仁王くんは合理的少女に惹かれてる


 高2に上がって初の席替え。仁王は1番後ろの席になった。廊下側から2番目の列で、休み時間にすぐ外に出れる当たりの席だ。
 前の席は柔道部のガタイのいい男子で少し黒板は見づらいが、居眠りしても教師に見咎められることはなさそうだ。

 椅子にだらりと深く掛け、仁王はくじを引くひとりの女生徒を眺めた。腰上まで伸びた髪が綺麗な彼女──白凪刹那は、これまた繊細な仕草でゆっくりと紙を開き、荷物を移動し始める。
 彼女は窓際のそばの後ろから3番目の席に座った。
 仁王とは随分離れた席。だが、仁王の席から彼女の横顔がよく見える。
 彼女は引き出しに教科書をしまい、白い指で耳に髪を掛けた。
 ひとつひとつの仕草が妙に静かで、騒がしい教室の中でふっと浮いているように見える。悪い意味ではなく……切り取られた絵画のような。そう、幸村精市や柳蓮二の持つ雰囲気に、少し似ている。

 そんな風に眺めていると、突然彼女が振り返った。
 パチッと視線が交わり仁王は思わず目を丸くした。すぐにゆっくりまばたきして一瞬の動揺を霧散させる。白凪は目が合ったことに驚いたようだが、スッと流れるように視線を外し、仁王の隣をちらりと見てからまた目を合わせ、ニコッと自然に微笑んで前を向く。
 一連の流れに仁王は薄く息を吐いた。
 目が合うとは思わなかったし、目が合うのもこれが初めてだった。
 右隣の席を見ると、背の高いキリッとした雰囲気の女子生徒が退屈そうに携帯をいじっている。かなり短いツーブロマッシュのような髪型で、俯いた横顔がクールな彼女は白凪の親友の春原(すのはら)だ。
 なるほど、彼女を見たのか。
 合点が行くと同時に、思わぬ邂逅に少し早くなった鼓動が鎮まっていく。
 少し残念に思うが、同時にチャンスだと思った。去年から白凪が気になってはいたが、クラスも部活も委員会も違い、接点がなかったから話したこともなかった。初めて同じクラスになった今年も、まだ関わる機会は訪れていない。だが、親友の隣の席となれば接点を作る絶好のチャンスだろう。

「……春原じゃったっけ。よろしくな」
 声を掛けると彼女は顔を上げ、何度かまばたきして「ああ、うん」と低い声でうなずいた。
「よろしく」
「おう」
 そこで会話が終了する。
 話を振ることも広げることもなく、端的なやり取りでまた手元に目を落とした春原に、普段は有難いと思う仁王も、今ばかりはため息をつきたくなった。
 きゃあきゃあ嬉しそうに話しかけられるより、自分に興味のない対応をされる方が楽ではあるのだが……。
 白凪も春原も、普段あまり誰かと親しく盛り上がっているのを見たことがない。特に春原は一匹狼というのが似合う孤高な雰囲気を纏う奴で取り付く島もない。話しかければ返してくるだろうが、まぁそう急がなくてもいいかと、仁王はまたチラリと白凪を見遣り、前を向いた。

 昼休みを告げるチャイムが鳴る。
 挨拶もそこそこにバスケ部の奴がダッと廊下に駆け出して行った。喧騒を背後に仁王は机に突っ伏し、だるそうに胸元を上下させる。
 さっきまで寝ていたから起き上がるのが面倒くさい。
 去年は柳生と同じクラスだったので、気が乗る日は一緒に教室でメシを食ったりしたが、今年同クラになったのは柳蓮二。マァマァ親しい方だがお互いつるむようなタチではない。
 天気もいいし屋上でも行くかと考えていたところで、鈴のような声が上から降ってくる。肩が揺れそうになるのを抑え、咄嗟に仁王は寝たふりをした。

「彩芽(あやめ)ごはん食べよ〜。今日ね、新作のスイーツ見つけてね、ラス1買えたの!朝の時点でラス1だよ。すごくない?」
「待って今ちょ忙しい」
「はい。すみません」

 機嫌良さそうな白凪も一刀両断する春原。だが白凪はくすくす上品に笑いを零し、気にした様子もなく春原の前の席に座った。椅子を動かす音が聞こえる。
 彼女の笑い声は小川のせせらぎのように、軽くてサラサラして、清涼だった。耳に心地がいい。目を閉じたまま彼女の音を聞く。
 こんなに近くに彼女がいるのは初めてだ。
 去年声を聞いた時、彼女は淡々としていて、気だるげで、苛立っていた。その時の様子とはずいぶん違うふわふわとした雰囲気。他の人と話している時は愛想が良いのにどこか凛としていて、だが春原に話しかける時はあどけなくなるらしい。
 今日知った白凪の情報に、またひとつ興味が惹かれる。

「わたしもやろ〜」
 AirPodsを片耳つけて白凪も携帯を横にする。机の上に置かれたらしいもう片割れから小さく音漏れしている。
 しばらく無言で、音楽だけが流れた。
 スマホゲームか何かだろうか。
 仁王はあまりゲームはしないので少し気になる。

 終わったらしく、「食べよ〜」と朗らかな声が上がった。
「や今回の夏目良すぎだろ……刹那は走んない?」
「衣装いいから宙くんだけ取ろうかな〜って」
「あー宙くん好きそう。ショタコンだもんね」
「うん」

 ショタコンなんか……。
 引きはしなかったが、仁王は「おお…」という気分になった。ふたりはよく分からない、多分アプリだろう話で盛り上がっている。
 白凪も春原も砕けた口調で高いトーンだった。

 盗み聞きはどうかと思うが、今まででは考えられない情報の渦に起きるタイミングを失した仁王が、どうしようかと考えていると急に自分の名前が聞こえた。

「てか、仁王くんずっと寝てるねぇ」
「ん?だね」
「テニス部でしょ?お昼食べなくていいのかな」
「さぁ」
 春原は見事なまでの無関心などうでも良さげな声だが、白凪は「うーん」と小さく唸った。
「柳くんが前なんかぼやいてたのよね、仁王くんは全然ご飯食べないからすぐ痩せちゃう〜みたいな」
「ほせーもんね」
「いいなー」

 ジッと視線を感じ、身動ぎしそうになるが仁王は動かないよう自分を律した。寝たフリだなんてバレたら気持ち悪がられる可能性がある。
 コツコツ、と顔の前で音が鳴った。爪で机を優しく叩き、「仁王くーん」と優しげな声がかかる。
 耳の後ろで自分の心音が聞こえる気がした。

 ピク、と身動ぎする。
 もう一度白凪が言う。
「仁王くーん、お昼過ぎちゃうよ〜」

 そこでようやく起きたように、仁王は自然は演技で呻いて、身体を起こした。半目で顔を上げると白凪が「あ」とニッコリ笑った。
「起きた。ごめんね、起こして。でもご飯食べなくていいのかなーって思って」
「ああ…かまんぜよ。助かった」
 自分がきちんと、だるそうな、平坦な声音を維持できているか無性に気になった。
「なら良かった」
 白凪は綺麗な、非の打ち所のない優しげな愛想笑いを浮かべ、春原との会話に戻っていった。そっと息を吐く。話しかけられるとは思わなかった。

 コンビニで買ってきたパンを取り出し、どうするか考えて、結局その場で袋を開けると、ふたりからチラッと視線を投げかけられたがもう話しかけられることはなかった。
 会話も、アプリゲーム?の話ではなく、ふつうの仁王にも理解できるような流行りの曲がどうだとか、午後の体育がだるいだとか、そういうものばかりだった。
 なるほど、聞かれたくないんだろうかと考えながら、そういえば白凪と柳が話しているところはよく見かける気がするなと思った。2人とも本を読んでいるところをよく見る。
 話しかけるきっかけになるだろうか。

*

 白凪は大人しい。
 クラスでもどこか浮いているように見える。
 白い肌やパッチリした目元、いつも緩く微笑んでいる口元。その可憐で清楚な容姿のせいもあるが、なんというか、纏う雰囲気がどこか大人びて近寄り難さがある。
 大口を開けて笑ったり、汚い言葉で盛り上がったり、そんなふつうの交友関係とは無縁そうな楚々とした仕草や話口調で、男子からも女子からもどこか一歩距離を取られている。
 話しかけられれば愛想良く答えるものの、深く話すことはない。
 砕けた笑みを見せるのは親友の春原と、従兄弟だとかいう広瀬とのみで、特定の誰かと一緒にいるところをほぼ見かけない。

 教室では静かに本を読んだり、勉強し、放課後になるといつの間にか姿を消している。委員会にも部活にも参加していないようで、カラオケやショッピングに誘われても少し困ったように眉を下げ、「家でやることがあって……」と心底申し訳なさそうに視線を伏せるので、そうすると相手は怯み、それ以上引き止めることはしなくなる。

 柔らかな対応なのに踏み込めないヴェールを纏っている、清楚で大人っぽい白凪さん。
 それが周りの評価だった。

 だが、仁王はそれ以外の顔を知っている。

 去年のことだった。
 屋上の給水塔で昼休みいつものように寝ていると、下の方がにわかに騒がしくなった。屋上庭園は美化委員がたまに訪れるが、給水塔の裏の方は日当たりが悪くジメッとしていて、人があまり来ない。
 仁王は上から声を見下ろした。

 清楚そうな女と、その向かいに女子が3人いる。気が強そうで、腕組みをして睨んでいた。真ん中の女子は、呼び出した側だと言うのにすでに泣きそうになっている。
 困ったようにして睨まれているのが白凪だった。当時仁王は名前を何となく聞いたことがあるくらいで(丸井が可愛いと言っていたから)、厄介事に巻き込まれないよう知らん振りを決め込み、興味を失って目を閉じた。
 だが、真下で起きているので声はよく届く。

「なんで呼ばれたか分かってるよね?」
「うーん、うん」
「従兄弟だかなんだか知らないけど、何様のつもりなの?」
「颯太と真希が付き合ってるの知ってるよね!?」
「人前であんなベタベタしてさ!真希が可哀想じゃん!」

 そこでワッと泣き声が上がった。おそらく、真希という女だ。
 颯太というのはサッカー部の広瀬颯太だろう。中学の頃はエースだったし、テニス部と並んで人気がある。
 聞こえてくる限り、従兄弟と親しくする白凪になんら非はないと思うが、女子にとっては関係がないらしい。テニス部のファンもある程度規律が取れているが、人によって過激なのを抱えているから、こうしたトラブルはちょこちょこ聞く。特に丸井と仁王と切原のファンは強気なのが多い。
 丸井も以前女子と揉めて彼女に振られていた。
 バカバカしくてため息が出る。

「んー、ごめんね…わたしの親、出張でいつも家にいないから、おばさんがいつもお夕食に誘ってくれるの」
 柔らかな声で機嫌をうかがうように白凪が謝ったが、それは女子たちにとって煽りになったらしい。
 キンキン声で「何それ、自慢のつもり!?」だとか、「彼女がいるんだから遠慮しようと思わない、普通」とかヒートアップしていく。
 しばらく宥めるような声と泣き声と責め立てる声が響く。高くなったり、かと思えば低く脅すような声になったり。女子というのは怖いもんじゃ。

 やがて話にならないと思ったのか、「バチン!」と鈍い音が響いた。

「いっ……た……」

 呻くような白凪の声。
 まさかビンタが出るとは。思わず仁王は身体を起こして様子をうかがった。
 白凪が頬を手で抑え、3人の中でも特に強気そうなのが荒い息で肩を上下させている。かなりの修羅場に仁王は少し引いた。広瀬も厄介なのを抱えてるのう、と少し同情する。

「これ以上痛い目見たくなかったら、少しは弁えなよ」
「いつも澄ました顔しちゃって、いい気味」
 白凪は俯いて言われっぱなしだ。
 彼女らしき女が、涙を拭って白凪を睨んだ。
「……颯太にあんまり近付かないで」

 女子たちが去ろうとした時、白凪が「はぁ〜〜……」と大きなため息をついた。
 しおらしく、儚げだった態度がウソのように、腕を組んで不機嫌そうな低い声音で吐き捨てた。
「ビンタされるとか、ありえないんだけど。なんで颯太のバカの色恋なんかにわたしが巻き込まれないといけないのよ」
 女子たちは目を白黒させ、仁王もまばたきした。カッと顔を赤らめた女子が口を開く前に、白凪が彼女の真希とかいう女にツカツカ歩み寄ると、パァン!と負けず劣らずのビンタをし返した。
 仁王は思わず口笛を吹きそうになった。

「キャアッ」
「何すんのよ!」
「真希、ちょっと大丈夫!?」

 彼女が衝撃に尻もちをつき、駆け寄った女子たちが白凪を見上げる。白凪は腕を組んで3人を見下ろしていた。仁王からは背中しか見えなかったが、女子たちが喚こうとする口を思わず噤んだのを見て、顔が見えないことが残念に感じた。
 よほど恐ろしい表情をしているのだろうか。

 白凪は淡々と、気だるそうに言う。

「あのね、嫉妬するのも颯太と付き合うのも好きにしたらいいけど、わたしと颯太は従兄弟なの。血が繋がってるの。わたしのパパの妹が、颯太のママなの。わたし、おばさんには小さい頃から本当の娘みたいに可愛がってもらってるんだ。言いたいこと分かる?」
「は、はぁ?それが何だって、」
「自慢のつもり!?」
「颯太の彼女に虐められてるって、わたし、颯太の親に言うからね」
「ヒュっ」

 何を言い出すかと思えば、まさかの脅し返しときた。仁王は耐えきれず吹き出した。
 真希とかいう女は息を飲み、遠目からでも分かるくらい顔を青ざめさせたが、白凪の口は止まらない。
 静かで、平坦な声音だが、その声は低く怒りが滲んでいた。

「あーあ、会う前から颯太のママに嫌われちゃうね。おばさんわたしに甘いから、颯太に別れろって言い出すかもしれないけど、わたしに関係ないよね?手出してきたのはあなたたちだもの」
「な、そんな、ひどい」
「ヒキョーな手使ってんじゃねーよ!」
「は?卑怯?ひどい?バカなんじゃないの。これから長く付き合ったり、結婚したり、家族との付き合いを考えるなら、わたしとも一生関わることになるってどうして分かんないのかな?少し考えたらわかるでしょ?そしたら、わたしに嫌われるよりわたしと仲良くしておこうってどうして考えられないのかな?」

 ほんと、これだからバカは嫌いなのよ、と白凪は吐き捨てて、また深いため息をつく。

「もちろん颯太にも言うし、颯太のママとパパにもきちんと伝えるわ。別れる別れないは勝手にしたらいいけど、もう一生颯太の親から気に入られることはないと思いなさいね」

 フン、と顎を上げて白凪は肩で風を切り、呆然とする3人を置いて苛立ったようにその場を後にした。
 残された彼女が「どうしよう」と泣き始め、他の2人がキレながら慰めている。仁王は今の光景が忘れられず、急激に白凪という女への興味が溢れてくるのを感じた。
 大人しそうな文学少女というイメージが一瞬で覆される。
 面白いモンを見たと、仁王の唇の端が緩んだ。

*

 その後の顛末は知らないが、噂では広瀬が彼女と別れたと回った。それ以来屋上にいても、白凪がビンタされたり囲まれたりしているところは見ていない。

 今までは見かけることもなかったのに、校内で靡く黒髪を見ると目が追いかけるようになった。探し始めると彼女の周りの空気はやけに澄んでいて、周囲から妙に浮いているので、白凪を見つけるのは容易だった。
 誰かと世間話をしている朗らかで優しそうな白凪と、屋上の白凪は雰囲気がずいぶん違うように思えたが、それでもやはりイコールだ。
 見えない空気の壁が誰に対してもあるのが、少し見ていただけで分かる。
 遠巻きにされるのはそういう雰囲気のせいなんだろう。

 白凪は分かりづらいようで、見ていると分かりやすかった。けれどやっぱり、分からない。
 彼女のことを知りたいような、見ているだけでいいような不思議な楽しさを感じているうちに、気付けば2年になったが、相変わらず距離感は変わらない。

 いや、多少関わりは生まれた。
 例えば、白凪と時折目が合うことが増えたこと。それはもちろん、仁王が白凪をよく見ていて、白凪が春原をよく振り返るからだったが、目が合うたびにふわりと微笑む。
 仁王も小さくピヨ、と鳴いたり口端を釣り上げてみせる。
 だったそれだけの交わりだったが、ほんの少しいい気分になる。

 それから、挨拶を交わすようにもなった。
 春原におはようと言うついでに仁王にも声をかけるのだ。
 だが、昼休み仁王が自分の席で食事していても話しかけてくることはないし、挨拶のついでに雑談に興じることもない。
 話題を振らない仁王も仁王だが、他の女子は今くらいの距離感になれば親しくなろうとする子が多かったので、もどかしくもあり、心地よくもあった。
 彼女は穏やかそうな態度とうらはらに、本当に他人に興味がない。普通ならよく目が合うようになれば、アクションだと思いそうなものだが、気付かないのか、気付いた上でスルーしているのか。

 そして隣の席の春原は相変わらず話しかけても一瞬で会話が終わる。白凪以上の無関心さだ。誰に対しても鬱陶しそうで、それはそれで面白い。
 けれど、ただ眺めてどこかじんわり浮き足立つような気分になるのを楽しむだけというのも飽きたのう。
 そう思いつつ、会話の糸口を掴めない日々を送っていたある日のこと。

 その日の朝練を寝坊して遅刻し、真田の怒鳴り声から逃げて教室に戻ると、まっすぐ柳がやってきた。萎える気持ちを無表情に隠し、どうしたんじゃと問えば柳に説教するつもりはなさそうだった。
「始まる前のミーティングで他には伝えたのだが…」
 個人練のやり方について説明し始めた柳にほっとし、聞き流すような態度で仁王はテキトーに相槌を打って聞いていた。
 生活習慣のリズムが乱れていたり、朝弱いことは参謀はとっくに慣れ切っていて、本当に酷い時にしか口を出してこない。そして柳の叱責をスルーすれば待っているのに幸村の微笑みである。
 つまり、幸村が見逃せなくなりそうなラインでしか柳は口うるさいことを言わない。だから少し焦ったのだがまだ大丈夫そうだ。

「分かったぜよ。わざわざありがとさん」
「そろそろ弦一郎の堪忍袋の緒が切れそうだぞ」
「ピヨッ」
 揶揄うように柳が口元を綻ばせた。この辺りで一度真田の説教でも甘んじて受けておくか。
 しばらく部活について話していると、教室の後ろから「彩芽おはよう」といつも通りの声がした。
「仁王くん、柳くん、おはよう」
「おはようさん」
「ああ」
「あ、そうだ、今少しいい?」

 白凪は柳の目を見て小首を傾げた。柳はうなずき、場所を変えるか?と問うたが、首を振ってふたりで話し始める。仁王の席のすぐそばで話すふたり。
「もう持ってるかもしれないけど、お店に泉鏡花の初版入ったの!柳くん好きだったよね?」
「本当か?どの話だ?」
「番町夜講…だったかな。多少傷んでるけど、修繕してもうお店に出してるよ」
「そうか…ありがとう。今度寄らせてもらおう」
「待ってるね!柳くんが来るとおばさん嬉しそうなの」
「俺こそあの人とは話していて楽しいよ。本の趣味が合うし、知識も豊富で学ぶところが多い。今回の初版も稀覯本だから、入手が難しかったんじゃないか?」
「古い知り合いから譲ってもらったって言ってたよ」

 自分の席に歩きながらふたりは何やら盛り上がって、仁王は妙に冷めた気分になった。柳と話す時の彼女は少し目元が緩み、周囲を隔てる雰囲気が和らいでいるように見えた。
 挨拶する時だけがほんの少しの関わりだったのに、普段はしっかり目を見て掛けられる声があっさりと柳に奪われたように感じ、仁王はつまらなさそうに唇を結ぶ。

 仁王は彼女の好きなことも、話している内容も何も分からない。
 泉鏡花なんて読んだこともない。島崎藤村だの二葉亭四迷だの、仁王は乱読家だが明治やら大正やらの純文学は文体が古すぎて一瞬で読むのを放棄した。
 だが、白凪と世界を共有している柳を目の前で突き付けられると、急に白凪の見ている世界が知りたくてたまらなくなった。

「のう」
 隣の席の春原に声を掛けた。彼女は自分に話しかけられたとは思わなかったのか、集中した眼差しのまま携帯を横向きにして、いつものゲームをしている。
 絵?が踊りながら、丸い模様?が流れてきてリズム良くタップしていた。
 赤髪の男、赤髪の男、赤髪の男……似たような、多分イケメン?が笑顔でなにやら踊り狂っている。これは……アイドル?だろうか。
 おそらく曲が終わったと思われるタイミングで、春原の顔の前に手をかざし、もう一度声を掛けた。

「のう、春原」
「…?私?」
「おはようさん」
「おはよう」

 彼女は酷く不可解そうな表情を浮かべ、困惑して仁王を見上げた。三白眼のキリッとした目元が釣り上がり、まるで睨んでいるようだったが、「え、挨拶のために?」というのが顔に分かりやすく浮かんでいて仁王は少し笑いそうになった。

「何か?」
「いや、いつもそのゲームしとるじゃろ」
「あー?うん」
「そんなに面白いんかと思ってな。最近暇つぶしに俺も何かインストしようかと思ってたんじゃ」
「……え、これ女性向けだけど」
「ほーなんか。まぁよう分からんけど、名前だけ教えてくれん?調べてみるき」

 仁王の言葉に呆気に取られたように鋭い瞳が丸くなり、ゆっくりと眉間にシワが寄った。忙しなくまばたきをして、何度か口を開けたが、結局ボソッとアプリの名前を答えた。
 礼を言う仁王にとてつもなく居心地が悪そうで、とてつもなく不気味そうに仁王を見たが、結局何も言わずにまたイヤホンをしてアプリに戻った。

 アプリの名前を聞いても分からなかったが、とりあえずインストールだけしておく。今日の夜にでも部活が終わったらやってみよう。
 検索すると、やはりとことん女性向けで、学園系とアイドル系が混じったもののようだ。リズムゲームとノベルゲームのふたつがあったが、白凪と春原がやっているのはリズムゲームだった。
 絵は綺麗で、キャラクターも多いらしい。
 正直まったく惹かれる気持ちはなかったが、会話の糸口になるだろうし、おそらくこのアプリの話をしていた時の白凪はあまり見ないほど、楽しげで明るいトーンだった。よっぽど好きなんだろう。
 イリュージョンにも通ずることだが、観察対象の好きな物や趣味を抑えるのは当然のことだ。

 公式サイトのキャラクターの欄をスクロールすると、知らないキャラばかりだったが、聞き覚えのある名前があった。そらくん。たしかそう言っていたはずで、そらという名前がつくのは一人しかいない。
 黄色い髪で天真爛漫そうに笑顔を浮かべる少年はたしかに高校生と思えないほど「ショタ」であったし、仁王とは似ても似つかなかった。
 ……白凪はこういうのが好きなんか。
 仁王は顔面の中の太陽のような笑顔を見つめた。

*

 昼は教室以外で食べることが多いが、最近は時折席で食べる。もちろん白凪がいるからだ。会話はしないが、耳に入ってくる会話を聞くだけでも満足だった。
 だが今日は静かに彼女に視線を送った。
 横顔を見つめ続けてかれこれ5分。しかしながら、一向に視線は合わない。もはや笑えるほどだ。
 白凪はまっすぐ春原を見つめて笑顔で談笑しており、それ以外に視線が向くことはない。話している相手に誠実なところは好ましいと思う。だがいつまでもこうしていても進展はないので、おもむろに「のう、白凪」と声を掛けた。

「ん?」
 パッとこちらを見て「どうしたの?」と顔を傾けた。大きな目が猫のようにパチパチと仁王を見つめ、言いようもなくふわっとした気分に襲われる。
「柳と仲がええんじゃな」
「ああ、朝のこと?そうなの、わたしも本が好きだし」
 また首を傾げる。それがどうしかした?と口にしなくても伝える仕草だ。
「泉鏡花なんて小難しい本を読むんじゃのう。前読もうと思ったんじゃが、すぐに心が折れたぜよ」
「あはは、難しいよね」
 小さく笑って共感の滲むうなずきが返ってくる。愛想笑いの域を出ない笑顔だったが、声を上げて笑ったことに胸の奥が疼いた。
「わたしも近代純文学なら読めるけど、昔のは原文は無理だよ。現代語訳ばっかり」
「現代語訳なんかあるんか。白凪のオススメはどれなんじゃ?」

 いくつか作家名や作品名を教えてもらい、脳内に刻み込む。思わぬ収穫だった。借りて読んでみよう、と思いつつ、本題を尋ねる。

「店っちゅうのは?行きつけの本屋でも被っとるん?」
「ん、あれはわたしの叔母が古本カフェを営んでて。中学の頃くらいから、そのお店に柳くんが通ってて、そこで仲良くなったのよ」
「ほう、古本カフェ」
 ふたりが親しくなったのはその店でだったのか。朝の会話にも合点が行く。
「居心地が良さそうじゃのう」
「うん、店内は静かで、本が沢山あって雰囲気いいよ。珈琲も美味しいし、軽食も置いてあるの」
 店について語る白凪の表情は、まるで火が灯るようにパッと幸せそうになった。仁王は一瞬、言葉をうしなった。その店が好きだとストレートに浮かんでいる。顔だけじゃなく、醸し出す雰囲気にも漂っていた。
 その店に行ってみたいと、見とれながら思う。思うが……そこまで急激に踏み込んでいいのか迷っていると、救いの手が白凪自身から差し伸べられた。
「お店気になる?」
「ん…まぁ」
「店名と住所教えようか?夜は20時で閉まっちゃうけど、もし良ければオフの日とか、気が向いたら遊びに来てよ」
「ええんか?俺、あんま本に詳しい方じゃないけぇ、場違いなんじゃないかと思うんじゃけど」
「そんなの気にしないよ!珈琲だけ飲みに来るお客さんもいるし」

 笑って手を振った白凪が、そこでハッと眉を下げた。
 花が散っていた背景が急に萎むようだった。
「あの、ごめん、ちょっと強引だった?ぜんぜん、むりにってわけじゃないんだけど…」
「いや、かまんよ。俺も気になっとったき、教えてもらえるとありがたいぜよ」
「ほんと?良かった」
 安心したように肩の力を抜く白凪に仁王も安堵した。嬉しそうな笑顔が戻っている。住所を教えてもらい、メモして彼女の目を見つめる。
「後で絶対行くぜよ」
「うん。お客さんが増えたらおばさん喜ぶよ。もし気に入ってもらえたら嬉しいな」

 はにかんだ白凪と、そこで会話が終わり、彼女は春原の方に向き直った。仁王が立ち上がると春原が自分を見ていることに気付いた。
 彼女の目は冷めていたが、奥の方に面白がるような色が浮かんでいた。声は動かなかったが、「へぇ……」と口が動くのが分かった。
 仁王が分かりやすいのか、春原が意外と鋭いのか分からなかったが、それを気にする余裕もなく仁王は人のいない場所に足早に向かった。

 とりあえず手っ取り早く男子トイレの個室に駆け込み、蓋の降りた便座に座る。
 そして深くため息をついた。
 自分だけに向けられた、綻ぶような笑顔や、きらきらした瞳、少し照れたような顔……。コロコロと動いた無垢な表情を思い出して、顔に熱が昇ってくる。

「あー……」

 低く呻いて仁王は口元を手のひらで覆った。
 彼女がこんなにも可愛らしいだなんて、きちんと話したことがなかったから、知らなかった。
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