▼ Kadenz-1
この島に赴任して三か月が経った。
普通にただの国家公務員として全体の奉仕者を務めていたあたしがまさかこんな隔離された危険地域の管理をやることになるなんて、と最初は毎日嘆いていたけれど今ではもう慣れっこだ。本土とこの島を繋ぐこの駅の周辺には当初恐れていた怖い人はやってこないし、休日にはいつも通り本土の一人暮らしのアパートでごろごろテレビを見ながら酒だって飲める。普段はただ駅の前に座って本土に行きたい人間を待つだけ。誰か来たら書類を書かせたり通行パスがあるかを確認したり、その程度だ。やることなんて。
そんな簡単な仕事なのに支給される給料は普通の公務員の二倍。教師よりも楽な仕事なのに教師よりも破格の待遇。滅多に出会いもないからそろそろ婚期を逃さないかと不安には思うけれど、ここまで給料いいんだからもうこのままこの仕事をし続けるのもいいんじゃないかな、と思う、んだけど…。
「花園さん!花園さんちょっと!見てこれ!!この内臓!この綺麗な胃袋!中にまだ生きてるハエがいたんだよ!!」
二脚並んだパイプ椅子。右側にあたしが座り、左側には男の人。もうかれこれ三年ここで勤務しているらしいセンパイが、パイプ椅子の前に自分で作ったらしい歪な木の机の上にアルミ板を置いてその上で小さいカエルでスプラッタ劇場を一人で展開している。
…あたしの職場の不満と言えばこれだけだ。この人、いつ解雇されるんだろう。どうしてわざわざこんなところで解剖ショーを毎度毎度展開するんだろう。前に聞いた時は「家が汚れるから」って言ってたっけ。ここだって家の次に通う場所でしょうに、ていうか公共の場所なんだから、「いいから家でやれよ」としか言いようがない。確かにここはこの人からすれば環境的には良好だろう。絶対に脱走されるようなことがないように、この駅の裏(つまり海岸沿い)は樹木の壁に覆われている。この人好みの解剖生物がわんさかいるわけだ。もうこの隣に家でも建ててそこでやればいいと思う。
「…時雨センパイ、なんで解剖医とかにならなかったんですか。公務員よりも駅員よりも何よりも向いた天職じゃないですか」
ていうか元白崎民らしいですがどうやってこの街抜けて公務員なんかになれたんですか、という言葉は飲み込む。こんな明らかな精神異常者【解剖マニア】、本土になんて絶対行けるはずがないのだけど。
時雨センパイは「いやそれはちょっと言えない」と遠く、駅の眼前に広がる街並みをぼんやりと眺める。解剖道具を手放した時は年上のあたしよりも落ち着いた物腰をしていると思う。何か凄絶な過去でもあるのだろうか、本土に憧れ書類審査にやってくる白崎の人々の経歴は、普通だな、と思えるものから酷いの言葉も出ないものまで十人十色。この人も実は、何かしらの事情があって本土に行ったのかもしれない。
「…夕斗?」
不意に先輩が誰かの名前を呟いた。がたりと椅子から立ち上がる。目を見開いて一点を見つめている時雨センパイの視線の後を追う。そこには二人の男女がいた。橙色の髪の男の子と、茶色の髪の女の子。二人で近くの蕎麦屋さんに入っていく。
「知り合いですか?」と尋ねると、「いや、弟」という返事。…なんだ弟か。彼女もちの弟とは、なかなか。まあこの人も顔と普段の態度だけはいいし、弟さんもきっとそんな感じなのだろう。そういえば…。
「センパイから彼女とかの話ってあまり聞かないです」
「花園さんは無理」
「センパイちょっと自意識過剰すぎません?あたし無理です、センパイみたいな解剖マニア。…ただマジでセンパイみたいな人にも彼女とかいたりしたことあったのかなって」
「…あー…いや、まぁいたけどさ。まぁ別れるよね、どこに赴任するか、ここがどんな街かなんて相手には言えないわけだし。赴任決まった時点でさよならだよ」
「…やっぱそれですよねぇ」
合コンにはよく昔の職場の同僚から誘われることがあった。「梨々花まだ結婚してないよね?一緒に行こう!」って。あたしだってそりゃあ結婚して身を落ち着かせたいな、とは思う。二十七歳、そろそろやばい。若い子ぶってるけど肌はやっぱり現役女子大生だったあの頃と比べるとずいぶん…嗚呼、考えたくない。若作りにも限界が見えてきている。もうすぐアラサーとか信じられない。いっそ若くて綺麗なうちに殺せ、と思うけれどまだやっぱり死にたくない。収入の安定したイケメンと結婚して立派に専業主婦をやりたい。あ、身長はあたしより二十センチくらい高いといいな。その時点でこのセンパイは対象外だ。というかこのセンパイは性癖がね。
でもやっぱり結婚、となると話は難しい。あたしも何度かお付き合いを重ねたけれど、この街に赴任してからは中々男をゲットできなくなってしまった。公務員です、までは職業を言える。でもどこで?と言われたら機密事項にひっかかる。真剣に、将来結婚を見据えた相手や家族にしかこの街にいることは言えないのだ。合コンの場なんかでこの街の名前なんて出せるわけがない。この街、いや、島自体が機密によって守られているのだから。そうなると男も「僕は信用できないんだね」となって肩を落として去っていく。出会いがない。心が枯れそうだ。
赴任して一週間目くらいで本土からやってきた男を見た時は舞い上がったものだ。やだ、この街にもこんな人来るんだって。身長の条件もパッと見クリアしていそうだったし、この街の高校教師として採用されたらしいから収入も今のあたしよりはあれだけどやっぱり普通よりは安定しているし。さらになによりイケメンだった。センパイに「この人は行方不明の女をずっと探し続けてる一途な人だぞ」と耳打ちされるまではどうアプローチをかけようかとずっとそればかり考えていた。非常に愚かである。
やっぱり駄目だ。このままこうして今の悠々自適とした現状に甘えていたら、あたしは将来の安寧を逃してしまう。このままここにいたらいつまで経っても夢描いた理想の人との出会い、結婚、未来を掴めないままだ。この仕事はとてもいい。とてもいいんだけど、はやく、元の本土へ戻れるように異動の申請をしなくちゃ。
あたしは、広く遠い未来のために今を生きているんだから。
…なんて、そんなことを決意して生きているわけなんだけど、実際そんな決意をしてみたところで何かが始まるわけじゃない。残念ながらこの世界は小説みたいにプロットが用意されているような場所ではなく現実の世界だ。特にイベントなんてものが始まることもなく世界は日常を続けていく。当然私もこの島から出ることができないまま、解剖マニアのセンパイと一緒に日々を送っているわけだ。その解剖マニアのセンパイと恋愛をすればいいじゃないかとも一思いはするけれど、やっぱり解剖マニアという趣味はいただけない。焦って変なのとくっつくよりは、もう少し歳を重ねてからでもいいからまともで誠実な人と結婚したい、というのがあたしの願望だ。
はあ、とひとつため息を吐いて今日もあたしは職場に向かう。趣味の白いフリルブラウスに、黒いこれもフリルの多いスカート。この歳になってまでゴスロリかよ、とセンパイにはよく突っ込まれる。だけどこの仕事の制服だってゴシック系のデザインだ。何を着たって変わらないに違いない。なのであたしは普通に趣味だし、ということでこういう服装を貫いている。ただでさえ割りに合わない思いでこの島にいるのだ。趣味くらい貫いたっていいだろう。…とはいえやっぱり夏だし中に履いているボリュームのあるパニエが暑い。夏くらいアイデンティティは捨てるべきなんだろうか。額の汗を化粧が崩れることを気にしつつ拭って、早く行かなきゃ早く行かなきゃと気持ちだけ急いで職場に向かって歩いていく。
いつもと何ひとつ変わらない日常だった。
あたしは小説の主人公でもなければきっと名前のある登場人物でもない。そういう夢は捨てたのだ。待っていたって王子様はやってこない。シンデレラ・コンプレックスを拗らせていられる歳は終わった。そう、諦めていたんだけども。
「芸術的な格好だね」
頭上から響いた声にゆっくりとあたしは顔を上げていく。知らない男性の声だった。だけど、あたしは特に期待はせずに本当に怪訝に顔を上げていたと思う。なんせかけられた言葉が言葉だった。今までそんなことを言われたことがなかったし、こんな街での出会いなんてもう期待をしていなかったから。
だけど、なぜかあたしは数回のやりとりだけでこの関係が終わることはないのではないか。そんな直感を不思議と抱いてしまった。
そして目を合わせた瞬間、実際にあたしとその男の物語は始まるのである。
To Be Continued.
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