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私の願いと、慶さんの協力の甲斐が報われたのか、ある日の昼間、いつものようにお兄ちゃんの部屋のそばに行こうとした私は、ついにその言葉を聞いた。
「桜葉の気持ちもいい加減考えてやらないとな。分かってはいるんだよ」
心に降り続いていた雨が少しだけ音を緩めたような気がした。だって、お兄ちゃんが私の名前を呼んだのだ。それはとても尊いことで、幸せなことで、望んだことだった。嬉しくて、今度は別の涙があふれ出す。ああ、お兄ちゃんが、私を、
「作品を全部燃やすか、桜葉を忘れ去るかってことだろ?どっちも大切だよ」
ああ、これはなんて幸せな夢なのだろう。お兄ちゃんの優しく笑う声が部屋から聞こえる。お兄ちゃんが私のことを呼んでくれる。私のことを考えてくれている。ずっとずっと聞きたかった愛しい響きが、私の心を満たしていく。これは私の想像じゃないんだ。現実に起きたことなんだ。私の物語の中のお兄ちゃんじゃない、目の前にいるお兄ちゃんの本当の意思なんだ。
「じゃあ行ってくるよ」という聞きなれない言葉が響く。どうやらお兄ちゃんは出かけるらしい。きっと私のために何かを用意してくれるのだろう。お兄ちゃんから、何かをもらうなんてもうずっと前の話だ。いきなり話をするのはちょっと私も緊張するから、お兄ちゃんがここに来るのを待っていよう。お兄ちゃんが、帰ってきて、私に話しかけてくれる時を待っていよう。
だから私は自分の部屋に戻って、お兄ちゃんがいつでも部屋に入れるように部屋をきれいにすることにした。一階に続く階段を降りる音が聞こえる。ふふ、と小さく笑みがこぼれたのは、これからの未来が楽しみで仕方なかったからだった。ああでも掃除をする前にもう一人のお兄ちゃんに話をしなくちゃ。私は机の棚に大事にしまっているスケッチブックを引っ張りだす。はじめてお兄ちゃんを描いたときからもう一年が過ぎたけれど、その他った一年だけでも大分お兄ちゃんを書くことが上手になったと思う。平面の向こう側にいるお兄ちゃんは、昔書いたそれよりもずっと忠実な顔をしていた。背中しかずっと見ていないから実際の笑顔はもう思い出の中にしかないし、そのせいで大分お兄ちゃんは幼い表情をしているような気もするけれど…でも、此処にいるのは確かに私の優しいお兄ちゃんだ。
「ねぇ、【イチ】聞いて?…なんだい桜葉、ずいぶんと嬉しそうだね。どうしたの?」
少し間を置いてからちょっと自分の声を低くして、それらしいお兄ちゃんの声をつくる。目の前まで掲げたスケッチブックに向かって「あのね」と私は声を大きくした。いつもは小さい声だったけれど、今日はずいぶんとはきはきした声が出る。こんな声が出るのはいつぶりだろう。こんなに、心が弾むのはいつぶりだろう。
「成一お兄ちゃんがね、私の名前を呼んでくれたの!」
「ああ、そうなんだ。それはよかった。桜葉はずっと成一お兄ちゃんのことを待っていたからね、やっとだね」
「うん、本当に!ねぇ夢みたい。私はまたお兄ちゃんとお話が出来るのよ!」
「うん、そうだ。でもこれで僕は用済みかなぁ」
「そんなことないよ。イチも私の大切なお兄ちゃんだよ。イチもずっと一緒だよ。…そうだ!成一お兄ちゃんにイチのことを紹介してみようかな?成一お兄ちゃん絵が上手だもん、きっとイチのこと、きっと私より上手に描いてくれるわ」
「え、本当に?うーん…嬉しいけれど、でもそれはいいよ」
「どうして?」
「だって、僕は桜葉に描いてもらえることのほうが嬉しいんだ。僕は桜葉に描いてもらいたいんだよ」
自分の想像から紡がれた言葉が愛しくて私は自分のスケッチブックを胸に抱きよせた。こういうとき、なんという言葉を伝えたらいいのかがうまく言葉に出てこない。でもきっと、美沙お姉ちゃんならこうやって言うんだろう。これが、愛なのかもしれない、なんて。そうだ。私は愛しているのだ。成一お兄ちゃんのことも自分が作りだした物語もすべて。その言葉を見つけた瞬間私はこれは伝えなくちゃと思って、「愛してる」とスケッチブックに向かって囁いた。しばらくして「僕もだよ」という声が部屋に響く。――ここで会話はおしまい。私は「またね」とスケッチブックに手を振ってそっと閉じて、また棚に戻した。
さてどこから部屋をきれいにしよう。飾り付けなんて作ったら大仰かな?そうだ、私も少しはお菓子が作れるようになったから、お菓子を作ってみるのもいいかもしれない。確か昨日食べたさつまいもがまだ丸ごとゆでられたまま冷蔵庫に入っていたはずだ。それでスイートポテトなんて作ってみようか。お兄ちゃん、甘いもの好きだもんね。でも作る前にお兄ちゃんが帰ってきたらどうしよう。部屋だけ片づけて、それからお兄ちゃんが来たら一緒に作ってみる?お兄ちゃん作れるかな?私が教えたらそれでいい?
あれやこれやと考え事をしながら、私は軽い足取りで散らかっている人形をベッドに戻したり本棚の整頓なんかをする。カーペットの埃を粘着テープで取り除いて、クッションをきれいに並べる。あと少しでも身なりよくするために髪なんかも梳かし直して。まだかな、まだかなとわくわくしながら私はお兄ちゃんを迎える準備を何時間もつづけた。時間がそれだけ立っていることなんて何一つ気が付いていなかった。帰ってこないとか、そういうことがあるなんて思ってもみなかった。だって、あり得ないことだと思っていたんだ。
そう思っていたはずなのに、気が付けば私はお兄ちゃんの遺影の前に立っていた。あり得ない、と思っていたしそもそもそんな可能性なんて一つも考えていなかった。だけどこれは現実だったらしい。白黒の幕に色とりどりの花。白い空間で私はぼんやりと立ち尽くしていた。どうして自分がこんな場所に今立っているのかもよく分からなかった。目の前に飾られているお兄ちゃんの遺影は、中学校時代に撮ったのだろう幼い顔つきをしている。何年も見ていなかったお兄ちゃんの顔は、棺が閉じられていて見ることが出来ない。なんとなく体が覚えているやり方で焼香をして、「明日には白骨になる」みたいなことを言うお坊さんの言葉を椅子に座ってぼんやりと聞いていた。線香の香りがずっと鼻腔にまとわりつづけている。きっと当分この匂いは沁みついたまま消えないのだろう。そんなことをぼんやり考えながら、私はなんとなくあたりを見回した。遠い昔に見たきりの黒髪の親族、式場のスタッフ、あとお兄ちゃんの最後の友達の慶さんが座っている。俯いていたり、ずっとと前を見つめていたり、あとは後ろを向いている私を睨んでいたり、様々だ。そっと前に向き直る。自分から変な驚きの声が漏れそうになったのはその時だった。
棺の上に、女性が座っているのが見えた。長い黒髪の女性が、着物のような袴のような、セーラー服のような、そんな不思議な服を身に纏って優雅に座っている。そのスカートの色は暗い赤色をしていたけれど、それでもその赤はこの場にそぐわない鮮やかさを持っていた。腰より長い黒髪は、彼女が袖を動かすたびに少しだけさら、さらと靡いて、角度が変わるたびに七色に光を変えていく。黒い空の中に虹が浮かんでいるみたいな輝き。でもそんな美しさを持つその人の目はよく見えない。でも、口元がきゅっと結ばれていること、その手は棺をそっと撫でていること、それがはっきり見えたからどういう目をしているのかもなんとなく知ることが出来た。この人の名前がなんという名前なのかも。それに気づいてしまった瞬間、私は声に出してその名前を口にしていた。
「凛…?」
お兄ちゃんは思えばあるときからその名前を口にはしなくなっていた。「きみ」とか、「かみさま」とかって呼んでいたと思う。でも呼び方が変わっただけで話し相手は変わっていないはずだとなんとなく私の中で勝手に思い込んでいた。それで、正解だったらしい。お経に紛れて私の独り言なんて聞こえていなかったはずなのに、彼女は私のほうをぱっと向いた。髪の毛が大きく靡いて、それから彼女の顔が露わになる。予想通り彼女は泣いていた。やっぱりそうだ。彼女がきっと兄と話していた「凛」であり、「きみ」であり、「かみさま」なのだ。私は、兄が見ていたものと同じものを今見ている。そこに「どうして」なんて理由を求めるようなことはしなかった。ただ、見えるという事実があればそれでよかった。向こうもきっと同じように考えていたのだろう。私と彼女はしばらく、ただただお互いが見えていることを確認するようにじっと見つめ合い続けた。
葬儀が終わって兄の部屋に行くと、彼女はそこで私を待ち構えるようにたたずんでいた。改めて自己紹介をする、というようなことはしなかった。お互いが既にお互いが何者なのかを認識していたから、その必要はなかった。彼女は自分は亡霊であると私に教えてくれた。つまり兄の想像ではない、ということを伝えたかったのだろう。その上で彼女は私に提案を持ちかけてきた。どちらかというと懇願に近い提案だったと思う。そんな提案に私は乗ってしまった。そのときは私も彼女と同じ気持ちだったのだ。かつて生きていた兄とも、同じ気持ちだった。私と兄はいまこのとき、彼女を通して同じ思考になっていたのだ。
物語を描いて、その物語を現実に変える。彼女が作りだした嘘を本物に変えてくれる。彼女が望んだ彼女の不幸を幸せに転換する話を入れる条件を守れば、ちゃんと私の世界も変えてくれる。優しいお兄ちゃんが帰ってきてくれる。失くしたはずの未来を取り戻せる。
夢みたいな話だった。だけどそれが叶うのならば、少しでも可能性があるのならばと私はそれに縋った。私は彼女の愚かな提案に乗り、兄の部屋に自分の私物の一部を移した。兄が書いていた話の方針をそのまま使おう、ということで私が兄の話の続きを書くことが決まった。
そうして私は「創造主」へと名前を変えたのだ。
To Be Continued.
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