Mourn’


▼ *

 「苦しいなら閉じこもっちゃえばいいんだよ」

 男がポツリと呟いた。中古のノートパソコンに、何事かを打ち込み続けながら。
 俺のほうにその視線が向かうことは無い。男は、ずっと自分の箱庭の世界を見つめ続けていた。俺はいつもそれをじっと後ろで眺めている。ずっと、何か自分が手伝うようなことはせず、なんとなくただその光景を眺めているのだ。時折なんとなく野次を飛ばすように彼の手を止めさせるような言葉をかけながら。

 「ねぇ、どんな話を書いているんだい?」
 「…別に。君には関係ない」
 「ふぅん」

 彼の部屋中に散らばる紙を、勝手に取って眺めだす。一行目には『もう嫌だ、喧嘩しないで。仲良くして。私を見て』と書かれていた。
 見ていいのかは知らないけど、散らばっているんだし、別にいいだろう。何も言ってこないし。

 この男と出会ったのは高校一年の夏のことだった。
 学校がだるいだの、勉強が辛いだの、先生がうざいだの、そんなありきたりな理由も無く、ただなんとなく抜け出したとき、たまたま道端で見つけた。それだけだ。
 ぼんやりと道の端に突っ立って、空を眺めている同じ学生服を着たこの男。気がつけば俺も理由無く空を眺めていたことを覚えている。
 それ以来、なんとなくこうしてこの男と一緒にいる。この男が、学校を辞めた今現在も。

 「ねぇ、この話の女の子、どうして泣いているんだい?」
 「…どの話?」
 「えっと…この子」
 「ああ」

 紙を差し出し見せると、男は「まだ未完のアレか」と呟く。
 それから、「なんでこんなことも分からないのか」と呆れたようにため息を吐いた。

 「父親と母親が喧嘩ばかりしているからだろ」
 「へぇ、喧嘩しているから泣くのかい?」
 「それが悲しいからだろ」
 「ふーん、俺には分からないや」
 「お前は幼稚園児以下か」

 これだからお前は、と男が呟く。お前には分からないだろうね、一生。と付け足しながら。
 ああそうだろうね、俺には一生分からないだろうね。
 「死にたい」も「痛い」も、「楽しい」も「悲しい」も、全部身体の痛みに置き換えたせいで無くしてしまった俺にはもう、この世界という牢獄に降り注ぐ、槍の雨の地獄なんて分からない。

 「…人間から痛みを取ったら終わりだ、と、今ほど思ったことは無いよ。こんな人間を書きたいとは一生思えないだろうね」
 「え、何?ちょっとひどいよ。それ」
 「ああ、うん。ひどいことをいったつもりだからね」
 「傷つくよー」
 「傷ついていないくせに、よく言う」

 男が俺の頬をつねる。口角を上げていたことで張っている頬の筋肉が、ひっぱられる。
 痛いよ、と言うと、「そうだろうな」と笑われた。…ごめんね、実は何も感じないんだ。それを思いだしたらしい彼がばつが悪そうに俺から目をそらす。いつの間にか俺は彼の真横に立っていた。

 「…そういえば君、いいのか。受験生だろ。こんなところに来るほど暇じゃないだろ」
 「勉強はしてるよ」
 「や、そうだけど。僕のところに来る前に、やることあるだろ」
 「ないよ。俺はお前と話をしたいからね。お前の小説だって、理解してみたいから」
 「泣くことの意味も分からないくせによくも」

 失礼だな、と言ってから鞄からメロンパンが入った袋を取り出す。
 バイト先のパン屋の店長がいつもくれる物だ。美味しいのに売れ残るのは他のパンのほうが需要があるからなんだろうか。
 半分あげるよ、と差し出すと、男が眉間にしわを寄せながら受け取った。もそもそとひたすら、味など気にしていない、というように食べ始める。甘くて美味しいんだからもっと味わえばいいのに。

 「うーん、でもそうか」
 「何?」
 「キミは俺が『分からない』から怒っているんだ」
 「怒りまではいかないよ。ただ理解も出来ないくせに読むなって話だよ。僕はそもそも人に見せたくて小説を書いているんじゃない。全ては我欲だ。それを勝手に覗いておきながら、『分からない』と言われることは許せない。それだけだよ。…まぁ、でもそうだね。ここまで来ると意地でも君には理解させたくなるよね」
 「え?どういうこと?」

 男はパソコンの中で、新しい文章ページを作成した。
 真っ白い画面に、何かを打ち込む。其処には俺の名前が記されていた。

 「君を書いてみよう。…僕なりの復讐だ。僕の中にいる君を、理解できずに苦しめばいい」
 「いいよ。見せて、成一。キミの世界を」

 なんてメロンパン片手にお互いかっこつけてみる。
 それから空気も読まずに俺は、「どうせなら金髪のお坊ちゃまがいいな。現実ありえないし」と笑った。




 あれから私は麻矢さんに連れられて先に廃ビルに戻ることになった。水道・ガスはどうしてだかは知らないしあまり深くかかわるべき話じゃないと思うし聞かないでおいたけれど使えるらしい。汚してしまった服と一緒にシャワーを浴びる。ボイラー設備が全然知らないもので戸惑ったり、水風呂の中にアヒルが浮かんでいたりといろいろ言いたいことはたくさんあったけれどこれでさっぱりできた、と思う。
 ただやっぱり服にこびりついた血(返り血、と呼べばいいのだろうか)はこびりついたまま落ちることはなくて、酸化して茶色くなったシミがジャンパースカートに点々と残ってしまった。付いてすぐならとりやすいんだけど、しばらくたった後は取れにくいんだ、血って。…覚えてる。だって、ほら、「常習犯」だったから。
 水にぬれた左手首を指でなぞる。…ずっとひとりぼっちだった。自分の気持ちなんて素直に人に話せるような私じゃなかったから。分かってほしいとも言えなかった。そんなことを言っても、届かないと思っていたから。そんな臆病で、何もできないでいた私は自分がまるでこの世にいないような、死んでいる感覚で日々を過ごしていたから。…「それ」を知ったとき、痛みとともに私の中に綺麗なものが流れていたということを理解した時、嬉しくてたまらなかったんだ。

 ああ、私、ちゃんと生きていたんだな…って。

 無我夢中になって、傷が言えるたびにまた新しく傷をつけていた。切れる場所がなくなったら二の腕にまで場所を増やして。物足りなく感じた時は太ももに突き刺したことだってあった。他人に見えなければそれでいいと思っていた。いざという時は隠せばいいんだって。それに、私がその行為に満足していたんだもの。他人にとやかく言われる筋合いはないと思っていた。
 私は、そんな麻薬にも似た陶酔に、自慰行為に、一人で毎日溺れていた。後先自分の皮膚がどうなるかも考えたことなんてなかった。今ただ「生きている」という実感を得られるならば、かさぶたでぼこぼこになろうとみみずばれが出来ようと構わないと思っていた。

 今はもう、なかったことになった、私の話だ。

 
 きゅきゅっとシャワーのノズルを「閉める」のほうに回して水を止める。水浸しの服を絞って、風呂場を出た先にある脱衣所のハンガーに掛けておいた。クリーニングが出来るような場所がこの街にもあればいいんだけど、どうだろう。それ以前に私にはお金がなかった。やっぱり、生活にはお金が必要だ。…うん、やっぱり、このままじゃだめだね。


 貰ったタオルで身体を拭きつつ借りたスウェットに着替える。…でかい。サイズ的に多分麻矢さんのだろう。美沙さんは不在だったし、勝手に借りることもできなかったからそうなって当然だ。…案外、血の匂いとか、そういう嫌な臭いはしなかった。やわらかい子どものようなにおいがする。
 そのまま私が目を覚ましたあの部屋に戻ると美沙さんがカーテンを開けたまま布団の上に座っていた。空を見上げていたらしい、くるりと振り返って「おかえり〜」と笑う。まさか美沙さんが先に此処にいると思っていなかったので、私は少し驚いた。

 「びっくりした?麻矢さんに呼び出されてね、帰ってきちゃった。嫌な思いしたんだってねぇ、怖かったね。こっちおいで」
 「…はい」
 
 おずおずと美沙さんの隣に座ると、彼女は私の頭をよしよし、と撫でてそのまま自分の肩のほうへ引き寄せた。美沙さんに寄りかかる体勢になってしまった勢いで、そのまま倒れ込みそうになったところを力を込めて踏ん張る。と、美沙さんに「受け止めるから大丈夫だよ」とささやかれた。…あまりにも優しかったその声に、力が緩む。気が付けば私は彼女に抱きしめられていた。
 優しい、手。人のぬくもり。いつだってそれを与えてくれていたのはひろくんのはずだった。だけど、今は違う人に私はそれを与えられている。でも、嫌悪感はなかった。美沙さんが性的なものを感じさせない同性という存在だからかもしれない。だけど、私は確かに少し満たされたような感情になってしまっていて。
 ――寂しいのなら、他で孔を…。
 そんな麻矢さんのさっきの言葉が浮かんで、振り払わなければ、とも思った。だけど力が出ない。美沙さんが、欲しかった言葉をくれた、から。

 「…嫌だよね、見たくなかったよね。汚いものなんて、触りたくないよね。綺麗なままでいたいのは当然だよ。私もずっとそうだった。こんなふうに自分がなるなんて想像したこともなかったし、したくもなかった」
 「…なのに、美沙さんはどうしてこんなことをしようって、思っちゃったんですか?」

 さっき麻矢さんに何となくの概要は聞いていたけれど、やっぱり美沙さんの口から理由を聞きたいと思った。本当に「壊れる」ことを望んだのか、それとも根底に違うものがあったからなのか、いろいろと、気になることがたくさんあったから。 そうだねぇと美沙さんが少し間を置いて考える。それから、「うん」と一人納得したようにうなずいて、またぼんやりと窓の外を眺める。斜め下から見る外の世界。月の無い空が見えた。

 「…まだ本当に深い話は出来ないんだけど、しちゃったらきっと広香ちゃんは私のことを怖がると思うからね。うん、だから簡単に話すけど、私ね、自分で大事にしたいと思っていたものを守ることが出来なかったんだ。むしろ捨ててしまってて……怖くなったんだ。このままあの場にいたら私、もっとひどいことをしちゃうんじゃないかって。ちょうどそのとき私も因果応報だったのかな、家族に、おかあさんに裏切られて、死にたくなかったから家を出た」
 「……」
 「本当はね、死にたいはずだったんだ。もう誰のことも傷つけたくなかったし、私も傷つきたくなかったから。だけど逃げ出して、自分でそのまま死ぬこともできなくて気づいた。ああ、死ねないんだって。死にたくないんだって。生きたくないけど、死ぬこともできないんだって。結局私は自分で自分のことを殺す勇気なんてなかった。でも、麻矢さんが私を拾ってくれて、新しい家族だって言ってくれて、生まれ変われた気持ちになれたんだ。ここを本当の帰る場所にしたかった。だから、私はこの場所で生きていくために必要なことをした。…流されただけなんだと思うけど、ね。そうすることで昔の自分は壊せる。もう苦しむことなんてないって。……実際ね、もう本当に苦しくないんだ。ある意味で私は幸せなんだよ。失ったものは多いけれど、手にした場所がここにはあるから」

 …それは、本当に彼女の本音なのだろうか。
 空を眺める美沙さんの瞳は、あの濁ったような焦点の合っていないようなものではなかった。ただ悲しげに笑みながら、空を、何かを探していた。私にはまるで、誰かを待っているように見えてならなくて…そう、だって私は、見てしまったから。…本に挟まれていた、彼女の悲痛な心の声を。

 「…ねえ広香ちゃん。私は広香ちゃんの姉になりたい。広香ちゃんと家族でいたい。この家の中で、しばらく、広香ちゃんがこの街にいなければいけない時間が終わるまで。だから、私は可哀想だし酷なことだと思うけれど、やっぱりこれがうちの家のルールだから、みんなで幸せに暮らしていくために広香ちゃんには愛を売ってほしいって思う」
 「…はい」
 「ごめんね?でも怖がらないで。大丈夫、広香ちゃんは私の顔を見て怯えていたよね。私みたいになりたくないんだよね。麻矢さんみたいに、他人への関心を失うようなこともしたくないんだよね。でも本当に大丈夫、広香ちゃんは絶対、そんな風にはならないはずだから」
 「…それは、どうしてですか」

 美沙さんが私を見てにこりと笑う。私を見る。美沙さんは、逸らすことなく私の肩を抱きながら微笑んでいた。どこか泣きそうな表情だったとも思う。大丈夫、本当だよ、と笑いながら彼女は言うのだ。

 「きみが、きみを信じて待っている人がいるということを忘れない限り、きみは絶対に壊れないよ」

 大丈夫、泣かないでとささやく彼女のぬくもりに癒されながら、私はあの本棚を見ていた。
 “――助けて、亮介さん。”
 そんな特定の人物への救いを求める震えた文字で書かれた小さな手紙。彼女は私に本棚を好きに見ていいとあの時勧めた。彼女は、手紙も、その人のことも、忘れてしまったのだろうか。

 私は、壊れたくない。
 そしてきっと彼のことも忘れることはないのだと思う。
 それまでは私を拾ってくれたこの人のことを見守りたいとも思うし、この家の人たちともかかわっていきたいと思う。流れのままに行くならば、きっとそれが正解だと思うから。
 小さく、頷く。大丈夫、と呟く。そうしたら本当に、私なら大丈夫のような気がして、ここでも生きていけるんじゃないかって自信が持てる程度に、少し、身体が軽くなった気がした。



 前々から風邪を引いてはいたけどついに俺の身体もがたというものが来てしまっていたらしい。気づけば見慣れない部屋の簡易ベッドに寝かされていた。おぼろげな意識の中、顔見知りだった関所の門番をしている男がどういう会話の流れだったのかまではわからないけれど確かに「美沙」と呟いた。

 美沙。美沙。美沙。

 それはずっと俺が探している少女の名前だ。あの日、雨の中愛の言葉を残して俺の前から消えていった人。生きていればもう十八になるのだろう。あの日から六年、探し求め続けてきた彼女への糸口を、やっとつかめたような気がした。

 やっと、会えるかもしれない。
 
 そう思うと急に力が湧いてきて、俺はその男の方につかみかかる。知っているのならば教えてほしい。どうか、また会わせてほしい。会いたい。きっと今度こそきみを救ってみせるから。

 「彼女は、どこだ」



 To Be Continued.

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