をしてしまったのは、スルー出来ない性格がゆえなのか、それとも警戒心ゆえか。
「…そりゃどーも」
適当な返事を返すと男が「よっと」と屋根からゆっくりと飛び降りる。なるべく低い高さから降りられるように、座って飛び降りたようだけれど、それでもどすんという音と一緒に地面が少し揺らいだ。痛そうに男が顔をしかめる。その隣にあった梯子を使えばいいのに。というか、なんで飛び降りた。
身構えつつあたしは影形がはっきり映るようになった男を改めて観察する。なるほど、中肉中背だとばかり思っていたけれどどうやら上下がつながった作業着を着ていたからそういう体格に見えたらしい。背丈は多分170と180の中間だ。あたしがヒールを脱げば巨人に映るかもしれない。なんせがたいがそれなりにいい。土木作業員か何かだろうか。でも男の作業着には土埃よりも鮮やかな汚れが点々と付着していた。絵具、ペンキの類だ。無精ひげの生えた無骨な頬にもこれまた男には不釣り合いなピンク色がくっついている。
「…ペンキでも塗ってたんですか」
こっちだって仕事で急いでいる身なのに、何となく素性が気になって尋ねてみると男は「そう」と丸っこい眼をしながら頷いた。素直そうな人間だということがなんとなく伺える。悪い人間ではなさそうだ。あたしは男がのぼっていた一戸建てを眺める。ところどころがさびて茶色くなってしまっている水色の屋根の上には何かが乗っているように見えた。ついでに壁を見ると壁は白かったんだろうけれど見事に煤けて灰色っぽくなってる。下側の方には苔がびっしりと生えているのも見えた。多分この家には人は住んでいない。家周りのぼうぼうと生えた草がそれを証明していた。「空き家にペンキ塗ってたんですか」とまた確認。また「うん」と素直にうなずかれた。頭が痛くなってくる。理解しがたい行動に「なんで」と尋ねる。返ってきたのはこれまた理解しがたい?いや、理解は出来るけれどそれでも自分にはよくわからない感じの答えだった。
「おれはこの街をきれいにしてるんだ。少しでも見栄えをよくして住める家にしたら、此処だって外からやってきた人とかが住むかもしれないだろう?」
「わざわざこの街に人が来ると思ってんですか?」
「うん、そう言ってる。というかそうさせるつもり」
まさか、と少しこの男の素性について思い当たるものがでてきた。男に尋ねたのは、「あの街の中心部にある教会に関わっているのか」と尋ねる。その時点でたぶん、男もあたしが政府の人間だということに感づいたはずだろう。わざわざここまで掘り下げるようなことをする野暮な人間は街の住民にはいない。それでも男はこれまた素直に肯定した。
「そう、おれはこの街の再設計をする役目。よろしく。月見朔夜っていうんだ、好きに呼んでいい」
無茶な夢を軽々と語るその男の素直さに最早呆れさえ通り越して関心さえ覚えてしまった。残念だけど、あの教会にいる反政府組織の人間たちは反政府といえど大きなデモや騒ぎを起こすような治安崩壊を起こす奴らではないと聞いている。大きな殺人事件でも起こされない限り、あたしたちの仕事は一定して「極力街の外へここの住民を出さない」という監視ただそれだけに限られる。つまり、あたしはその男を無視することに決めたのだ。「そう、頑張ってね」なんて投げやりな返事をして背なんて向けて。月見朔夜とはその日はもうそれまでだった。その日は。
再び月見朔夜を見かけたのはあれから何日か時間を空けてのことだった。見慣れたはずのボロ屋はあの帰り道あとには真っ青に塗り変わっていた。昔こんな色のバンダナを巻いた女がこちらを見ている絵とか、近くの本屋のポスターで紹介されていたな、なんて漠然としたことを思いだしながら帰った覚えがある。その時にはもうあの男の姿はなかった。違うところに行ったのだろうとすぐに分かったし、きっともう会わないのだろうとも思っていた。今まで会わなかったように、これからも会うことがないと悟っていた。
悟っていたの、だけども。
月見朔夜はその日の朝、またもペンキで今度は違う建物を白く塗りたくっていた。まあ確かに綺麗にすれば住みたくなるかもしれないといった感じの普通の平屋だ。そんなことをまたしながら、あたしを見かけて「あ、生ける芸術家」と声をかけてきた。なにそれ。どっちが芸術家だ。
「そんな名前じゃないです」
「はは、だろうね。なんて言うの?」
「花園梨々花」
名乗る必要なんてないと思っていた名前をやっと告げると、男は「うん、リリカね」と反芻する。普通初対面に対してはもっと丁寧に名字呼びするものじゃないかな学生じゃあるまいし、と少し呆れる。でもこの街の人間にそんな常識とか暗黙の了解なんて求めたって仕方ないか、とスルーした。なぜか立ち止まっての会話を続けてしまう。この前センパイに「五分遅れてる」って咎められたばかりってことを思いだしつつも、なぜか。
かといって立ち止まったからってそれ以上、とくに話をすることはなかった。月見朔夜もペンキ塗りを黙々と適当な鼻唄をつくって歌いながら再開していて、あたしはただそれをぼんやりと眺めていた。五分くらい見て我に帰って、仕事に行くことを思いだす。無言で通勤を再開した時、動きに気づいたのか月見朔夜は最後にあたしに問いかけた。
「リリカはさ、この街に何年いるの?」
「…三か月とちょっと」
「ふーん、そっか。じゃあ見たことないんだろうね」
「…何を?何か特別なものでもあるの?」
イベントとか、ここでしか見れない風景とか。そんなものを瞬間期待する。月見朔夜は「まあそうかもしれない」と前置きしてからぽつりと吐いた。
「神様」
あたしは無言で立ち去った。
To Be Continued.
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