Novels/Crescent Winter
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 別に何が何でも生きたいわけじゃない
 別に何が何でも死にたいわけじゃない
 そう思うことすらもダメなことなの?

 長い講演会が終わって、気だるく蒸した体育館から、ぞろぞろと列を作って教室に戻る。
 今日、公演した人は、若者の自殺防止のどうのこうのっていう団体の偉い人だったらしい。だったらしい、というのも、公演の間、ほとんど寝ていたから碌に話なんて聞いていなかったのだ。
 本日の気温は三十一度、そんな中、扉を開けただけのクーラーも扇風機もない状態で、約千人の学生と教職員が大集合した。当然、蒸す。しかも、昼のあと。午前の授業で疲れた頭と体は休眠を欲し、食後で血液は胃に集合中。通気性の悪い制服で体温は絶賛上昇中。寝るなという方がおかしい。
 アナウンスが入って、寝起きの貧血気味で立ち上がる。ちらほら聞こえる話では、大体の人が途中、途中で寝ていたみたいだ。よし、私だけじゃない。
 寝ていたといっても、全部寝ていたわけじゃない。途中で多少、目覚めることもあった。ほんの少し、数十秒ではあったものの、話を聞いていた部分はあった。
『皆さんは、皆さんが思っている以上に様々な人々にお世話になって生きています、誰かのお陰で生きている、そうであるならば、自分の為だけでなく、誰かの為に生きることも必要なのです、ですから、皆さんは……』
 教室に戻る廊下で、ほんの少しは聞いていたであろう内容を思い出そうとする。大事な部分を聞き落としているような気がする。これは、まずいことになりそうだ。
 階段が思いのほか混んだらしく、体育館を出てから教室に戻るまでにかかった時間は十五分程、待っている間、眠気の余りに立ったまま寝そうになったけど、寝そうになる度、友達に起こされるを繰り返した。
 どかっと椅子に座り、そのまま机に突っ伏して、深いため息を一つ。これから来るであろう強敵をどう対処するか、悩ましい。
 窓際の席の子が、窓を全開にしてくれて、教室内に風が入ってきた。それだけで大分涼しく感じる。
 担任が戻ってきていないことを良いことに団扇や扇子を使っている子や制汗剤を大量に使い始める子、強敵が来ないように祈っている子がいる。
 友達と話しながらダラダラとしていると、担任が紙を抱えて戻ってきた。先頭の席の子が受け取って、後ろに回す。教室のあちらこちらで絶望の呻き声が上がった。例えるなら、これで倒したと思ったラスボスが、実はもう一形態あったような感じ。
「お前ら、そんなに嫌そうな声を出すんじゃない。今回はありがたいことに資料も貰えたぞ。どうせ半分以上寝てたんだから、資料見ながら頑張んなさい」
 ナイスだ、先生。資料があれば何とかなる。前から次々と配られてくる資料を見ていると、先生が、言い忘れてたと前置きをした。
「今回の感想文な、A4一枚、罫線全部埋めないと再提出になるからな。感想文全部先方に送るらしいから、下手なこと書くなよ」
 教室中にどよめきを巻き起こしてから、それぞれが資料を確認する。
 資料を確認していると、なんだか、何とも言えないけど不愉快になってくる、イライラするというか、言葉にできない不快感。
 資料の中身の大半が、自殺の事例を挙げて、どうしたら自殺の原因を解決できたかといったものだ。全ては結果論、全ては可能性の話。最後は、追い込まれている生徒・学生を救うために日々活動しています、といったものだ。そこに、命は自分だけのものじゃないとか、産まれたことに感謝しなさいとかの話が入ってくる。
 どうしよう、と目の前の白紙を見つめる。耳障りの良い言葉を並べて、相手の話は素晴らしいと称える文章を書けばいい。いつもはそれで乗り切ってきた。それなのに、今回は否定的な言葉しか出てこない。
 他の時は、めんどくささはあるものの多少は共感できる部分があるから書けた。一部でも共感できれば、そこを強調して書ける。だけど、今回は、全然共感できない。モヤモヤが、ずっと残っている。
 一文字も書けないまま、資料を読み続ける。どこか共感できる部分はないか、どこか書き易そうな部分はないか、必死に探す。
 そこに、無情にもタイムアウトの鐘の音。先生の回収するぞ、という言葉で、後ろから前へ流されてくる紙の束。どうしようもなく、紙の束に自分の感想は入れずに、そのまま前へ送る。
 椅子にひっくり返って、手元の白紙を見つめても、いい言葉なんて出てこない。不愉快さがつのっていく。
 ホームルームが終わり、掃除当番以外は部活や玄関に移動し始めた。重たい腰を上げて、先生を呼び止める。
「先生、すいません。今回の感想文なんですけど、明日提出でも良いですか? ちょっと今は書けそうにないんで家でゆっくり書きたいんですよね」
「珍しいな、遠藤。お前結構早く書くイメージだったけどな。まぁ、先方もすぐ送れなんて言ってないから、一日、二日大丈夫だろ。提出忘れないようにしろよ」
 どこか間延びした声で明日提出する許可を貰ったので、足早に教室を後にする。部活は体育系ばっかりでやっていけそうになかったし、委員会は去年散々やって、今はやってない。塾には行っているけど、今日は休み。家に帰って特別何かあるわけじゃないけど、学校に居続けるよりは、この感想文をどうにかできるような気がし始めていた。

 車が結構なスピードを出して隣を通り過ぎてく。ここ、制限速度六十キロのはずなんだけど、明らかに六十以上のスピードが出ている車が多い。
狭い道にも関わらず、無理やり近道をしようとするトラックや兎に角スピードを出したいのだろう普通車などなど。車にぶつけられた、引かれかけたといった事故はこの近辺ではありふれた不幸でしかない。一日に少ない時で二回、多い時で五、六回のサイレンの音を聞いてればもはや慣れてしまった。
そんな道を歩道があるだけましな道を足早に歩いていると、甲高いクラクションの音が後ろから聞こえた。


 寝ていたのか、体が振れているのを感じている。ふらりふらりとしているけれどまだまだ眠くて、瞼が重い。ぼんやりと寝たり起きたりを繰り返していると、上半身が大きく揺れて目が醒めた。慌てて上半身を起こして、あまりの眠気に目をこする。大きめのあくびを一つしてまだ覚醒していない頭で辺りを見渡した。
 見たこともない部屋に一瞬、理解が止まってからゆっくりと部屋の中を見渡した。壁には隙間なく本棚が並べられて、その中には無数の本が並べられている。分厚く装丁が綺麗なものから、敗れかけた文庫本、巻物と思しきものまで。床には、本棚に入りきらかったのだろう本が大量に積み置かれ、その山すらも崩れて、本が散乱していて足の踏み場もない。
 本が散乱している惨状を見ていると、この部屋を綺麗にしなければ、という謎の義務感に襲われ始めた。基本的に部屋の中は綺麗にしているため、本が床に散乱しているという状態をどうにか綺麗にしたくなる。
 椅子から立ち上がって、足元の本を一冊手に取り、作品名と著者名を確認する。近くの本をさらに確認。五十音順になるよう本を重ねて、十冊位になった。足元は少し片付いたけど、部屋全体を綺麗にするのはまだまだかかりそうだった。
 気合を入れ直して、次の本を拾ったとき、後ろから扉を開ける音がした。驚いて振り返ると、白とも銀ともいえる髪をした男の人が、少し驚いたような顔をしていた。
「あれ、もう起きたのかい? もう少し寝ているのかなと思ったけど。でも丁度いい、ついさっきお茶が入ったところだからね」
 そういって、ガラスのティーポットとティーカップを二つ乗せたお盆を持って部屋に入った。
 男の人は器用に本を避けながら、私が座っていた椅子の後ろにあった机にティーポットを置くと、安楽椅子にゆっくりと座る。
 椅子を持ってこっちにおいで、と言われたので本を踏まないように気を付けながら移動する。本来ならば、怪しいとか危ないとか思うべきところなんだろうけど、起きたら本が散乱する見たこともない部屋だったからか、怪しいとか、危ないとか思う前に自分以外の人がいたことに驚いていた。
 入ってきた男の人と机を挟んで反対側に椅子を置いて、座る。男の人は懐中時計の蓋をパチリと閉じるとそっと茶葉を引き上げる。ティーポットの下に沈んでいた黄色がふわりと広がり、お湯全体を染めていく。
「綺麗だろう、お茶を入れた時は、この瞬間が一番美しいと思うよ。もちろん、味も香りもね」
 どうぞ、と言って差し出されたティーカップを持ち上げる。ふわりと嗅いだことのある香りがする。
「カモミール?」
「正解、ハーブには詳しい方? 好きなのあったら言ってね、大体のハーブならあるから」
 カップから伝わる暖かさと優しい香りに気持ちが落ち着いてくる。気付いてなかっただけで、随分と緊張していたみたい。当然と言えば、当然だけど。
 一息ついた位の時に、男の人が急に、ああっ、と驚いたような声を出した。
「そうだ、自己紹介をしていなかったね。エウブレスだ。大体エウを呼ばれているよ。短い間かもしれないが、どうぞよろしく」
「遠藤満希です。えっと、どうしてここにいるのか分からないんですけど、起きたらここにいて、と言うか、ここどこですか?」
「ミツキ、大丈夫。安心はできないだろうけど、時間が解決する部分だよ。ミツキは早くここから出たいと思うだろうけど、その点は僕にもどうにもできない。分かってくれるね?」
 答えになってるようで、答えになっていない。最後に念を押されたのは、確認ではなくて、この話を終わらせたかったんだろうな。
 カチコチと時計の音が響く程の静けさで、落ち着くような、居づらいような不思議な感じ。オレンジ色の明かりの元で、お茶が渦を巻く。不思議だと思ったとき、体の右側全体にズキリとした痛みが走った。
 突然の事で、ティーカップを落としそうになったのとエウブレスさんが押さえてくれる。
「大丈夫だ」
 その一言で、痛みがスッと引いていく。もう一度、大丈夫だと繰り返されて、体の強張りが抜けていく。
「今の、何ですか? なんなんですか、ここ。おかしいじゃないですか、気付いたら椅子に座って寝てたって。どうゆうことですか?」
 驚きのあと、強張りが抜けて、今まで感じていなかった恐怖感が押し寄せてくる。だって、おかしい。最初から、こんな場所にいること自体がおかしいんだ。
 徐々にパニックになってきて、それすらも客観視している自分もいてわけが分からない。
「大丈夫だから、落ち着いて。あまり大きな声を出さないで」
 パニックになって大きな声を出してしまった私をなだめようとエウブレスさんが声を掛けてくれた。
その時――。
 部屋の奥から、何かが崩れる音と犬の警戒しているときのような唸り声が聞こえてきた。
「ああ、起きてしまった。大丈夫だよ、ちょっと大きめの犬だと思ってくれたら」
 唸り声がもう一度聞こえて、怖くて膝が震える。
 部屋の奥から、のそりのそりを動く大きな影。黒い毛をした、犬のような生き物がこちらに向かってきて、私たちの前でお座りをした。
「……サイズ感、おかしくないですか?」
 つい、言葉にしてしまったのは悪くないと思う。確かにフォルムは犬っぽい。けど、なんでお座りしているのに、私よりも背が高いエウブレスさんの身長を超えているの?「ちょっと」ってなんだっけ?
「君は驚いたり、怖がったり忙しい子だね。この子は僕のペットだよ。ちょっと大きめかもしれないけど、躾はしっかりしてあるから噛まれることは無いと思うよ」
 あはは、と笑ってお座りしている犬を撫でている。犬は満足したのかその場で丸くなって寝始めた。
 その様子を見届けて、エウブレスさんは部屋を見渡して、これはこれは、と小さく漏らした。同じように部屋の中を見渡すと『惨状』という言葉がこれ以上ない程に似合う。
 積み上げられていた本の山のほとんどが崩れて、元々足の踏み場もなかったのに、さらに酷い。
「だから、大きい声出さないでって言ったんだよ」
「すいません、知らなかったとは言え、こうなるとは思いもしませんでした。片付けます」
「いや、言わなかった僕にも責任あるしね、今日は片付けの途中で、部屋の奥に居てもらっていたんだよ」
 深々とため息をつく。
「どうせだから、本棚に戻す作業手伝ってもらっていいかい? 本に番号が振ってあるから、その番号の本棚に戻して欲しいんだ」
 そういって、ちょっと待っててね、と言って部屋を出ていく。誰かと話しているような声が聞こえてから、紙を手に持ったエウブレスさんが綺麗な女の人を連れて戻ってきた。
「はい、これが本棚の地図。結構あるから、何冊も持とうとしないで、二、三冊ずつ運ぶようにしてね、それと、こちらが僕の奥さん。一緒に手伝ってくれます」
 女の人に挨拶をすると、とても綺麗で優しい声で、よろしくね、と答えた。
 それから、今いる場所の確認と本棚の位置の確認をして、手近にある本を二、三冊拾って番号を確認する。
「疲れたら、ここに戻ってきてね。お茶とお菓子用意しておくわ。貴方もね、この前、腰痛めたばっかりなんだから、気を付けてね」
「わかったよ、コレー。ありがとう。それじゃあ、始めようか」


 足元にある本を二、三冊持って本棚を巡り、行った先の本棚の足元にある本を拾って戻しに行く。たまにあるぶ厚い本や表層が豪華すぎて重ねて運べない本は一冊だけ持って運ぶ。
 ずっと動き回っているわけで、走ったわけでもないのに息が切れてくる。体育が嫌いで、普段ろくに運動しなかったせいか、心なしか呼吸も苦しくなってきた。
 本を本棚に戻して、背伸びをする。バキバキを音を立てる腰を軽く叩いていると、少し離れた場所から、エウブレスさんが痛みを訴える叫び声が聞こえる。
 こんな作業を続けていたら腰を痛めるもの当然だなと思いつつ、次の本を拾う。
 その本は真っ黒な表紙に、白のタイトル、今まで運んだ本と比べて少し薄いように感じた。
 ここにある本の表紙はカラフルで、白だけや黒だけといったものはまずなかった。ページによって色が変わっていた本もあった。それなのに、黒だけなのは少し気になった。
手近にある本を持ち上げると、次は真っ白な表紙。真黒な表紙があるなら、真っ白な表紙もあるんだなと思いながら、番号とタイトルを確認使用するが、番号も、タイトルもない。ひっくり返しても、背表紙を確認しても、タイトルが見つからない。
 エウブレスさんに訊こうと本を持って、最初の机に向かう。先程、叫び声と奥さんに休むよう言われていたから、きっと机の所で休んでいるんだろう。
 本を抱えて振り返った時、心臓が締め付けられるような痛みが広がった。思わず、本を落とし、うずくまる。
 荒い呼吸を繰り返すこと、数分、どうにか落ち着いてきたので、上半身を起こして、呼吸を整える。今までかいたことがないくらいに汗が吹き出し、ダラダラと顔を流れる。心臓辺りの服を握り締めていた、手は血の気が引いて普段よりも白くなっている。
 呼吸がある程度、落ち着いてからも立ち上がる気になれず、座り込む。戯れに黒い表紙の本を開いてみた。ここにある本は運びはしても、全く読んでいないから、どんな内容なのか気になって仕方がない。
 黒い本をのページを開いて、読み始める。

本の内容は、とある女の子の話。人と話すのが苦手で、外で遊ぶよりは家の中で遊んでいることの方が好きな子。両親は不仲で、毎晩、毎晩、怒鳴り合うような喧嘩ばかり。少女は安心できる場所もなく疲れていきました。
学校では、いつの間にか、からかいの対象になり、筆箱を隠されたり、教科書を隠されたりしました。少女は先生にそのことを何度も告げましたが、先生は内気な彼女が悪いと話に取り合わず、他の子たちはからかいの延長のような感覚で行動をエスカレートさせていきました。
ある日、朝から両親が怒鳴り合いを目の前ではじめました。鬱々とした気持ちのまま学校に行くと、上靴がありません。近くにいた先生に事情を話してスリッパを借りて教室に行くとゴミ箱のなかに少女の靴がありました。クラスの子は少女がどのような反応をするのか、面白そうに待っているのを肌で感じました。少女はそのまま教室を去り、スリッパのまま学校を出ました。ぼんやりとした頭のままに、近くの川に飛び込みました。彼女は、もちろん辛かったでしょうし、理不尽さを感じたことでしょう。しかし、彼女は現実を悲観したわけでも、死にたくて死んだわけでもないのです。彼女はただ生きたくなくて死んだのです。

 細かい内容は別にして、話をまとめるとこんな感じだろうか。きっとこの子は、生きたくないだけで死にたいわけじゃなかったんだろうな。イジメとか、両親の不仲とか、そういう面倒なものから離れたかっただけ。その方法が死ぬことであっただけ。とても単純で、とても分かりやすい。
『自分の為だけでなく、誰かの為に生きることも必要なのです』
 壇上で講演していた団体の話を思い出す。これを聞いた時、資料を見た時のモヤモヤした感じを思い出した。
 自分のために生きて、死んで何が悪いの?
 端的に言えば、こんな感じ。生きることが正しくて、死ぬことが間違っているとでも言いたげな話にイライラしていたんだと思う。
 この本の少女の行動はきっと理解できない人には一切理解できない。でも私みたいに共感できる人はとてもとても良く分かる。
 黒い本の番号は今いる場所から近いところだった。タイトルも番号も見当たらない白い本を三、四冊持って、先に黒い本を戻す。いつの間にか、心臓の痛みも息苦しさも嘘のように消えていた。


 黒い本を戻して、最初の机へ戻ると丁度エウブレスさんも休憩を始めたところだったみたいだ。足元には犬が丸くなって寝息を立てている。
「お疲れ様です。休憩しに来ました」
「お疲れ様、疲れたでしょ。クッキー沢山あるから食べてよ。コレーが焼いてくれたんだけど、私たちだけでは食べきれないから。あっ、大丈夫、変なものは入ってないよ。コレーが作ってくれたものはとても美味しいよ」
 エウブレスさんが慌てたように言葉を継げ足したのに苦笑いしながら、椅子に座ってクッキーを食べる。しっとりとした食感で、口の中でバターの味が広がっていく。昔、お母さんが何かの時に、デパートのクッキー貰ったと言ってて一緒に食べた奴に似ている。
 美味しさに無心で食べ続けていると、小さく笑い声が聞こえる。顔を上げるとエウブレスさんが口元に指をあてて、クスリと笑った。
「ああ、ごめんね。とても美味しそうに食べるものだから。なんだか、こちらまで気持ちよくなってしまってね」
「すいません、無心で食べてました。でも、すごく美味しいですね」
 少し、クッキーの話と奥さんの自慢話を聞く。随分と仲が良いんだなぁと思ってしまう。
「それで、訊きたいことがあるんだろう?」
 一通り奥さんについて話終えた位の時に、そう切り出された。かなりリラックスしていたから、真面目な話をしようと居ずまいを正して、机の端の方に置いていて本を見せる。
「この本なんですけど、タイトルも番号も見つけられなくて、どこの本棚に持っていけば良いですか? 他にもこんな感じの白い本が結構あったので、どうしようかなと思いまして……」
 見せていた本を受け取って、パラパラとページをめくると、首をかしげる、そして何か合点がいったのか、小さく声を出すと、本を返される。
「説明忘れてたよ。それはね、まだ未刊行の本なんだ。ページをめくってごらん。まだ完結していないだろう」
 受け取った本のページをめくると、中途半端なところで終わっている。一緒に持ってきた白い本を確認しても同じだった。
「それらは、完結した後に表紙やタイトルが決まるから、未刊行のものは白紙になっちゃうんだよね。稀に、途中でページの色が分かったりする珍しいものもあるけど、基本的には白。しかも完成してからじゃないと分類分けもできないから番号を振っていないんだ。未刊行専用の本棚群があるから案内しよう。ついて来て」
 ぐるぐると分かるように移動する。本棚が一定間隔で並んでいること以外は先程とか違うことはないけど、入っている本や足元に散らばっている本のタイトルはなく、表紙は真っ白、そんな本が数えられないくらい沢山。
「いくつか取り出して、読んでご覧、ゆっくり読んでいていいよ。その間、僕はここの整理を始めるから」
 そういって、手近の本を取って渡す。ページをめくると、先程も見たように、中途半端でまだまだ続きがありそうな感じ。
 生まれた時から、何ができるようになった日、旅行に行ったこと、見た風景、家庭環境、その時思ったことなどなど、とても細かく、丁寧に書かれている。まるで毎日の様子を描写するように。
 他の本も同じ感じだった。毎日毎日のことが書いてある。友達と喧嘩して泣いたこと、苦手なものが食べられるようになったこと。ああ、そうか、これは……
「何か気付いたことがあったかい?」
 納得した瞬間に、心臓の痛みがぶり返してきた。ズキズキと傷んで、呼吸が乱れてくる。
「これは、人が生まれてから、死ぬまでの物語ですよね。でも、作られた物語じゃなくて、今生きている人の毎日、本人すらも忘れてしまったようなことも含めた記憶をまとめたもの、ここは人生という記憶の保管庫ですね?」
 心臓が痛い、足も腕も、痛みはどんどん強く、鋭くなっていく。
「正解、よくわかったね。ここに来た人間で、正解を出せた人は久しぶりだよ」
 穏やかに微笑む顔を見た時、激しい痛みが全身を覆った。呼吸が苦しくなって立っていられなくなる。そっと私の体を支えながら、背中を叩いてくれる。ゆっくりゆっくり、呼吸を整える。
 ゼイゼイと喉の中で空気が音を立てる。
「私は、死んだの?」
「まだ、死んではいないね。呼吸はできている状況だよ。ただ、いつ死んでもおかしくない、同じようにいつ意識を取り戻してもおかしくない」
 静かに告げる声は、どこまでも穏やか。
「さぁ、君はどうする? 別に何が何でも生きたいわけじゃなくて、別に何が何でも死にたいわけじゃない君は、今この時に、どちらを選ぶ? どちらだって良いよ。もう一度やり直して再スタートか、今のままをどうにか生きるか、どちらもリスクはトントンだろうね、さぁ、残り時間は少ないよ。どちらにする?」
 私は何が何でも生きたいわけじゃない、何が何でも死にたいわけじゃない。誰かの為に生きるのも、死ぬのも嫌だ。生きることにも。死ぬことにも消極的で、時間をただただ浪費する人生しか送れないかもしれない。
 この本を見て何かを思ったわけでも、少女の話を見てなにか感じたわけでもない。それでも私の中で、私の本を書き上げたいんだ。下手くそでも、上手くいかなくても、でも、それでも、私は、
「生きたい」
「そう、じゃあ、帰ろうか。タナトス!」
 エウブレスさんが大きな声で何かを呼ぶと、寝ていたはずの大きな犬がやってきて、空を仰いだ。そして、どこまでも響き渡るような、号哭というにふさわしい遠吠えが最後まで聞こえた。


 重たい瞼を開けると、黄ばんだ白い天井、規則的な電子音、腕から延びるチューブに、少し汚れた窓ガラス。

 泣くような、鳴き声は未だ聞こえている。
- ナノ -