Mourn’


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 その日の彼女は偶々夢を見ていた。いつのことともどこで起きたことなのかも分からない、過去なのか未来なのかもわからない曖昧で、されど現実にあったことをリフレインするようなそんな妙な説得力のある夢だった。
 何かが既に殴り書きされた紙が散らばる部屋の中で、彼女は神と話をしていた。神は彼女に応えないように背を向けているのだが、それでも彼女は澱んだ桃色の髪を揺らしながら笑顔で神に呼びかけていた。その呼びかけの内容も今一つはっきりと思いだせないところがあるのだが、確か「もし私が死んだら」と彼女は言っていたと思う。そこで神の動きも記憶が正しければ止まっていたはずだ。何か自分が死んだときのことについて神に願っていた。その神は失敗した現実を理想的な夢で塗り替えることで世界を再構築しようとしており、ある人からは「創造主」と呼ばれていた存在だったので、大方彼女も夢の世界での自分の成功を神に願っていたのだろう。神は背を向け続けるばかりで彼女の願いは聞いていないようだった。
 しかし彼女の願いは叶っていたのではないだろうか。「かなえてあげる」と神の遣いが一人きりの部屋にやってきたあのとき、目を覚ましたその隣に彼女と同じ顔をした少年がそばにいるのを見つけた時、彼女の世界はまさに理想的な形に塗り替えられていたのではないだろうか。…とは言ったがやはりそれはないか。願いが真に叶っていたならば彼女はその少年と永久の別れなどする必要はなく、また自分を失う必要もなかったのだから。やはりあの日々は絶望に叩き落すまでの蜘蛛の糸に縋るだけの日々だったに違いない。

 当然このような都合の悪い夢は、目を覚ました瞬間に見なかったものとして彼女の中で処理されてしまった。しかしそれで本当に忘れられるものだったのだろうか。忘れようとして余計に記憶を強く残してしまうのが人間というものだった。彼女は「麻生広香」という人格は失いかけであるが、まだ本当に鳥類になってしまったわけではなかった。白鳥でもあるまいし、鴉が上手に水面で踊れるわけがない。彼女にはまだ人間である必要があった。ゆえに、今日の夢の記憶は僅かに彼女の脳裏に残り、そして黴のようにこびりつくこととなった。彼女にしては珍しく頭を悩ませているような表情をしていたように思う。しかしそうなっていることに気が付いた彼女は、仕事もせずにその日は食事だけをとって眠りに付いてしまった。再び夢のことを思いだすのは目を覚ましてしばらくしてからになる。



 目を覚ましたきっかけは誰かの叫び声のようなものをこの家の中で聞いたからだ。それは女性のものだった。この家で女性といえば天野美沙、来原芽衣、そして自分だが美沙はすでに死亡しているし、芽衣はそもそも人形なのでしゃべるということはしない。自分が叫んだのかと一瞬彼女は彼女自身を疑った。しかし、自分は「もうこんなことやめて」なんて叫ぶ理由を持っていない。ならば麻矢のパトロンだろうか?不審に思いながら彼女は玄関口までよたよたと降りていく。しばらくして見えた光景に、彼女は目を瞬かせたが、すこしして気のせいだったと結論した。
 それは彼女にとってありえない光景だったのだ。来原芽衣が自ら自立して顔をゆがめ、言葉を発しているなど。
 そこで本来ならば自室に戻るべきだったのだが、彼女はなぜか足を動かすことができなかった。そうして立ち尽くしている自分に気が付き、彼女は無い頭で「こうやって見てることが踊ることなのかもしれない」と判断する。そうして見ていることを次のステップと結論した彼女は、麻矢に向かって叫ぶ芽衣の姿を遠巻きに眺めた。夢の中で自分を見つめる第三者の視点と同じ、小説を読む読者と同じ、他人事の目線をしている。

 そんな灰烏の姿があることも来原芽衣は気づいていた。だが、灰烏には頼れないことにもすでに芽衣は気づいていた。
 彼女も壊れている。壊れた人間を頼ることは難しい。頼りにしていた美沙がいないこんな時だからこそ、せめて彼女に頼れたらと思っていたのだけど、でも、彼女もどういうわけかこんな状態だ。私一人でも、何とかして二人を、彼を、戻さなくちゃ。助けなくちゃいけない。
 まずは一番近くにいた麻矢からだ。美沙のショックで辛いのはよく分かるし、私だってつらい。でも、このタイミングだからこそ私は私の声が麻矢に届くのではないかと思えるのだ。暗がりで良く見えないけれど懸命に麻矢の目の位置に視線を向け続ける。私を、私を見て、と心の中で呼びかけながら、私は喉を震わせた。

 「何度も何度も麻矢に呼びかけ続けていたけれど、麻矢は私を「強盗に遭った時に死んだ」と思いこんで私を受け入れようとしなかったよね。私も死体でいることを許容してた。そういう自分を受け入れていた。ずっと麻矢に愛でられるお姫様でいいと思ってた。――でもやっぱり違う、こんなのおかしい。間違ってる」
 「……」
 「もうやめよう。私はお姫様なんかじゃないよ、人形でもない。私は、」
 「どうしてこんなところに芽衣が置いてあるんだ?」

 言葉が止まった。麻矢が灰烏を呼んでいる。貴様が芽衣をここに連れてきたのかって、当然灰烏は「違いますよ」と答えた。そうだ、灰烏はまだおかしくなったのは最近だからきっと私がしゃべったことで何か思うことができたかもしれない。…そう淡い期待を抱いたけれど、灰烏もやっぱり元には戻らなかった。もう灰烏の中でも私は完全に人形になってしまったらしい。「麻矢さんが遊んで手元に戻さなかっただけじゃないですか」って、そんな。
 
 「駄目じゃないですかちゃんと出したものは元の場所に戻さないと家が散らかるでしょう」
 「知らん、貴様ではないのか」
 「麻矢さんが大切にしている芽衣さんを私が勝手にどうにかするわけないじゃないですか。壊れたり汚したりしたら麻矢さん怒るでしょう」
 「あ、あざや、はいがらす、まっ」
 「当然だ。…さては強盗?また芽衣を誰かが壊しに?」
 「待って、ねぇ、」
 「まさか。何の物音もしませんでしたよ」
 「…ひとまず芽衣を元の場所に戻さなければ、灰烏、此処を見張っておけ」
 「待って!!」

 叫んだ声が部屋中に響き、二人の不毛な会話がぴたりと止まる。静まり返った部屋、もしかして、やっと私の声を認識した?
 あざや、とまた彼の名前を呼ぼうと口を開いた。けれど、それは途中で終わってしまう。ひゅ、と息が漏れた。とたんに苦しくなって崩れ落ちる。やっと麻矢の目の位置がわかったとき、私はどうしてこうなったのかが理解できなくなってしまった。麻矢の私を見る目は、昔押しかけてきた強盗に対してのそれと同じ敵意を孕んだ冷たい色をしていた。

 「…芽衣、どうして喋ったんだ。芽衣は喋らないだろう?」
 
 咎める声とともにまた刃物が降り下ろされた。麻矢は鎌を好んで使っていたことを思いだす。一瞬の出来事に視界が眩んだ。それ以上彼からの言葉は聞こえなかった。ぼんやりと映像が目の前で流れ出す。走馬灯ではなかった。夕暮れの白い建物の中、誰かと私は一つの扉の前にいた。扉には「図書室」というプレートがかかっている。何故か私はその建物を「校舎」と呼ぶことを知っていた。隣にいるのは私が知っているよりも髪が長く少し顔立ちも幼い美沙だった。口を開いて「ねぇ知ってる?」と話を切りだす私の声は私が知っているものよりもちょっとはきはきとしている。私はどこかの「制服」というものを纏った私を遠くから俯瞰していた。

 「死体のふりをし続けていたら本当に死体になってしまった女の子がいたんだって」
 「死体のふり?どうして女の子はそんなことを続けたの?」
 「なんでも女の子は向き合うことが怖かったのだそうよ。女の子は自分を人間として見てもらうことを諦めてたとかなんとか」
 「それで、女の子は向き合えないまま殺されたんだね」
 「そうそう。でももう手遅れ。女の子が死体のふりをしているうちに、男はすっかり狂っちゃった」

 美沙と話していた私は振り返って、俯瞰していたはずの私のほうに目を向けた。今度は私が俯瞰される立場に変わる。私は人形の形をした哀れな私の姿を見ていた。眼球はグラス、髪の毛は細い絹糸。首・肩・肘・胴体・股関節・膝・手首・足首、そして指に至るまでが球体でつなげられていた。左の足首から白いゴム糸が伸びていて、私は左足首から伸びるその紐を誰かに捕まれているせいで足首から宙に吊るされている。綺麗な服を着せられて、綺麗に髪を結われた表情の無い私。そんな私の背後に大きなハサミが迫った。ハサミでゴム糸がぷっつりと切られた瞬間、地面にたたきつけられた私を見て、これは死体のふりをしていた私が本当に死体になってしまった大きな皮肉を現す夢であることに気が付く。
 ハサミを持っていたのは麻矢だった。足首を切られた途端、頭・胴体・股関節・太腿・ふくらはぎ・そして足の順にばらばらになって地面に散らばる。麻矢が右の手を摘まんで、それを無表情で足をそうしたように糸を引っ張りだして同じようにそれをハサミで切る。胴体から手がばらっと崩れた。麻矢が去っていく。私はごろっと転がった私の頭を見つめる。目が合った。愛されていたはずの人形は、もう誰にも組み立てられない。自立して立つことも座ることもできない。パーツだけの人形は、もう誰にも愛でられない。ただの死体が其処には転がっている。私はそんなパーツに手を伸ばそうとして、手を引っ込めた。私も私のことは愛せなかった。

 「貴女は、動かされたとおりに動くべきじゃなかったのよ」

 もう誰にも組み立ててもらえない人形にそれだけを投げかけた。きっと人形自身もどうして自分がこんな姿になってしまったのかを知っていたはずだ。人形は元々は生きていた人間だった。人形になんて姿を変えるべきではなかった。人間として自分の足で動いて、叫び続けることを諦めてはいけなかったのだ。
 もうここで出来ることは一つもない。私は人形に背を向けて、そばで待っていてくれた美沙のほうに向きなおる。美沙は「もういいの?」と私を見て首を傾げた。うん、と頷いて彼女と一緒に誰もいない廊下を歩きはじめる。図書館が遠ざかっていくのを背中で感じる。不意に「にゃあ」という鳴き声がしたので美沙のほうに目を向けると、いつの間にか美沙は黒い猫を抱きかかえていた。どこかで見覚えのあるようなそんな姿だ。

 「…その猫、なんて名前だっけ」
 「太郎だよ。私が名付けたの。可愛いでしょう」

 生まれてくることができなかった命を抱きかかえながら美沙が笑う。私の腕にもいつの間にか抱かれていた。あどけない顔をした男の子。あるはずだった未来。私が掴めなかった「いつか」の可能性。ごめんね、と呟くと子どもは何とも言えない母音を発しながら笑った。目元が少し彼に似ている。思わず足を止めてしまった。振り返ることはもうできないと分かっていたはずなのに。だけど、どうしても今、許しを得たかった。許しを請いたかったのだ。ずっとずっと誰からも愛されないと思い込んでいる彼に、今度も寄り添えなかったことを懺悔したかった。胸がひたすらに苦しいけれど、そんな胸を押さえる手を抱えている赤子のせいで用意できなかった。
 ああ、歩かなきゃと思いなおしてもう一度歩きだす。隣にいたはずの美沙がいつの間にか消えていた。どうやら私をここまで連れてきてくれただけの幻覚だったらしい。もう大丈夫、と吐いて私は一人で玄関口まで向かっていこうとした。そういう意識があっただけで実際に私が其処に向かっていたのかどうかは確かではない。ただ、何かを恐れるようなことはもうなかった。

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