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最初にしたことは「前任者」が書いていたお話の把握だった。
どういうことを考えて前任者は話を組み立てていたのか、それを知るには膨大な時間が必要だった。一人一人の特性や世界観・時間軸、目指していくべき結末、何もかもを把握して忠実に「前任者」の望んだ世界を引き継がなければならなかった。散らばっていたルーズリーフや積み上げられたスケッチブック、パソコンのデータ、すべてを調べて読みこんだ。パソコンは最初はロックがかかっていて、それは凛が私を指さして「貴女のことよ」と教えてくれた。そうしてパスワードを解除した時はひどく複雑な気分になったことを覚えている。パソコンの中にはお兄ちゃんが書いていた話のワードファイルが残っていた。文章は止まっていて話自体は完結されていなかったけれど、それまでの話は結構順風満帆、普通に読んでいて一組のカップルはハッピーエンドを迎えられている。こんな感じで続々とハッピーエンドにそれぞれを導いていくのがどうやら私の仕事のようだった。
世界観はともかくキャラクター設定の理解はすぐにできた。登場する人物のほとんどが現実に存在していた人物をなぞっていたからだ。それぞれが学生ではなくある程度自立した思考を持つ青少年にまで成長した状態で、現実とは違う世界観で作品の中で生きている。だけどどうも設定が少し、私には歪で現実よりも陰惨な設定がそこに存在しているように見えた。なんせ美沙お姉ちゃんが身売りをしてしまっているし、それに由香子お姉ちゃんはお兄ちゃんらしき人物と揃って殺されてしまっている。どうしてこんな陰惨に物語が始まっているのか、わからなくて私は首を傾げる。凛も「現実になぞらえた話も書いていたのだけど消してしまったのよね」といった感じで、うまく私の疑問には答えてくれない。
神様はあまり前任者が考えた世界がどうしてそうなっているのかという意図については聞かされていないようだった。分からないところは自分で答えを探して埋めなければいけない。私は毎日紙束とパソコンと現実を比較しながらどういう意図で世界は構築されたのか、前任者の心象を探り続けた。そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。書けるところから手を伸ばして私は話の続きを組み立てることも同時に始めた。少しでも早く私も「幸せな結末」「希望した未来」をこの目にしたかった。
だけど読み込めば読み込むほど、私は前任者がどういう心境でこんな世界を構築したのかがよく分からなくなっていった。確かに夕凪さんらしき人物なんかは両親の設定が大きく変更されていて、ある程度ハッピーエンドに結び付けられるようなそんな変化を与えられている。お兄ちゃんらしき人物と由香子お姉ちゃんが揃って美沙お姉ちゃんを庇って殺されるのも、現実で出来なかったからということだということもなんとなく分かる。だけど、本当に大団円を望むなら、そもそも「殺人」なんて概念を用意しておく必要があっただろうか?
プロットは美沙お姉ちゃんの話の途中で止まっている。「この亮介にはきっと美沙を助けることは無理だろう」というコメントが添えられていた。美沙お姉ちゃんを救う気が無い?だって救済キャラクターとして用意されていたはずの「麻生時雨」は結局美沙お姉ちゃんの前から去ってしまっているではないか。
そうして混乱している間に段々と、凛との関係も軋んでいった。原因は私があまりペースよく執筆ができずに止まってしまっているからだった。「こう書いてあるんだからそのまま書けばいいじゃない」と凛は言うけれど、明らかに前任者の意思とプロットが噛みあっていない状態で書けと言われてもどうしたらいいのかが分からない。それに私だって守るべき生活があって、他のことを優先したい時もある。そういうことを中々理解してくれない。前任者にはそういう守るべきものなんてもう存在しなかったからだろう。使う時間が違うし、熱意の度合いも違う。
だんだんと私はどうして自分がそこまで自分を犠牲にして書かなくてはいけないのかが分からなくなっていった。それでも凛は「お兄ちゃんに帰ってきてほしいんでしょう?」なんて甘言を囁いてくるので、私はそれに釣られてまた言う通りにしてしまう。本当にお兄ちゃんが帰って来るなんて思ってはいなかった。でも、「もしも」があるのなら、私はそれに縋りたかった。たとえそれが簡単に切れてしまう頼りの無い蜘蛛の糸のようなものだったとしても。
そうして私はだんだんと自分を失っていった。友達は私から次々と去っていき敵に変わっていく。それでも成績だけは保ち続けた。そういうところだけちゃっかりしているところもまた敵を増やす原因だったのかもしれない。いつしか私は学校に「行かなく」なったというより「行けなく」なっていった。
本当に逃げ場を失くした状態で、私は言われたとおりに書き続ける。「楽しい」という感覚はなかったし、救われているような感覚もなかった。にいなちゃんのことを書き替えているときは、「こういう世界があったらな」と願いながら書いていられたのに、今はそういう自発的にやっている感覚がない。
私は、いつまでこんなことを続けなければいけないんだろう。
たった二年近くで挫折しかける。これじゃあいけないと、私はしばらくまた資料集めに専念することにした。あまり自発的に創造できていないからこんなふうにやる気を起こせずにくすぶっているだけかもしれない。少しでも考察出来ることを見つけられたらまた頑張れるような気がしていた。もっと、もっと探せばないかと私はがさがさと前任者の机を探り続ける。机と壁の隙間に落っこちていたルーズリーフがあることに気が付いた時は、何か大きな転機になるかもしれないと期待した。確かにそれは転機だったと思う。だけどそれはけして、プラスの結果になるようなものではなかった。私はそれを凛に見つかる前に破り捨てる。凛は文字が読めないけれど、それでも念を入れたかった。心臓がばくばくと騒いでいる。私は何度も何度も呼吸を繰り返す。そのうちその呼吸の回数は増加していき、正常だったはずの呼吸は過呼吸へと変わった。動揺を隠せず私は一人きりの部屋で「辿りついてしまった恐怖」に震える。落ち着くまでにはそれなりに時間が必要だった。
何度も何度も落ち着けと自分に言い聞かせて、それでも収まらなかったから死んだように眠りについて、物語の中から帰ってきた凛に「そろそろ起きて」と呼ばれたころにはすっかり心も落ち着いていた。自分が何をこれからすべきなのかも、やっと知ることが出来た。私は「そうね、書くわ」と起き上がる。これから書くのは、前任者が望んだ本当の結末。
席について、私はカタカタと文字を打ち始める。最初は凛は満足げにそんな私を後ろから見守っていたことだろう。だけど、私がぽつりと「これで終わり」と吐いて、凛が「どうなったの?」と話の中身についての説明を強請った時、私と彼女の立場は逆転した。
「なんだっけ、なんて言われて貴女は『神様』になったんだっけ?」
「え?…そうね、確か『神頼みする時に誰か特定の名前を呼んだりはしないから君はただの神様なんだ』って言ってたわ」
「それならあの人は何を望んで貴女に名前を『返した』んだろうね」
「…わからない」
「そう、じゃあ教えてあげる」
凛が凍る。私は語る。神様でも何でもなくなった貴女の最期について。この世界の最後について。舞台をつくった私と前任者が、その舞台を破壊する結末。どうしてお兄ちゃんがこの世界をこんな風に作ったのか、どうしてお兄ちゃんは死んでしまったのか、私は辿りついてしまった真相を語る。その上で、この結末は完成したのだと、教えていくにつれて凛の顔は青く染まっていった。「そんなわけない、ちがう」と彼女は首を振るけれど、違うんだったら「こんな人物」が物語の中に存在する理由なんてないのだ。
「あの人にとって、もう貴女は要らないものなんだよ」
『人間』として舞台に凛を突き飛ばす。そうして私は彼女を刺殺した。構築されていた人間だけの世界は、私という神の手で滅んでいく。そんな『完結』を迎えた物語のファイルを閉じて、私はファイルを『ごみ箱』に捨てた。ここまで頑張ってきた二年間がすべて無駄になった瞬間だった。
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