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私の人生は総合的に見て幸せな形をしていたと思う。
兄とおそろいのはちみつ色の髪の毛の色は、それが差別の対象になると分かっていても嫌いじゃなかった。周りに何を言われようと笑顔でいられた。兄がずっと私のことを守ってくれたからだ。そんな兄のことが好きだったからだ。だから何を言われても、私はお兄ちゃんと同じ色をした髪の色が好きだと自信を持っていうことが出来た。そういう私と友達になってくれる人もいた。私の人生は成功していた。
兄の友達も私によくしてくれた。私が赤ちゃんの時から兄と知り合いであるという美沙お姉ちゃんと由香子お姉ちゃんは特に私を本当の妹みたいにかわいがってくれたと思う。私もそんな二人のことを本当のお姉ちゃんだと思っていた。由香子お姉ちゃんは一緒にバドミントンの仕方を教えてくれたし、美沙お姉ちゃんは私の服にフリルやレースなんかを縫い付けて可愛くしてくれたりもした。優しい人たちだった。たまにやってくる夕凪さんとも、一緒にお菓子を作って遊んだりしていたと思う。
でも兄の男のお友達、慶さんと亮介さんとかは苦手だった。慶さんはそもそも何を考えているのかよく分からなかったし、亮介さんはそもそも私のことは視界に入っていないようだった。そしてその二人は私から兄を奪って部屋に閉じこもって遊んでしまう。特に亮介さんはそうだった。ひどい時は毎日のように兄を奪っていったし、私はこの人のことが好きではなかった。慶さんはやってくる頻度も少なかったからまだよかったけど、本当に、亮介さんのことは大嫌いだった。でも兄はちゃんとそういう私の感情をわかっていてくれたみたいで、友達が帰った後はいつも私に構ってくれたし、私も亮介さんや慶さんじゃないと出来ない兄との遊びがあると理解していたから我慢できた。嫌なこともあったけれど、でもそれで兄を嫌いになるようなことはなかった。ちゃんと兄が私を愛してくれていると知っていたのだ。私の人生は美しい形をしていた。
一つ目の歪みが起きたのは小学校二年生の春の日のことだった。いつも遊んでいた仲良しの女の子が「空に行く」と言って高いところから飛び降りてしまったのだ。
前々から女の子は「桜葉ちゃんにだけ教えてあげるね」と、舌足らずな口調でいつも読んでいる本の内容を話してくれていた。私と同じく友達が少ないその子は足が悪かったから、遊びに行くのは決まって私のほうだった。彼女はいつも「いつか空を飛んで、かみさまのもとにいくの」と笑っていた。そうして彼女は本当に神様のところに行こうとしてしまった。いつも一緒に上っていたはずの学校の階段を一人で上って、そうして私が知らない間に空を飛ぶこともできずに真っ逆さまに地面に落ちていったという。
生まれてはじめて出席した葬式のあと、永遠の別れというものを知って私は大声で泣いた。兄が私をずっと励ましてくれて、そして「お話を作ってみたら」と私に提案してくれた。「あの子が幸せになるお話を作ってみよう」、そんなただの気休めの提案。だけど私はそんな気休めの提案に当時は飛びついた。私の手であの子をたすけたいと思ったのだ。あの頃は単純にそれだけを考えて話を描いた。はじめてつくった物語は絵本の形をしていた。絵本の中の世界は歪みなんて一つもなかった。現実の歪みが消えた絵本の中の世界には新しい登場人物が描かれている。女の子のそばには大きな緑色の鳥を置いた。本当は鳥の色は茶色にするつもりだったのだけど、間違って緑色を塗ってしまったから結局緑色の鳥、ということで話はまとまった。女の子よりも一回りもふた回りも大きな鳥が、落っこちていく女の子を助けて空まで運んでいく。これが正解の結末でいいと思った。そうやって話を書き続けていくうちに、女の子が救われていくうちにだんだんと私の心は救われていった。
それからも私は小さな悲しみが胸を満たすたびに、それを払拭するために絵本を描いては兄に見せたり、兄のほうが字が綺麗だからと代わりに文字を書いてもらう日々を過ごした。まだ私の世界は生きていた。私は悲しみを幸せに自分の中で変換することで人は生きていけるのだと信じていた。なんでもそれで解決すると思っていたし、そもそも、きっと深い悲しみがもっともっとこの世界には広がっているなんて現実、私は知らなかった。今後一生知ることはないと思っていた。だって、私の人生は完成されていたのだから。
でもその完成された人生が、ほんの一夜で破壊されることになるなんて。その時は、思ってもみなかったのだ。
二つ目の歪みは私の世界をすべて滅茶苦茶に破壊した。これからも続くはずだった日常も、当たり前にあるはずだった先の未来もすべてがなくなってしまった。願っていたことすべてが叶わないものに変わってしまった。
美沙お姉ちゃんが死んだ。そう二階から聞き耳を立てて聞いた時、私が感じた予感は決して外れていなかった。ただ取った行動はきっと、兄からしてみれば間違いだったのだと思う。由香子お姉ちゃんが雨の中、ふらふらと家とは違う方向に向かっていくのを自分の部屋の窓から見てしまった時、私はお兄ちゃんもそっちに行ってしまうと悟った。そして、きっともう戻ってこないのだということも。…あの子、にいなちゃんと最後に会った時と同じ気配がしたから、なんとなく気が付いてしまったのだ。私は隣の家の都多家の電気がついているのが見えたから、とっさにお兄ちゃんを止めるために亮介さんがいなくなった玄関を飛び出して危険を知らせた。お兄ちゃんが死んじゃう、とか、そんなことを叫んだと思う。私が冗談を言うような子ではないということは、都多のおばさんもおじさんももう長い付き合いだから知っていたらしい。すぐにお兄ちゃんを取り押さえて、お母さんとお父さんを仕事から呼び戻した。
取り押さえられたお兄ちゃんはずっと、しきりに同じことを叫んでいた。おばさんもおじさんも泣いていた。駆けつけたお母さんもお父さんも泣いていた。それでもお兄ちゃんを四人でずっと止めていた。私はそれを遠くから見つめながら、お兄ちゃんの声に耳をふさいでいた。
死なせてくれ。
いかせてくれ。
二人が待っているんだ。
私は引き留めるべきじゃなかったのだ。
私だってこれ以上誰かを失いたくなかった。家族に近い人を失って、それでさらにお兄ちゃんまで失いたくなかった。でも、それでも私は我慢するべきだったんだと思う。だって、私よりもずっとお兄ちゃんの方が悲しみも苦しみも深かったのだから。お兄ちゃんと美沙お姉ちゃんと由香子お姉ちゃんは、ずっと三人一緒、だったから。私はお兄ちゃんを二人から引き離すべきではなかった。私は、死に向かって、二人に向かって歩いていくお兄ちゃんの背中を見守るべきだった。先回りしてとおせんぼなんてしてはいけなかったのだ。
そんなことを考えながら私は何度もお兄ちゃんに対して心の中で懺悔を繰り返した。お兄ちゃんとの仲を引き裂いてしまった二人に対しても、何度も、何度も。けどそれは届くことはなかった。お兄ちゃんはことあるごとに脱走してどこか――おそらく二人が死んでしまった場所に向かおうとしたから、ついにお兄ちゃんは部屋に閉じ込められた。窓には大袈裟にもベニヤ板が打ち付けられて、ドアには鍵が付いた。そこまでの状態になってやっとお兄ちゃんは叫ぶことをやめた。声も大きな音も経てなくなったから、最初は部屋の中で死んでしまっているのではないかと誰もが不安に思った。そのくらいお兄ちゃんは静かになった。二週間もその状態が続くと、さすがにその部屋自体が精神的に悪い状態をつくっているのではないかという話になって、とうとう部屋の監禁は解かれた。お兄ちゃんがそこでまた死にに行く、というようなことは起きない。お兄ちゃんは誰が部屋にやってきても、ずっと、ずっとただ壁にもたれかかった状態で一点だけを注視していた。みんなはそんな様子を見て、「やっぱりおかしくなった」「でもこうする以外にこの子を守る方法がなかった」「これ以上誰かに死んでもらいたくなかった」という話を何回も何回もしていたけれど、私にはなんだかお兄ちゃんがずっと誰かを見ているような気がしてならなかった。
その予感もきっと当たっていたのだろう。部屋が元通りになってしばらくたつと、兄は一人で喋るようになった。何か考え事を口に出すというより、会話をしているようだった。けれども兄は私や他の人、生きている人間との会話は拒んでくる。それでも周りは病院に連れていこうと兄に何度も話しかけた。けれど兄はそんな周囲ももう視界に入っていないらしい。ずっと、ずっと、一人で誰かと話をしているのだ。
最初は美沙お姉ちゃんや由香子お姉ちゃん、亮介さんと話しているのだろうと思った。周りがそうやって言っていた。私もきっとそうなのだろうと思っていた。でも違うということにあるとき気が付いた。会話をしながら、兄は一定の作業をしている。机に座って、ノートを開いて、其処に勉強の内容とかではなく別の何かを書いている。私とおそろいの人からもらったスケッチブックなんかを開いて、何かを描いている。そしてだれかと「ここはどうしようか」「じゃあこれはこうしよう」「うん、僕もそれがいいと思う。じゃあここに彼女を置いて、それで」と何か作戦を立てるように話を進めている。私にはその行為に覚えがあった。兄は、見えない誰かと物語を作っていたのだ!
兄以外誰もいない部屋の中、唐突に兄が「じゃあよろしくね、凛」と誰かの名前を呼んだ。たぶん、それが兄の見えない話相手なのだろう。昔、兄は私の物語を作る手伝いをしてくれた。でも兄が作る物語に私は協力させてもらえない。私は兄を傷つけた加害者だったから。私は兄に寄り添えない。私は兄と一緒に世界を変えられない。それが悲しくて、でも縋りたくて兄の名前を小さく呼んだ。兄は振り返らなかった。それが答えだったのだろう。
月日が過ぎ、兄の部屋に散らばる紙の量は最初の頃と比べてかなり増えて、そして一定量で止まった。兄はかなり大きな物語をつくっているのだろう、部屋にはノートパソコンのタイピング音が不規則なリズムで響き渡っている。兄は今日も一人で話をしていた。「そっちはどうだい?」「うまくいきそうに見えるかい?」――きっと私に対する会話じゃない。でもそんな兄に対して懸命に話しかけ続けている人が兄の横に立っていた。こげ茶色の背の高い男の人は、安藤慶さん。よく知っている人のはずだった。だけど彼は唐突にある日私に対して「はじめまして」と自己紹介をしてきた。どうやら彼は確かに美沙お姉ちゃんが生きていた頃から知り合いだったはずなのに、その記憶を失くしてしまっているらしい。去年の夏まではちょくちょく兄の様子を見に来てくれていたはずの夕凪さんが家に来なくなってから、彼もぱったりと姿を見せなくなっていた。再び現れてからずっとこの調子だ。たぶん、夕凪さんも帰らぬ人になってしまって、その瞬間今まで私が知っていたはずの慶さんも死んでしまったんだろう。今度こそ兄は本当に一人になってしまった。
でも、慶さんは忘れているはずなのにずっと兄にいろんな質問を繰り返している。返事のなかなか帰ってこない質問を、私なんかよりずっと粘り強く問いかけ続けているのだ
。「この子はどんな子?」「どうしてここで彼は泣くんだい?」「どういう話で彼女は動くの?」って、あまりにもしつこいから兄もうっとうしそうに口を開いていて。それを見るたびに私は少しだけ、兄が現実に帰ってきてくれたようでほっとするのだ。もしも慶さんと兄がもっと話をするようになったら、兄はいつか私の呼びかけに対しても答えてくれるんじゃないかって。そんな淡い期待を胸に秘めながら、私はそっと部屋に戻る。この頃から私も話をつくるようになり始めていた。私のことを好きでいてくれたあの時の兄が、私を「頑張れ」と励ましてくれる、そんな私だけの物語だ。部屋に戻ってスケッチブックを開くと、拙いタッチで描かれた兄が私を見て微笑んでくれる。私はその頬を指でそっとなぞって、「大丈夫」と自分の声で自分に言い聞かせた。
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