Mourn’


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 また来るよ、という言葉を置いて亮介さんは帰っていった。数分して物音がなくなったので、そろそろ彼はこの周辺からいなくなっただろうということを確信してから立ち上がる。日がくれる頃あいの時間、そろそろ広香ちゃんに頼らずに私も仕事をしなければいけない。最近はずっとここを出ずに引きこもり続けていた。そろそろやらなくちゃ。戻らなくちゃ。今更もう帰れない。私の居場所は此処にある。それを証明するために。
 ビルを出てふらふらと歩き始める。ついてきてしまった太郎を一度ビルの中に連れ戻した。仕事なんだから連れていくわけにはいかない。でも、太郎はにゃあにゃあとしつこく鳴き続ける。私を心配してくれているみたいだった。今日は仕事になるのかなと思いながら、仕方なく太郎を抱きかかえてまた歩きだす。太陽の橙色に染められた灰色の建物のが並ぶ街を、行く宛がないままふらふらと往く。
なんとなく、海に行きたいと思った。おそろしくて、大嫌いで、でも何かあれば行かないといけないと感じる場所。なぜか海は私にとって特別な場所だった。大嫌いで、でも、焦がれるほど時には愛しくなってしまう。其処に、行きたいと思えた。あの人に抱きしめられたからかもしれない。海に囲まれた街だ。まっすぐ歩いていればいずれたどり着けるだろう。そんな適当な気持ちで焦がれるままに街の端を目指す。不意に誰かが私を呼ぶ声がしたけれど無視をした。聞き覚えがある声、でも会って幻滅もされたくなかった。それに合わせる顔もなかった。それなのに声は私の意思を無視して「美沙さん!」とさらに強く私に呼びかけてくる。なんで今更。「今までどこにいたんですか!ひかりも私も心配してたのに」という声に耳をふさいだ。紫ちゃん、と小さく名前が口に出る。自分でもよく覚えているものだと感心した。もう、誰のことも忘れてしまっていると思っていたから。結局この六年間、私は何も手放せずにいたということなのだろうか。
 突然走りだしたものだから腕の中に抱えている猫が飛び上がるように跳ねた。逃げてばかり、向き合おうともしない。そんなことは私が一番よくわかっている。こんな私なんてみんな呆れて捨ててしまえばいいのに、どうしてみんな私を拾い上げようとしてくれるのだろうか。もう怖くてたまらない。どうにもできない、どうしたら、私はどうしたらいい?走って、走って、結局たどり着いた場所はいつも旦那様と逢瀬を交わすあのビルだった。今日は約束をしていない曜日。ビルの中に入り、四階まで駆け上り、いつもの部屋のドアを開ける。見慣れない部屋に不安を感じたのか猫がまた鳴き声をあげた。倒れこむように畳まれた薄い布団に靴を脱いでから沈みこむ。眠っても、眠っても、過去も記憶も私自身も消えてくれない。それでもまた眠るのだ。今度こそ、と願いながら。



 不意に気配を感じて目が覚めた。此処を知っているのは私と旦那様二人だけだ。実生活に互いが干渉することなく、なおかつほかのだれも干渉してくることのないようにと見つけたビルの一室。此処に来る人はたった一人しかいない。だから私は「旦那様?」と顔を上げる。でも視界に映ったその影は、旦那様のものではなかった。カーテンのない窓の向こうに月が見える。旦那様め、と心の中で毒づく。まさか旦那様とこの人がつながっていたとは思わなかった。

 「…ここまで見つかってしまいましたか」
 「うん、…ごめん」
 「いえ、いずれは見つかると思っていました」
 「…美沙ちゃんは本当に素直だね」
 「?…いきなりなんですか」
 「本当に嫌ならきみは今、俺に時雨さんが好きだから行けないって嘘を言えばよかったんだよ。時雨さんを利用して俺を拒めばよかった。…それをしないってことはさ、きみの願いはまだ変わらないんだよね?」

 一冊の本を手渡される。『こころ』。私の部屋の本棚に同じ装丁のものがあったはずだ。何故か渡されたそれをぱらぱらとめくると、ひらりと紙が落ちた。ひっくり返して、その字を見る。私の字。…いつ書いたものだっただろう。どうしてこんなものが残っているのだろう。まるで誰かに助けを求めるように、誰かの助けを待っているみたいに。未練がましくこの文字はずっとこの本に残っていたなんて。
 広香ちゃんめ、と今度は広香ちゃんに毒づく。どういう経緯でこの紙がこの人に渡ったのかは知らないけれど、見つけたのは間違いなく広香ちゃんだろう。はじめて出会った日に本棚を見て良いみたいなことを言った覚えがある。そのときに見付けて、それで「亮介さん」に会ったから、今日のきっと私が出て行った後にどういう経緯かは知らないけれど、帰ったと見せかけてまだビルの中にいた亮介さんに渡したのだろう。本当に面倒なことをしてくれた。

 「…旦那様を巻き込むわけにはいきません。旦那様はお客様なんですから」
 「うんそうだろうね。でも美沙ちゃん自身の感情についてはさ、いくらでも嘘をつけたでしょ?」
 「…私に何をさせたいんですか」
 「もう一度受け入れてほしい」
 「……」

 はいそうですかと受け入れられることではなかった。でもそうしてほしいのだとこの人は言う。「私はきっとあなたを殺しますよ」と脅した。何もわからないままに人を殺してしまうような人間が私なのだから。どんなに大切な人のことも私はきっと殺めてしまう。衝動的に、あいまいな気持ちのままに。すると亮介さんが首を振った。きみはそんなことはしない、と。きみは二人を殺していない、と。

 「殺したのは私ですよ」
 「でもきみは悲鳴を上げていた」
 「ナイフは私が持っていました。なのにどうしてそんなことが断言できるって言うんですか。現場を見てもいないのに」
 「見ていなくたって分る。絶対にきみじゃない。…あのときは高笑いが響いていた。君はあの高笑いの正体に濡れ衣を着せられていて、そしてそれを庇っているんだ」 
 「じゃあ誰を庇っていると思いますか?心当たりはあるんですか。その高笑いが私ではない根拠はどこにあるんですか?」

 痛い。痛い。甲高い悲鳴が身体の中で反響し続けている。どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。どうして馬鹿みたいにそう私を信じてくれるのだろう。どうしてそんなにもこの人は私に執着して、縛られ続けているのだろう。ひとめぼれ、と教えられた。そう、たかが「ひとめぼれ」からはじまった関係だ。それがどうしてここまでこじれた感情に変化してしまったのだろう。わからない。この人がここまでしがみついてくる意図が、見えない。
 解放したい。解放すべきなのだと思った。ここまで思われていて、此処まで追いかけてきてもらえたことは本当はとても嬉しくて、本当は飛びついていろいろ言いたいことを言いたかった。でも、私にはそれを言える権利なんてないし、それをしてはいけないという鎖がある。この人と生きていくことが出来ない明確な理由がある。だからこそ、私はこの人をここで突き放さなければいけなかった。

 「…亮介さんだって、本当は思っているんでしょう」

 塗り替えて。幸せだった過去も優しい記憶も、汚くて真っ黒な現在にして、そうして私を捨てていって。私は一緒には行けない。同じ思いを持って隣に立つことなんてもうできない。私は、もうあのときの無知だった私とは違うのだから。
 亮介さんの顔を見ずに「私がゆーちゃんとけんちゃんを殺したってちゃんとわかってるんでしょう」と言葉を続ける。手が勝手に自分の首筋のほうに伸びていたことに気づいて、そっと手を膝において握りしめる。いつもの作り笑いがちゃんとできているだろうか、少し不安になった。

 「私のこと、同情してくれているんですよね。亮介さんは優しいですから、見捨てていけないんですよね。でももういいです。そういうのいらないって言ってるんです。私幸せですから、これでいいんです。いろんな人に抱かれて、愛されて、もうそれでいいんです。何も心配されることなんてありません」
 「美沙ちゃん、待っ」
 「何も言わないでくれませんか。どうせ何を言われてもあなたの言葉なんて信用できないんです。そして私の言葉も信じてくれないんですね。ほら、もう破綻してるじゃないですか、私たちの関係なんて。終わったんですよ、楽しかった過去なんて全部。私はもう亮介さんが好きだった天野美沙じゃないし、そして亮介さんを好きだった天野美沙じゃないんです」

 雲が月にかかったらしく、照明のない部屋がわずかに暗くなった。亮介さんのほうをやっぱり見ることは出来なかったけれど、確かに私は口角が上に吊りあがっていた状態でいることが出来ていたことに気づけて安堵する。よかった。全然悲しくもなんともない。やっぱり私はこういう人間なんだ。平気で誰かのことを傷つけることが出来る残虐な人間。私の正体。…これでまた日常に戻れる。
 
 「…どうしたらいいんだ」

 しばらくの無言が続いた後に、ぽつりと上からそんな呟く声が聞こえたせいで思わず顔を上げてしまった。そのまま立ち上がって立ち去ってもらえると思っていた。そうでなくとも俯き続けていればいずれは愛想をつかしてどこかに行くだろうと期待していた。でも、顔を上げた先の亮介さんは、私が想像していた以上に――たぶん、もう壊れていた。
 その表情は笑顔でも泣き顔でもあきれ顔でも怒り顔でもなく、能面のような表情だった。
 


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